第二話 知らないはずの名前
本日2話目です。
古戦場の奥には、数え切れないほどの青い火が浮かんでいた。
どれも、あたりを照らしてはいない。遠くの火まで見えているのに、折れた石柱の間には夜の暗さが残ったままだ。
一つに触れただけで、名も知らない男の最期が胸へ流れ込んできた。あの火の一つ一つに同じような記憶が残っているのなら、すべてを見て無事でいられるとは思えない。
「行かないの?」
七歳のノアが、小声で聞いてきた。
「行かない。見つけても追うなって教わっただろ」
「さっきは触ったよ」
「あれは白喰いに食べられる寸前だったからだ。今度は近づいたら駄目だ」
自分にも言い聞かせるように答え、青い火へ背を向けた。
知りたい気持ちはあった。あの斥候が伝えられなかった道は、その後どうなったのか。母親と妹は、帰らない彼をどれほど待ったのか。けれど、今の僕が先に果たす約束は一つだ。
ノアを村へ帰す。
そう考えた途端、さっき足元に現れた三つの青い足跡が、暗い地面で強く光った。
「僕の後ろを歩け。急がなくていいから、同じ場所を踏むんだ」
「うん」
一つ目は、枯れ草に隠れた穴の手前。二つ目はその横の平たい石で、三つ目は崩れかけた石壁の陰へ続いている。
僕が先に踏み、ノアが同じ場所へ足を置く。三つ目へ着くと足跡は消え、その先に新しい足跡は現れなかった。
白喰いの唸り声は、まだ地下から聞こえている。怒っているのは分かるが、深い穴の中で暴れているせいか、声は遠くなっていた。
石壁の陰へ入った所で、左足の膝の下あたりに鈍い痛みが走った。
「あっ――」
前へつまずきかけた僕の服を、ノアが後ろからつかむ。どうにか踏みとどまり、顔を石へぶつけずに済んだ。
「カイ兄、大丈夫?」
「大丈夫。痛いけど、動く」
膝を曲げると、左足はきちんと動いた。ただ、傷口の奥を内側から押される痛みが残っている。
泥の上をはっていた斥候も、左足を傷つけていた。
そう思い当たった途端、胸の奥の青い火が強く揺れた。左足に、傷口を冷たい泥水へ沈めたような鈍い痛みが重なる。濡れてもいない手のひらには、泥をつかんだ手応えまでよみがえった。
(あの人が負った傷の痛みだ)
白喰いをかわした時が一度目で、今の帰り道が二度目になる。続けて呼び出したせいで、斥候の痛みまで流れ込んできたのかもしれない。
一度に見えるのは、本当に三歩だけだ。その三歩を使い終えれば足跡は消え、無理にもう一度呼べば左足が痛む。
地の底で白喰いが吠え、何かが崩れる音がした。立ち止まっている場合ではないのに、痛む足で慌てて走れば転んで大きな音を立てるだけになる。
三つ目の足跡が示した石壁は、穴を遮る位置にあった。僕はノアを連れて、その裏へしゃがみ込む。白喰いは音と地面の揺れを追うのだから、痛みが落ち着くまではここで息を殺すしかない。
「少しだけ、ここで待つ。ノア、穴の鳴き声が上へ近づいたら、すぐ教えてくれ」
「僕がカイ兄を背負う」
「七歳に背負われたら、たぶん別のけがが増える」
「じゃあ、肩を貸す」
ノアは真剣だった。僕が断る前に右側へ回り、肩の下へ頭を入れてくる。背丈が違いすぎて歩きにくいが、その気持ちはありがたかった。
石壁の陰で息を殺しているうちに胸の火は静かになり、傷の痛みも泥の冷たさも少しずつ遠ざかっていった。
もう青い足跡は呼ばなかった。少し歩くたびに止まり、左足と足元を確かめながら柵へ向かう。早く帰りたくても、途中で転べば余計に遅くなる。
やがて、柵の向こうに見慣れた黄色い明かりが見えた。
日暮れの鐘が鳴ってから、もうかなり経っている。僕が戻らないことに母さんが気づき、父さんが灯籠の回収路をたどって捜しに来てくれたのだろう。
「カイ! いるか!」
父さんの声だった。
ノアが返事をしかけたので、僕は口の前へ指を立てた。
誰もいない場所から名前を呼ばれても、返事をするな。
声が似ているだけでは足りない。明かりが近づき、柵の向こうに父さんの顔と手にした灯籠がはっきり見えてから、僕はようやく声を上げた。
「父さん、ここだ!」
「無事か!」
「たぶん!」
「たぶんじゃ分からん!」
「二人とも歩ける。白喰いは穴の中!」
父さんの目が見開かれた。
「白喰いだと? 日暮れの鐘が鳴る前に、奥から境まで来たのか」
「うん。北の灯籠のそばにいた」
父さんは古戦場の暗がりへ目を向けたが、それ以上は聞かなかった。今は事情を確かめるより、僕たちを外へ出す方が先だ。
柵の下へ腹ばいになった父さんが、こちらへ腕を伸ばす。先にノアを押し出し、最後に僕が隙間をくぐった。
父さんの手が腕をつかんだ瞬間、張りつめていた力が一気に抜けていく。
「ここで止まるな。墓道まで下がるぞ」
二十歩ほど下がった硬い墓道まで来ると、父さんは灯籠を地面へ置き、古戦場の音へ耳を澄ませた。
唸り声は、まだ地下の深い場所から響いている。柵の下は子どもが腹ばいで通れるだけの狭さで、あの大きな頭は入らない。穴から出て柵を壊し始めない限り、すぐに追いつかれることはなさそうだった。
「どうして僕たちがここにいるって分かったの?」
「日暮れを過ぎてもお前が帰らないから、母さんに捜してくれと言われた。西と中央の石台から灯籠がなくなっていたから、その先の北まで来たんだ。ここに二つとも置いてあって、柵の下へ二人分の跡が続いていた」
そこまで言うと、父さんは僕の頭を一度強くなでた。
「二人が無事で、本当によかった」
柵の外には、回収した二つの灯籠がそのまま残っていた。古戦場の側には北の灯籠も倒れ、まだいつもの色の火が燃えている。それでも父さんは、取りに行こうとしなかった。
「あれは明日の朝、大人を集めて回収する。今夜は置いていく」
「うん」
「よし。説教も明日だ」
「それも置いていけない?」
「無理だな」
父さんは二つの灯籠を横木へ下げ、僕たちを前に歩かせた。背後では無数の青い火が燃えていたが、僕は振り返らなかった。
◇
家へ着くと、ノアの父のダリオさんと母のリサさん、それに母さんが戸口で待っていた。
リサさんに抱きしめられた途端、ノアは古戦場へ勝手に入ったことを泣きながら話し始めた。自分のせいで白喰いに追われたことも、隠さなかった。
「カイ兄が助けてくれた。僕を連れて帰ってくれた」
ダリオさんが、僕へ深く頭を下げる。けれど僕には、それを素直に受け取れなかった。
「僕が目を離したんです。前へ出るなって言ったのに、ちゃんと見てなかったから」
「それでも、連れて帰ってくれた」
ダリオさんはもう一度頭を下げ、ノアを抱いたリサさんも、涙の残る顔でこちらを見た。
「ありがとう、カイ。ノアを守ってくれて」
まっすぐ感謝されると、何と返せばいいか分からない。僕が小さくうなずくと、ダリオさんは息子の肩を抱き、三人で帰っていった。
ノアたちの姿が見えなくなると、母さんは僕を椅子へ座らせた。足元のたらいには、渦巻きの印が刻まれた保温石が沈んでいる。町で術式を刻んでもらった道具で、湯を冷めにくくしてくれるが、傷をふさぐ力はない。
裂けた上着を脱がされ、背中をぬるい湯で拭かれる。白喰いの前脚は服を破っていたのに、皮膚には細い傷が三本ついただけだった。
「傷は浅いわ。でも、白喰いの爪がもう少し食い込んでいたら、帰ってこられなかったかもしれない」
「……ごめん」
「叱るのは手当てが終わってから。まず、古戦場で何があったのか、最初から聞かせて」
僕は青い火へ触れた所から、あの斥候が見せた記憶と、青い足跡のことを順番に話した。
父さんは作業台へ両手をついて黙って最後まで聞き、母さんも手当てを続けながら、一度も話を止めなかった。
「昔の灯守が残した帳面に、《残火》という言葉がある」
話を聞き終えた父さんが言った。
「ざんか?」
「そうだ。死んだ者が、最後まで手放せなかった願いの名残だ。魂でも幽霊でもない。燃え残った願いが、火の姿でその場所に留まると書かれている」
「じゃあ、あの青い火が残火?」
「その話が本当ならな。ただし、触れた者が死者の記憶を見たとも、胸に火を宿したとも書かれていない」
父さんはそこで言葉を切り、僕の顔を正面から見た。
「よく聞け。明日、大人たちが古戦場を調べるまで、あの力は使うな。何が起きるか分からない」
「分かった」
「白喰いが日のあるうちに境まで来たこともおかしい。昼に俺が北の灯籠へ火を入れた時、柵の近くに白喰いの跡はなかった」
母さんの手が止まった。
「それなら、灯籠が引きずり込まれた後に来たの?」
「分からん。白喰いが灯籠を動かしたのか、別の何かが動かして、白喰いはその後を追ったのか」
答えの代わりに、風が窓を鳴らした。昼間の決まりごとが一つ外れただけで、古戦場と村を隔てる柵まで急に頼りなく見えてくる。
母さんは傷へ薬を塗り、きつくない程度に布を巻いた。
「今夜は休みなさい。考えるのは、朝になってから」
言われた通り寝台へ入ったのに、目を閉じると泥の上をはう男の姿が浮かんでくる。このまま眠れば、僕の記憶とあの人の記憶が混ざりそうで怖かった。
もう一度起き上がり、父さんから使いかけの帳面を一冊もらった。忘れないうちに、別々に書いておきたかった。
最初の行には、斥候の願いを書く。
――安全な道を伝えたい。
次に、できたこと。
――三歩先までの、安全に進める足場が見える。
最後に、気をつけること。
――続けて二度目を使うと左足が痛み、死者の傷の感覚が流れ込む。
三つの青い足跡に合わせて、あの力を《三歩の道》と名づけた。
ところが「斥候の名前」と書いた所で、手が止まった。どれほど思い返しても、あの男の名前だけが出てこない。
名を上げる機会も、生きて家族のもとへ帰る先も捨てて道を伝えようとしたのに、名前すら残らなかった。
せめて、名もなき斥候と書いておこう。
そう決めて炭筆を動かした時、屋根を雨粒が打った。
ぽつり、ぽつりと始まった音が、たちまち激しくなる。
まもなく雨は屋根全体を打ち鳴らし、東の山の方角から、低い雷鳴が壁越しに響いてきた。
僕は、この激しい雨を知っていた。
◇
白い明かりに照らされた部屋に、古い手紙が何箱も並んでいる。
紙を傷めないよう、乾いた指で一枚ずつ広げていく。書いた人の名、受け取った人の名、書かれた年と場所を確かめ、目の前の画面へ打ち込む。
動いている手は、十二歳の僕のものではなかった。
節の目立つ、大人の男の手だ。
『藤代さん、それは保存する一覧から外れた手紙ですよ』
後ろから声をかけられる。
『名前だけでも整理したいので。あと少しで終わります』
『また人の分まで引き受けたんですか。明日でもいいでしょう』
『もう少しだけやっていきます』
小さな郷土資料館で、誰にも読まれなくなった手紙の名前を記録していた。
扱ったのは手紙だけではない。水害の日誌、名前のない古写真、使い手の分からない職人道具、持ち主へ戻らなかった小さな遺品。目立つ英雄ではなくても、誰かを助け、何かを残した人の跡が、棚の中にはいくつもあった。
頼まれた仕事が終わっても、誰かの分を引き受けた。何をしたいかと聞かれると困るのに、何をすべきかなら、いくらでも見つけられた。
景色が変わる。
窓の外は暗く、激しい雨で何も見えない。警告を知らせる音が鳴り続け、床へ濁った水が流れ込んでいた。
僕は――いや、俺は、出口へ向かう人たちを数えている。
『足元に気をつけて。子どもの手を離さないでください』
自分の口から出た声だった。
胸元で、名札が揺れている。
藤代明人。
そこに書かれた名前を、俺は二十八年使ってきた。
◇
「カイ!」
母さんの声で顔を上げると、手の中で炭筆が折れていた。帳面の上には、書いた覚えのない線が長く走っている。
「どうしたの。呼んでも返事をしないから」
「今、また記憶が……」
「斥候の?」
僕は首を横へ振った。
斥候の記憶では、僕は知らない男の最期を外から受け取っていた。
今の記憶は違う。あの大人の手を自分の思い通りに動かし、何を考えていたかも、何を言おうとしたかも分かる。
「藤代明人」
「誰の名前?」
「分からない。でも……僕の名前だった」
母さんが息をのみ、後ろにいた父さんが、ゆっくりと帳面を閉じた。
僕がカイであることは、少しも変わらない。父さんと母さんの子としてこの村で過ごした十二年は本物だ。
それなのに胸の奥には、名もなき斥候の火とは別に、二十八年を生きた男の記憶があった。
思い出せない部分があるからといって、そこに何もなかったことにはできない。資料館で何度も欠けた記録を前にした明人は、そう考えていた。
斥候の最期も同じかもしれない。僕が見たのはあの人の人生すべてではなく、最後に残った一場面だけだ。
その夜、僕は自分の知らなかった名前を思い出した。
藤代明人が、あの雨の日にどうなったのか。
そこだけは、まだ思い出せなかった。




