第三十話 三歩の符丁
夜明け前、墓地下道の入口が開いた。村人たちが二日かけて土を運び出し、人一人がかがんで通れるだけの隙間を作ったのだ。白喰いが入れるほど広くはなく、入口の左右には新しい丸太を立てて、上から土が落ちないよう板を渡してある。
外にはダリオさんと村人二人が残り、僕たちの縄が全部入ったあと、白い布を入口へ結ぶ。布が内側へ引かれ続けているうちは空気が流れていて、動かなくなればそれ以上奥へ進まない合図になる。
先頭はガランさん、次に父さん、僕と続いて、最後がセラだ。四人とも腰へ縄を結び、前の人と二歩分の間を空けた。誰かが穴へ落ちても全員が同時に引かれない長さで、結び目は自分でも外せる向きにしてある。崩れた石へ一人だけ挟まれた時、残る三人まで引き込まれないためだ。
「行ってらっしゃい」
母さんの声が外から聞こえた。
「行ってきます」
僕は振り返らずに答えた。
「入口は開けておく。四人の声を聞くまで、交代でここにいる」
ダリオさんが支柱をたたく。
「頼んだ」
父さんが答え、暗い地下道へ入った。
灯りは三つ。ガランさんと父さんが油灯を持ち、セラは銀の鐘を握るため灯りを背負っている。僕は両手を空けたまま、《灯名帳》を服の内側へ入れた。
最初の崩落を越えると人が立てる高さになり、壁は同じ大きさの石を積んで、天井は平たい石板でふさいであった。その表面に、白喰いが通った爪跡と、黒い灰が流れた細い線が残っている。
「灰は新しいか」
父さんが尋ねると、セラが鐘を近づけた。
「新しくはありません。鐘の返りが弱く、すぐ近くに墓喰らいもいません」
「いないと決めつけるな。いつでも用心しておけ」
ガランさんが念を押す。
父さんが一度だけ後ろを振り返った。入口から続く白い布は、まだ内側へ引かれている。
「風は生きてる」
空気が流れているなら、この先も塞がりきってはいない。外のダリオさんたちにも布が動いているのは見えているから、声が届かなくても、道が生きていることだけは互いに分かる。
しばらく進むと、道が二つに分かれた。ガランさんが止まるより先に腰の縄が張り、父さん、僕、セラの順に足を止める。
四人が別々の場所を見ていることを確かめてから、ガランさんは灯りを高くした。天井、床、左右の壁。道の先だけを見て進めば、頭上の落石を見落とす。
右は広くまっすぐ続き、左は狭くて少し下っていた。木の地図では補給路が左へ曲がっているのに、その左の入口にかぎって落石が多い。
「地図が古い。右へ道が作り直された可能性もある」
父さんが灯りを周りへ向ける。光が右の壁をなでた時、石の面に細い影が並んだ。
光はすぐ先へ移ってしまう。二歩前で揺れている父さんの灯りへ、声をかけた。
「父さん! そこの壁を明るくして」
灯りが戻り、近づいてくる。三本の縦線がうっすらと残っていた。離して見れば、石の傷と見分けがつかない。左の壁には、横線が三本。
「この印は……?」
胸の奥で斥候の火が強く揺れた。痛みではなく、指先で石へ線を刻んだ時の感覚だった。
暗い夜道。声を出せない斥候たち。先頭の者が後ろへ戻り、右手の指を三本立てる。
三歩右へ。
次の者が同じ合図を、さらに後ろへ送る。斥候の指には小さな切り傷がいくつもあり、壁へ刻む道具を失った時は、石の角を拾って印を残していた。泥の場所では三つの小山を作り、風で消える場所では短い布を三回結ぶというように、同じ意味を場所に合わせて違う形へ変えている。
左の手を横へ倒し、三本の指を出す。
三歩左へ。
戦場では、言葉を使えば敵に気づかれるし、地図を広げる灯りも使えない。だから三歩ごとに足場を覚え、指と壁の刻みで後ろへ伝えた。
「符丁だ」
「何か見えたのか?」
様子が変わった僕の隣へ、父さんが来る。
「斥候たちは、声を出せない場所で三本の指を使ってた。縦の三本は三歩先で右。横の三本は三歩先で左」
父さんはすぐには答えなかった。
「……不思議だな」
壁の刻みへ目を戻す。責める調子ではない。自分の中で納まらないものを、声に出して確かめているようだった。
「百年以上、誰も読めなかった印だ。それを今日、お前が読んだ」
「斥候の記憶だとしか、僕にも言えない」
「疑ってるわけじゃない」
父さんは少し黙ってから、続けた。
「ただ、俺は自分で納得してから道を選びたい。この印は何と読む。俺にも確かめられる形で聞かせてくれ」
当たり前の頼みだと思った。読める者が百年以上いなかった印を、僕が読めたと言うだけでは、父さんの側には何も残らない。
僕は分かれ道の三歩手前へ戻った。縦線は右の壁にあるが、その上端だけが左へ削られている。
「右へ行け、じゃない。三歩進んでから右を避けろ、だと思う」
「それも残火の記憶か?」
ガランさんが尋ねる。
「うん。斥候の記憶で、危険な方へ手を向けてから、反対の手で指を三本見せた。印の向きと、進む向きは別なんだ」
言葉にすると、自分でも確信が揺らいだ。
「能力で確かめますか?」
セラが言う。
「先に、自分で調べる」
もし間違っていれば《三歩の道》を使う。使わないことに意地を張って、三人を危険へ連れていくつもりはない。僕はそのことも声にした。
「小石で確かめて、分からなければ能力で見る」
「そうだな。使える力があるからといって、それだけに頼り切らないのも大事だ」
父さんが答えた。
ガランさんが右の道へ小石を転がすと、五歩分ほど進んだところで石が消え、落ちた音がずっと下から返ってきた。右の床は、薄い石板で穴を隠していたのだ。
セラが銀の鐘を穴の上へ近づけたが、底から残火の反応はない。
「墓喰らいの罠ではありません。少なくとも、残火を使って作ったものではなさそうです」
「戦の時からある落とし穴か」
ガランさんは石をもう一つ落とし、底までの時間を数えた。しばらくしてから、小さく高い音が返ってくる。
「深い。落ちれば、縄があっても上げられん」
三本の刻みがなければ、僕たちは広くて歩きやすい右を選んでいた。
「印どおりだ」
父さんが左の狭い道を見る。
「三歩先で右を避け、左へ入る」
僕は《三歩の道》を使わなかった。斥候が能力を得る前に積み上げていた知識だけで、安全な分岐を選べたことになる。
分かれ道の三歩手前へ戻り、足元の石を拾う。百年以上の間に刻みは浅くなっており、上端の削りも、灯りを横から当てなければ分からない。刻む道具は持っていないが、斥候たちも道具を失えばこうしていた。
石の角を壁へ当てたところで、手が止まった。これは百年以上前の誰かが刻んだ跡で、上から削ればその人の手の形は消えてしまう。けれど読めないまま残せば、この先を通る誰も助からない。
僕は先に《灯名帳》へ線の長さと角度をそのまま写し、それから同じ線をもう一度深く削った。
「読める者がいなければ、意味がないぞ」
ガランさんが言う。
「今日は僕たちが読めた。それに、帰ったら《灯名帳》へ書く」
書いておけば、読める人は増える。百年以上前の斥候は伝える相手を選べず、誰が通るかも分からない道へ、それでも印を残した。今は、伝える先が決まっている。
左の道へ入ると、壁の刻みは三歩ごとに続いていた。右へ三歩、左へ三歩、低い石を越えて、天井の割れ目から離れる。
セラは歩きながら、時々鐘を壁へ近づけていた。
「石にも、細かな響きが残っています」
「墓喰らいなの?」
「いえ。長くここにいた人たちの、ごく薄い残火だと思います」
荷を運び、道を守り、ここで働いていた人がいる。その人たちが誰だったかは壁の石も覚えていないが、刻みを読むたびに、名もなき斥候の記憶が少しずつ言葉になっていった。
「《三歩の道》は、あの人が突然得た力じゃない」
僕は前を歩く父さんへ言った。
「何度も三歩ずつ道を覚えて、仲間へ伝え続けたから、最後に残った願いも三歩の形になったんだ」
「なら、能力を使わず読めるようになることも、受け継ぐことだな」
「うん」
読めるようになれば、青い足跡がなければ何もできない僕ではなくなる。死者の技を増やすことだけが、強くなるという意味ではないはずだ。
壁の刻みの先で道は上り始め、土の匂いに古い木の匂いが混じった。
ガランさんが灯りを低くして足元から細い板を拾い、指で表面をなでてから、折れ口を灯りへ近づけた。
「カイ、これを見ろ」
板は緩く弧を描き、片面だけがつるりとしている。
「荷車の車輪だ。外側がすり減ってる」
「すり減るほど使ったってこと?」
「重い物を積んで、何度も往復した車輪だ。補給路なら当たり前だがな」
ガランさんは折れ口へ親指を当てた。
「ただ、これは腐って落ちたんじゃなさそうだ。割れ落ちたように見えるな」
受け取ると思ったより軽く、百年以上たって木が形を保っているのは、この地下が乾いているからだろう。弧の内側だけが黒く汚れ、外側は白っぽく毛羽立っていた。
何度も通った荷車の車輪がここで割れているなら、その荷車は通り抜けずに、ここで止まったことになる。
「帳面に書くか」
「暗いところで長く止まりたくない。落ちてた場所だけ覚えておく」
板を拾った場所へ戻し、壁の刻みからの歩数を数え直す。父さんが灯りを先へ向けると、さらに奥に、壊れた門の形が暗闇の中へ浮かんでいた。
門の前で、四人は一度だけ水を飲んだ。入口からここまでは予定より短く、油灯の残りも多い。後ろの白い布から続く風が、今も頬に当たっている。引き返す条件には、まだ一つも当てはまっていなかった。
それを全員で確かめてから、僕たちは門へ近づいた。




