第三十四話 半日先の煙
赤い輪が消えるまで、四人とも黙って空を見ていた。
三つ目の輪が薄れると、山の間に残るのは細い煙だけになった。風で散らず、同じ場所からまっすぐ上がっているということは、あそこで何かが燃え続けている。
「行くか」
ガランさんが先に言った。けれど誰も返事をしなかった。父さんは膝へ肘をついたまま煙を見ているし、セラは鐘を膝の上へ置いて、そこから手を動かさない。僕も、歩き出すという言葉の意味がうまくつかめなかった。門を閉じたところで終わりのような気がしていて、その先がまだ頭の中に無いのだ。
ガランさんは四人を順に見てから、もう一度言った。
「ここに座っていても、あの煙は消えん。日が高いうちに歩けるだけ歩く」
右手を石へついて体を起こし、立ち上がって坂の下を指す。
「立て。歩き出せば、頭のほうが勝手に追いつく」
セラが先に立ち上がり、ガランさんの肩の布へ指をかけた。
「締め直します。片手では結び直せません」
「頼む」
セラは結び目をほどくと、腕の重さが下へ落ちない位置まで布を引き上げてから結んだ。ガランさんは一度だけ息を止め、それきり肩には触れずに前を向いた。
父さんが荷物を分け直した。ガランさんの背にあったものを自分と僕へ移し、残った軽い包みだけを右の腰へ下げさせる。誰も、持てないだろうとは言わなかった。
それから父さんは、握ったままだった片手剣を柄の側からガランさんへ差し出した。ガランさんは右手で受け取って左腰の鞘へ収める。鞘の位置は前と同じだが、抜く手は右しかない。抜けるかどうかを一度だけ確かめてから、ガランさんは坂へ足を向けた。
坂は緩く、草が膝の下まで伸びていて、踏むたびに湿った土の匂いがした。古戦場の乾いた石の匂いとは違う。
振り返ると、閉じた西門は坂の途中の岩へ埋もれるように見えた。あの向こうに墓喰らいがいると知らなければ、ただの崩れた石だと思っただろう。
◇
半分ほど歩いたところで、父さんが休みを取った。
「四半刻(約三十分)だ。座れる者は座れ」
僕は靴を脱いで左足を見た。腫れはないがふくらはぎがまだ固く、指で押すと、押した場所より少し上が痛む。
「痛むか」
「押すと痛い。歩くのは平気」
「町に着いたら、向こうの様子は分からんが、余裕があれば医者に診てもらおう」
父さんはそれ以上聞かず、水を一口だけ飲ませた。次の水場が地図の印どおりにあるとは限らないから、飲ませすぎないのだ。
ユハンさんが書き足した水場は二つ。西門の外に一つ、町道へ出る前に一つ。古い方は枯れているかもしれないと言っていた。父さんが地図を広げると、最初の印は僕たちが座っている場所のすぐ先にあった。
行ってみると石の窪みに水はなく、底に苔の跡だけが残っていた。
「もう一つに賭けるしかないな」
ガランさんが言う。
セラは答えず、四人の水筒を順に持ち上げて重さを比べた。
「賭けなくても足ります。二つ目も枯れている前提で、今ここで分け直してください。四人が同じだけ飲めば、町までは持ちます」
「そうだな。そうしよう」
父さんは水筒の中身を四つへ分け直した。多い方をガランさんと僕へ寄せようとしたので、僕は自分の分を少し戻した。
「僕は荷物が軽いから」
「そうか」
父さんは戻した分をそのまま自分の水筒へ移した。断らずに受け取るのは、僕の言い分に理由があると認めたからだと思う。
◇
二つ目の水場の手前で、道の先から人の声が聞こえた。
ガランさんが右手を上げ、四人が止まる。草の上に座る形で身を低くしてから、父さんが草の間へ顔を出した。
「六人。荷車が二台。大人の男ばかりだ」
「兵か」
「違う。荷車はどちらもほとんど空だ。町から出てきて、何かを取りに行く形だな」
僕たちは道の脇へ寄って、先に通ってもらうつもりで待った。けれど荷車の方が先に止まった。
一番年上に見える男が引き手を隣の男へ預けて、こちらへ数歩だけ出てくる。両手は体の横で開いたままだった。武器を持っていないと見せるためだろう。
「おい、あんたらがどこから来たのか知らんが、日が落ちる前にハルドの町へ行って、壁の中に入れ。外で夜を越すな」
男が言った。
「灰の獣が出る。町の外壁の外は、もう兵が守りきれてない」
「町の中は」
ガランさんが尋ねる。
「中は大丈夫だ。壁の内側までは入られてない。だが、外に住んでた者は、みんな中へ押し込まれた。壁のそばの畑も、そのままだ」
二台とも床板はほとんど空いていた。縄と、畳んだ空の麻袋。片方の隅にだけ、布をかぶせた包みが一つ置いてある。中身までは見えない。
「そちらは、外へ出るんですか」
僕が尋ねると、男は道の先を指した。
「ああ、さらに東に、もう一つ畑がある。そのそばの蔵に、去年の麦が半分ほど残ってる。今からそれを取りに行くんだ」
「獣が出るのに」
「出る。だが、町の配る物が心もとない。壁の外から入った者のぶんまで、町の倉から出ているからな。誰かが取りに行かねばならん」
男は指の腹で、荷車の縁をひとつ叩いた。
「一緒に行ける者を募った。集まったのがこの六人だ。日のあるうちに積んで、暗くなる前に戻る。それだけの話だ」
「危なくないんですか」
「危ない。だから女房も子どもも壁の中へ置いてきた。行って帰るのは、この六人だけでいい」
「灰の獣というのは、六本脚か」
「いや、四本脚だ。大きさは犬より少し大きいくらいでな。そのぶん数が多い。夜になると壁の外の畑まで来る」
小さくて数が多い。僕の知っている白喰いとは違う獣だ。
「灰をまとってる?」
僕が尋ねると、男は初めて僕の顔を見た。
「そうだ。斬っても、灰が寄って形が戻る」
セラが銀の鐘へ手をかけた。鳴らさず、耳へ近づけて何かを確かめている。
「町の方向から、残火の返りがあります。数は測れません」
「あんたら、どこから来た」
男が父さんへ聞いた。
「東だ」
「東の橋は落ちているだろう」
男は父さんの顔を見たまま続けた。
「山向こうから薬草の荷が来なくなってな。不思議に思って、町から見に行った者がいる。橋がもう無いと言って戻ってきた」
「俺たちは橋は使っていない。古戦場の地下を抜けてきた」
男は口を開けたまま、しばらく何も言わなかった。二台目の荷車を引いていた若い男が、引き手を置いてこちらへ来る。
「あの中を、通ってきたんですか」
地下のことを知っているのが意外で、僕はその人を見た。
「この辺りの子どもは、みんな聞かされます。古戦場の下には昔の道があるけれど、とっくに塞がっているから探すな、と。それに、あそこには亡霊が出るから近づくな、とも。だから子どもの時分から、誰もあちらへは足を向けません」
「塞がってはいませんでした。狭いところと、崩れかけたところはあります。でも、村の墓地の下から西の門まで、道はつながっています」
僕が言うと、若い男は目を見開いた。
「亡霊は」
「会ってません」
嘘ではない。あそこにいたものは、亡霊とは違う。
この人たちはこれから、壁の外へ半日ぶん出ていく。今夜まで外にいるかもしれない相手へ、眠れなくなる話を置いていく理由はない。
「通ってきた。ただし、こちらから入る門は閉じてある。今は誰も通れない」
父さんの言い方は、通れると期待させないためのものだった。
「町へ知らせを持っていく。ルカ村から来た。東の橋が落ちて、村も物資が足りていない」
「お前たちは助けを求めに来て、こっちも助けを求めてる。ひどい話だ」
男は笑おうとして、うまく笑えなかった。それから荷車の後ろへ手を伸ばし、布に包んだものを一つ取り出す。
「水だ。子どもがいるだろう。これを持っていけ」
「そちらでも使うでしょう」
「うちは今日中に戻る。向かう蔵にも、多少の飲み水はあるからな」
「それに、悪い話ばかり渡して行かせるのも、寝覚めが悪い」
男は包みを父さんの手へ押しつけた。
「それと、東から来たなら知らんだろうが、この先の水場は当てにならん。あそこは先週から出てない」
二つ目も枯れている。僕が父さんを見ると、父さんは少し黙ってから、受け取って頭を下げた。
「感謝する。名前を聞かせてくれ」
「ドルグだ。町の東の畑を管理している農夫だ」
「ヨルン。ルカ村の灯守だ」
父さんは自分では書き留めず、僕へ目を向けた。
「カイ、書けるか」
「書ける」
僕は服の内側から《灯名帳》を出し、新しいページへ書いた。
――ドルグ。町の東の畑を管理する農夫。壁の中に住み、さらに東の畑の蔵へ麦を取りに出た。募って集まった六人と、荷車二台。灰の獣は四本脚で、犬より少し大きく、数が多い。斬っても灰が寄って形が戻る。壁の外は兵が守りきれていない。二つ目の水場は先週から枯れている。
書き終えてから、名前をもう一度確かめた。聞いた名前を書き落とさない。それが、僕がこの帳面へ最初に決めたことだ。
「何を書いてるんだ」
「教えてもらったことです。あとで町の人へ伝える時、間違えないように」
ドルグさんは僕の手元を見て、少しだけ表情を緩めた。
「壁の東門から入れ。北は閉めている」
◇
六人と別れてから、ガランさんが低い声で言った。
「六人で、空の荷車が二台だ」
「一度で運びきる気だな」
父さんが答える。
「三人と一台なら、二度に分けて運べばいい。六人で二台引いて一度で積んで帰るのは、二度目が無いと思っているからだ」
僕は帳面をもう一度開いた。書いてあるのはドルグという名前だけで、あとの五人の欄は無い。名乗ったのが一人だけだったからだ。
聞かなかったことは、書けない。書けない場所は空けたまま置いておく。
道が下り始め、木の間から町が見えた。
石の壁が長く伸びている。ルカ村の柵とは比べものにならない高さで、上を人が歩けるほど厚い。壁の内側には家の屋根が幾重にも重なり、その奥に丸い塔が一つ立っていた。赤い輪を上げたのは、たぶんあれだ。
壁の外には畑が広がっていたはずなのに、今は土が黒く踏み荒らされている。畑と壁の間には、荷車と木材で作った低い柵が急ごしらえで並んでいた。
「あそこまで来られてるのか」
ガランさんが目を細める。
「壁の外を捨てて、内側だけを守る形だ。人を入れるだけ入れて、あとは持ちこたえる」
「持ちこたえた先は」
「増援が来るか、冬が来るかだ」
「冬だと、獣は退くんですか」
僕が尋ねると、ガランさんは首を横に振った。
「知らん。雪が積もれば灰は動きづらくなるという話は聞くが、俺が見たのは白喰いの冬だけだ。当てにする話じゃない」
当てにならない方と、来るかどうか分からない方。どちらも、町の側から起こせることではなかった。
僕は壁の手前を見た。
青い火が、いくつも浮いている。
畑の縁、崩れた小屋の跡、急ごしらえの柵の根元。古戦場ほど多くはないけれど、村では一つも見なかった数だ。しかもどれも小さくて、色が薄かった。
「残火がある」
僕が言うと、セラが鐘を耳へ寄せた。
「新しいものです。古戦場の火とは違います」
「新しいって」
「最近亡くなった方の火です。ここで」
誰かが死んだ場所を、僕は今、火の並びで数えている。数えたくないと思ったが、目をそらせば、見える人が僕しかいない以上、その数は誰にも分からないままになる。
僕は歩きながら、見えた場所を頭の中で並べた。畑の縁に四つ、小屋の跡に二つ、柵の根元に三つ。
九つ。
東門の前まで来ると、木の枠を組んだ簡単な関所があった。槍を持った兵が二人、こちらへ穂先を向けずに立っている。
「名と、来た方角を」
若い方の兵が言った。
「ヨルン。ルカ村の灯守だ。東の山向こうから来た」
「東の橋は落ちているはずですが」
「古戦場の地下を抜けた」
兵が二人とも黙り、年上の方が、ガランさんの固定した左腕と、セラの外套の胸元へ順に目を移した。
「その印は、冠灯院か」
「見習いの灯葬士、セラといいます」
「……少し待ってくれ」
年上の兵が奥へ走った。若い方の兵は、僕たちから目を離さないまま、槍の石突きを地面へ置いたままにしている。
待っている間、僕は壁を見上げた。石の継ぎ目に沿って細い線が刻まれ、途中で折れ、また続いて、壁の上まで登っている。ただの装飾ではない。西門の柱にあった絵と同じで、読める人のために刻まれたものだ。
「あれは何ですか」
僕が尋ねると、若い兵は少し驚いた顔をしてから、目の力を少しだけ緩めた。
「壁のことを聞かれたのは久しぶりだ。ここへ来る人は、たいてい先に食い物と寝る場所を聞く」
それから兵は壁を見上げた。
「壁の術式だ。灰の獣が上がってこられないようにしてある」
「効いてるんですか」
「効いてる。だから中は無事だ」
ルカ村の柵は木で、境を静めていたのは灯籠の火だった。ここでは石と術式が同じ役目をしている。刻まれた線が消えたら、この壁も、ただの高い石積みに戻るのだろう。
やがて年上の兵が戻ってきた。後ろには灰色の上着を着た背の高い女の人がついていて、腰に短い杖を下げている。
「地下を抜けてきたというのは、本当ですか」
女の人が最初に聞いた。挨拶より先だった。
「本当だ」
「古戦場の西門ですか」
「そうだ。出た後で門を落とした。今は通れない」
「あの門は、崩れて塞がっていると町では聞いています。通れる道として数えたことは、私たちも一度もありません」
女の人は一度目を閉じ、それから開いた。
「入ってください。話は中で聞きます」
東門の扉が、人一人分だけ開いた。中から、たくさんの人の声と、煮炊きの匂いと、薬の匂いが一緒に流れてくる。
助けを呼ぶための輪を三つ上げた町は、僕たちが思っていたより、ずっと大きかった。




