第二十九話 消されたページ
出発前の夜、父さんが古い帳面を一冊持ってきた。
「これを見てくれ」
食卓へ置かれたのは灯守の帳面の中でも特に古いもので、表紙の革は硬くなり、角が黒く変わっていた。
昨日の昼に見た時は、途中のページが切り取られていることしか分からなかったが、今は母さんが、糸を傷つけないよう背の部分を少し開いている。
「切られたページの端へ、文字が残っていたの」
母さんが細い針で紙の根元を示す。爪より細い幅のそこに、黒い線がいくつか残っていた。
僕は帳面の下へ新しい紙を敷き、油や手の汗が古いページへ移らないよう、父さんも母さんも指へ薄い布を巻いた。
前の世界なら、光の角度を変える道具や写真を使えた。今あるのは油皿と針と白い布だけだが、道具が足りないから調べられないというわけではない。傷つけない方法を、今ある物で一つずつ試していけばいい。
「読める?」
「このままでは無理」
答えた時、古い紙のにおいが資料館の一場面を引き戻した。明人の記憶は呼べば出てくるものではなく、同じような手つきをした時だけ、その場面だけが戻ってくる。
白い布の上へ破れた手紙を広げ、灯りを低くして横から当てていた。思い出せるのはそこで自分の手がしていたことだけで、なぜそれで見えるのかまでは戻ってこない。
紙そのものをこすれば傷むが、横から弱い光を当てれば、筆圧でへこんだ跡が見えることがある。
「灯りを低くして、横から当ててみよう」
父さんが小さな油皿を机の端へ置いて炎を紙と同じ高さまで下げ、母さんが白い布を反対側へ置いて光を透けやすくすると、切り残された紙の表面へ細い影が浮かんだ。
「文字がある」
全部は読めない。最初に見えたのは「西」で、次の文字は半分しかなく、門の外側だけが残っている。
「西門」
父さんが言った。
少し下には三本の短い線があり、その横に「補」の左半分が残っていた。
「補給路のページだ」
偶然なくなったのではなく、地図から消えた道について書かれたページだけが、刃物で切り取られているのだ。
「次のページも見て」
母さんが帳面をめくると、切り取られた直後のページには、別の筆跡で短く書かれていた。
――北の穴は埋めた。道はない。
文字の最後には、筆を強く止めた黒い点が残っている。
「急いだ字には見えない」
母さんが言う。
「同じ大きさで、まっすぐ書いてある。誰かへ知らせるより、そう決めたことを残した文に見えるわ」
「道は使えない、ではなく、道はない」
僕は二つの言い方を並べた。
「危険だから入るな、とも違う。読んだ人に、探すこと自体をやめさせる書き方だ」
その強さが、かえって何かを隠しているように思えた。
「北の穴?」
「今の墓地下道かもしれん」
父さんは文字の形を、ほかのページと比べる。
「この字を書いた灯守は、名前を残していない。前後のページには同じ筆跡がない」
「道を埋めた人と、ページを切った人は同じ?」
「分からない。埋めたと書いて、実際には入口だけを隠した可能性もある」
僕は《灯名帳》を開き、見えた文字と位置を写した。
――確かめたこと。補給路と西門のページが切り取られていて、その直後に「道はない」と書かれている。
――まだ分からないこと。誰が、いつ、何のために消したのか。
「古戦場へ入らせないためなら、危険から守ろうとしたのかもしれない」
母さんが言う。
「それなら、道が危険だと書けばいい」
僕は答えた。
「ページまで切る必要はない」
「戦の後、道を知られたくない者がいたのかもしれん」
父さんが声を落とす。
「地下道は避難路だけでなく、軍の補給路でもあった。敵が使った道なら、隠す理由はある」
「でも百年以上たっても、誰にも教えなかった」
「教える相手がいなくなれば、秘密だけが決まりとして残る」
ルカ村の子どもは、古戦場へ入るなと教えられる。青い火を追うな。名前を呼ばれても答えるな。その中に「地下道へ入るな」がなかったのは、入口そのものを村が忘れていたからだ。
「僕たちは、消された道へ明日入る」
「そうだ」
父さんは帳面を閉じた。
「だから、地図に線があるだけで安全だと思うな。誰かが消した理由を、途中で見つけるかもしれない」
「見つけたら戻る?」
「理由による。だが、戻る判断を遅らせない」
母さんが、切り取られたページの代わりに新しい紙を一枚挟み、そこへ今日分かったことを書いていく。
「消された記録を、元どおりにはできないわ」
「うん」
「でも、消されたことが分かったという記録は残せる」
藤代明人が、保存から外れた手紙の名前だけでも残そうとしたことを思い出す。なくなったページに何が書かれていたかは全部は戻せないが、誰かが西門と補給路を消したという事実なら、ここへ残せる。
父さんは新しい紙の最後へ、「今代灯守」という役目だけでなく、自分の名もきちんと書いた。
ヨルン。
母さんも、その隣へ名を記す。
メリア。
家族の間では父さんと母さんで通じるが、何十年もあとに帳面を読む人には誰のことか分からない。ヨルンという名は子どもの頃から何度も聞いているし、メリアという名も祭りの名簿へ書くのを見たことがある。
それでも僕は、この帳面で初めて二人の名を「記録する人の名前」として読んだ。親だからいるのが当たり前なのではなく、一人ずつ生きて、考えて、このページを残した人なのだ。
「今までの灯守も、名前を書けばよかったのに」
僕が言うと、父さんは古いページを見た。
「役目が続けば十分だと考えたんだろう。俺も昨日までなら、そう書いたかもしれん」
「これからは変える?」
「まず、俺たちからだ」
「僕も書く」
灯守の帳面へ勝手に書き込まず、母さんが挟んだ新しい紙の下へ、自分の名を記す。
カイ。切られたページの跡を見て、西門と補給路の文字を確かめた。残火の能力は使わず、藤代明人として覚えていた、紙を傷めず見る方法を使った。
何の力で知ったことかまで書いておけば、あとで記憶と推測が混ざりにくい。
僕は《灯名帳》にも二人の名を同じように写した。家族だから忘れないと思っているだけでは、記録にはならない。
帰ってから、今回の道を四人の名前と一緒に最後まで書く。そのためにも、全員で戻らなければならない。
母さんは灯りを消す前に、三人の名が乾いたことを指先で確かめた。
「名前を書いたから、危険が減るわけではないわ」
「分かってる」
「でも、帰ると約束する相手が誰かは、はっきりする」
閉じた帳面の中に、消されたページと、新しく足した三人の名が並んだ。




