第三十五話 町の治し方
東門の内側は、人であふれていた。
石畳の両脇へ布や板で囲いが作られ、その中に家族ごとに人が座っている。荷車は轅を上げたまま壁際へ寄せられ、その下にも人が寝ていた。子どもが泣くと、離れた囲いから別の子どもの泣き声が返る。
僕たちを案内する女の人は、その間を迷わず抜けていく。歩きながら、肩越しに名乗った。
「エルナと申します。町の治癒方を預かっています」
治癒方というのは、けがと病を診る者をまとめた呼び名で、その一番上にいる人を指すらしい。村には、その役目そのものが無い。今テオさんが診ているのは、商人一行と一緒に来た薬師がたまたま村に残っているからで、いつまでもいる人ではない。ここでは何人もいて、その全員に順番を出す人がいる。
「ヨルンだ。息子のカイ。こちらがガランと、冠灯院のセラ」
「歩ける方はそのまま来てください。腕の方は、先に見ます」
ガランさんが何か言いかけたが、エルナさんは振り返らなかった。
「順番は私が決めます。治療については、私の指示に従ってください」
「……分かった」
ガランさんは短く答えた。村を出てから、ガランさんが誰かの指図に黙って従うのを、僕は初めて見た。
初めて会った相手への言い方ではないとも思った。頼む言い方ではなく、断られる前に押し切る言い方だ。順番を待たせているうちに手遅れになったことが、ここでは何度もあったのかもしれない。
◇
治療の場所は、広場に面した大きな建物だった。もとは何かの倉庫だったのか、天井が高く、柱が太い。床には敷物が並び、けが人が頭を同じ向きにして寝かされている。
入口の脇に、木の板が立ててあった。
白い線と数字が書かれている。線を引いて消した跡が何度も重なっていた。
「あれは何を書いてるんですか」
僕が尋ねると、エルナさんは板を指した。
「今日使える魔力の量です。上が塔の蓄え、下が私たちの分」
「塔に、ためてあるんですか」
「ためてあります。ただ、勝手にたまるものではありません」
「誰かが入れるんですか」
「術を使える者が、毎日少しずつ流し込みます。一人が一日に入れられるのは、指の先ほどです。町中の術者で協力して、器が満ちるのに三月」
エルナさんは上の段の線を指した。他の段より短い。
「今朝、輪を三つ上げました。あれで、上の段がここまで減っています」
「僕たちも、その輪を見ました。山の間から見えて、それで来たんです」
エルナさんは初めて手を止めた。
「では、無駄ではありませんでした」
助けを呼ぶということは、ここにある魔力を減らすということだった。減った分だけ、今日治せる人が減る。
「毎晩、上げているんですか」
「上げません。獣は毎晩来ますが、それは兵と柵で押し返せます。輪を上げたのは、押し返せなくなったからではありません。壁の外を捨てて、外に住んでいた人を全部中へ入れたからです。壁は保ちます。ただ、この人数へ配る水と食べ物がありません。破られる前に、中で足りなくなります」
「輪が三つというのは」
「一つは知らせ。二つは急ぎ。三つは、こちらではもう保てないという意味です。三つ目を上げたら、次に上げられるのは冬の終わりです」
「魔力を、数えられるんですか」
「正確には測れません。ただ、目安としてなら知ることができます。どれだけ使った日に、どれくらいで戻ったかを書いておいて、今日の体と照らし合わせるのです」
「体と、ですか」
「指の力と、杖の光です」
エルナさんは腰の杖へ手を当てた。
「同じ言葉を言っても、残りが少ない日は、光が杖の先から手のひらぶんしか伸びません。多い日は肘まで伸びます。それを毎日見ていれば、今日どこまでやれるかの見当はつきます」
板の下の方は、線がほとんど消されていた。
エルナさんはガランさんを座らせ、布をほどいた。肩の形を目で見て、指で二か所だけ押す。ガランさんは声を出さなかったが、息が一度止まった。
「外れています。骨は、折れていないと思います。押した時に骨のすれる感じがありません。腕の重さも素直に落ちています。折れていれば、どちらかが違って出ます。ただ、外れた後にもだいぶ無茶をしたのでしょう。腫れがひどいです」
エルナさんは指を離した。
「戻せるのか」
「戻せます。ただ、術は使いません」
エルナさんは短い杖を腰から外し、床へ置いた。置いたのが目に入って、僕は少し驚いた。
「使わないんですか」
「肩を戻すのに術は要りません。手で戻せます。術を使うのは、戻した後で腫れを引かせる時だけです」
エルナさんは助手を二人呼び、ガランさんの体を横にした。
「息を吐いてください。止めないで」
鈍い音がした。ガランさんの喉が鳴り、それから、長い息が出た。
「入りました」
エルナさんは肩を触って位置を確かめてから、初めて杖を取った。杖の先をガランさんの肩へ当て、短い言葉を三つ、区切って言う。
淡い光が肩の上へ広がり、皮膚の色が少し変わった。それだけだった。
「これで終わりですか」
僕が尋ねると、エルナさんは杖を戻した。
「終わりです。腫れが引くのが五日早くなります。それでも、自由に上げられるようになるのは十日後です。完全に治るのは、それ以上かかるでしょう」
「もっと、すぐ治すことはできないんですか」
聞いてから、失礼だったかもしれないと思った。けれどエルナさんは怒らなかった。
「できます。設備のある部屋で、媒介を三つ使って、私ともう一人で半刻かければ、明日には腕が上がります」
「じゃあ」
「その半刻ぶんの魔力で、腹を噛まれた人を一人生かすことができます」
僕は口を閉じた。
「ここには、生きるか死ぬかの瀬戸際の人が九人います。腕が上がるのが十日遅いことと、明日息が止まることを、同じ天秤へ載せるわけにはいきません」
「分かった」
答えたのはガランさんだった。
「十日待つ。その間は、右手で対応できる仕事を手伝おう」
エルナさんは初めてガランさんの顔をまっすぐ見た。
「そう言ってくださると助かります」
◇
僕はエルナさんの後ろについて、建物の奥まで歩いた。
途中で、火の上に大きな鍋がかかっているのを見た。下の薪はとうに崩れて灰になっているのに、火の勢いが落ちない。近くにいた年配の女の人が、鍋の縁へ指を当てて短い言葉を言うと、炎の芯が少しだけ立った。
「あれも魔術ですか」
「火起こしです。村でも使うでしょう」
「母さんが薬草を乾かすのに使ってます」
「同じものです。ここでは湯を絶やさないために使っています」
同じ術でも、使う場所が違えば役目が違う。母さんの乾燥術は、一束の薬草を無駄にしないためのものだった。ここでは百人分の湯を作るためのものになっている。
奥では、若い男の人が布を広げて、その上へ指で線を引いていた。線は光らないが、引いた場所を中心に、布の色が薄く変わっていく。変化は端まで広がって、そこで止まった。
「あれは」
「傷を包む布へ、汚れが移らないようにしています。長くは持ちません」
「布を洗うより早いんですか」
「洗う水が足りません。大きい井戸は北の門の外です。枯れてはいませんが、その門は閉めました。今は中の井戸だけで、増えた人数を回しています」
答えは全部そこへ行き着く。魔術がある町でも、足りない物は足りないままだった。
村で母さんが井戸の水を煮沸していたのを思い出した。あれは魔術を知らなかったからではない。使える術で足りるところは術を使い、足りないところは手と時間で埋めていた。町も同じことを、大きな規模でやっている。
「あなた、字が書けますか」
エルナさんが急に言った。
「書けます」
「数は」
「数えられます」
エルナさんは足を止めて、僕をまっすぐ見た。
「では、頼みたいことがあります。ただし、あなたのお父さんが許すならです」
◇
父さんとセラは、別の部屋で町の人と話していた。
僕が戻ると、机の上に地図が広げられている。ユハンさんの木の板ではなく、紙に描かれた大きなものだった。町と、東の山道と、古戦場へ続く道が細かく書き込まれている。古戦場の側は、輪郭だけで中が白い。
「地下の道は、この線でいいか」
髭の白い男の人が父さんへ尋ねた。町長のような立場の人らしい。
「墓地の下から西門まで、ほぼこの向きだ。ただし今は閉じてある」
「開けられるか」
「人手と道具がいる。それと、中にいるものを何とかしなければ、開けても意味がない」
父さんは墓喰らいのことを、順を追って説明した。灰と残火でできていること。技をまねること。倒したはずが体を組み直したこと。
髭の男の人は途中で口を挟まず、最後まで聞いてからうなずいた。
「そちらの村も、こちらも、同じものに削られているわけだ」
「同じかどうかは、まだ分かりません」
セラが言った。
「町の灰の獣を、私はまだ見ていません。見てから判断します」
「見習いにしては慎重だな」
「見習いだから慎重にしています」
髭の男の人が、初めて少し笑った。
「いい心構えだ。見てから言う者の話は、後で食い違わん」
それから男の人は、あらためて父さんへ向き直った。
「ザハルだ。この町の評定を預かっている。冠灯院へ知らせを出したいなら、うちの伝令へ乗せる。ただし今は北回りしか使えん。届くのに五日だ」
「五日でも構いません。お願いします」
セラは頭を下げてから、少しだけ言葉を切った。
「報告の中身は、私が書いた形のまま送っていただけますか」
「書き換えたりはせん」
セラがなぜそう頼んだのか、僕には見当がついた。冠灯院へ残火のことを報告すれば、僕の中の火は送るよう命じられるかもしれない。中身は聞いていない。けれど、書き換えないでくれと頼むということは、そこに僕のことが書いてあるということだ。
都合よく書き換えれば、僕を守れたのかもしれない。セラはそれを承知で、ありのままに書く方を選んだのだと思う。
話が途切れたところで、僕は道で会った人たちのことを思い出した。
「来る途中で、六人と会いました。荷車が二台で、どちらもほとんど空でした。ドルグさんという人が、東の畑の蔵へ麦を取りに行くと言っていました」
ザハルさんの手が、地図の上で止まった。
「どこで会った」
「二つ目の水場の手前です。荷車は、まだ東へ向かっていました」
ザハルさんは地図の東の端を指で押さえた。
「日のあるうちには着いたな」
「戻っていないんですか」
「戻っていない。東門は日没で閉めた」
指はそこから動かなかった。
「あの蔵は遠い。募って出てもらった。止めなかったのは私だ」
誰も何も言わなかった。父さんが一度だけうなずいて、それきりだった。
僕は、水の包みを押しつけてきたあの手を思い出していた。今日中に戻ると、あの人は言った。
◇
話が一区切りしてから、僕はエルナさんの頼みを父さんへ伝えた。
「壁の中へ入った人の名前と人数を、書き取る役をやってほしいって」
「何人いる」
「まだ数えられていないって。囲いごとに聞いて回れば、三日でできると言われた」
父さんはすぐには答えなかった。ザハルさんの方を見てから、僕へ視線を戻す。
「壁の外へは出ないな」
「出ない。中だけにする」
「行き先は毎回、俺たちの誰かへ言え。一人で人の少ない場所へ入るな」
「うん」
「なら、手伝ってやれ」
許しをもらってから、僕は自分の左足を思い出した。歩き回る仕事だ。
「足は、まだ少し痛い。歩くのはできるけど、走るのは厳しい。だから、走る用事は誰かに頼む」
言ってから、父さんが少し目を細めたのが分かった。前なら、痛くないふりをして引き受けていた。
「それでいい」
◇
その夜、割り当てられた部屋の隅で、僕は《灯名帳》を開いた。
――町では、術を使う場所と使わない場所を先に決めている。肩を戻すのは手。腫れを引かせるのは術。
――強い治癒には、設備、媒介、術者が二人、それと半刻ぶんの魔力がいる。どれか一つ欠けると使えない。
――塔の蓄えは、輪を上げるような大きな術のためのものだ。治癒には回らない。板の段が二つに分かれているのは、そのためだ。
――村に魔術師がいなかったのは、村が遅れていたからではない。四つとも足りなかったからだ。
書いてから、少し考えて、最後の一行を書き足した。
――足りない場所で生きる方法を、村の大人たちは知っていた。
油灯と縄と鉤棒は、魔力が切れない。誰が使っても同じ手順で動く。ルカ村がそれを選んでいたのは、他に何もなかったからではなく、確実だからだ。
窓の外では、壁の上を歩く兵の足音が、一定の間で通り過ぎていく。
その向こうに、青い火がいくつか浮いているのが見えた。
昼に数えた九つより、二つ増えていた。




