第二十五話 灯籠を引いたもの
黒い人影が、穴から地上へ出た。人に似ているのは、二本の脚で立っていることだけだった。
腕は四本あって、長さも太さもそろっていない。右上の腕は大人の腕ほどあるのに、左下の腕は子どもの指を何本も束ねたように細かった。
体の表面では黒い灰が流れ続け、鎧の一部と思われる金属片や、折れた刃が途中から突き出している。
顔に埋まった青い火が、一つずつ強くなった。見えるだけで十以上あり、大きさも色も違う。斥候の残火のように一つの願いがまとまった火ではなく、ばらばらの人から取った火を、黒い灰が無理に同じ体へ押し込んでいた。
見ていると、誰の火から先に声が聞こえるのか確かめたくなった。
「見ないでください」
セラが僕の前へ出て、その背中で視界がふさがれると、確かめたくなること自体が危なかったのだと分かった。
「残火が呼びかけても、返事をしないで」
「声は聞こえない」
「声でなくても、知っている人の記憶を見せることがあります」
「見えた時は?」
「自分の名前と、今いる場所を声にしてください。一人で黙って確かめようとしないで」
水路でガランさんにされたのと同じだ。
「カイ。ルカ村の北の柵」
先に言っておくと、顔の火から注意を外すことができた。
黒い人影の右上の腕がこちらへ伸び、指先から灰の糸が飛んで、父さんの鉤棒へ巻きついた。鉤棒が父さんの手から引かれていく。
「離せ!」
ガランさんが片手剣を抜いて糸を切ると、切れた端は地面へ落ちず、黒い人影の体へ戻っていった。
「墓喰らいで間違いないか」
ガランさんが大盾を構える。
「はい」
セラの声は固かった。
「冠灯院の記録では、たくさんの残火が同じ場所で混ざり、互いの願いを失った時に生まれるとされています」
「白喰いの成長した姿?」
僕が尋ねる。
「違います。灰追いは残火を食べる獣です。墓喰らいは、捨てられた記憶と技が、体の形だけを作ったものです」
「捨てられたって、どういう意味?」
「弔う人がいなかったのかもしれません。あるいは、誰かが名と願いを削ったのかもしれません」
セラは黒い人影から目を離さない。誰かが名と願いを削った。その一言だけが、耳の奥に残って離れなかった。
「冠灯院の記録には結果しか残っていません。ただ、これだけの数が偶然そろうとは思えません」
名もなき英雄の残火も名前を失っているが、斥候には道を伝えたい願いが残り、門番には十の間だけ守りたい相手がいた。目の前のものに残っているのは、技を使う形だけだ。その違いが、黒い灰と青い火の境目に見える気がした。
その時、黒い人影が腕を振り、今度は三本の糸が石台の灯籠へ向かった。
灯籠の黄色い火が揺れる。黒い糸は火へ直接触れず、金属のふたと取っ手へ巻きつこうとしていた。父さんが灯籠を背に隠す。
「前に動かされた時も、あの糸か」
「地面の溝と足跡がない理由は、それで説明できます」
セラが灯籠の空気穴を指すと、金属の内側に黒い粉がこびりついていた。
「先に灰で空気穴をふさぎ、火を消した。そのあと、柵の下から引いたのでしょう」
父さんが灯籠を引かれた日のことを思い出すように、火を見つめる。
「昼に火を入れた時は、黒い灰なんてなかった」
「日が落ちる前に、地面の下から糸だけを伸ばした。墓喰らい自身が境まで来ていないなら、足跡も残りません」
白喰いの足跡が溝の上へあったのは、その後だ。灯籠が引かれ、消えた火の周りに残火が集まって、それを追う白喰いが遅れて境へ来た。順番が、ようやく一つにつながる。
「でも、どうして灯籠を欲しがったの?」
「長く残火の近くで燃えた道具には、目に見えないほど細かな記憶が付着するといわれています」
セラが銀の鐘を一度鳴らすと、灯籠からとても小さな音が返ってきた。
「墓喰らいには、これも食べ物です。それに境の火が消えれば、古戦場の残火が外へ流れやすくなる」
「村を襲うために消したのか?」
父さんが尋ねる。
「そこまで考えているかは分かりません。食べ物を取った結果、道が開いただけかもしれません」
墓喰らいの顔にある火が、また一つ強くなった。今度は、声が聞こえた。
『荷を、こちらへ』
男とも女とも分からない声が、頭の中へ直接入ってくる。
『綱を結べ。遠くても、引ける』
知らない荷車。山道。崖の向こうへ食料を送るため、長い綱を操る人の手。その手には固いまめがあり、右手で引きながら、左手で縄の震えを読んでいる。荷車が石へ当たれば一度緩め、坂へ入れば二度巻き直す。
使い方は分かるのに、誰へ荷を届けたかったのかは見えず、荷車の向こうで待つ顔だけが黒く塗りつぶされていた。斥候や門番の記憶とは違って始まりも終わりもなく、技を使う部分だけが何度も繰り返されている。
「カイ!」
父さんの声で、景色が消えた。
「意識を持っていかれるな! 返事をするなよ!」
「大丈夫、返事はしていない! 技の記憶だけ見えた」
墓喰らいは、荷を遠くから引く誰かの残火を食べ、その願いも名前もなくして、引く動きだけを使っている。
あの黒い糸は魔物の体から生えたものではなく、誰かが綱で荷を引いた技を、そのままの形で使っているのだ。灯籠も測定板も、それで引かれた。
黒い糸が地面を走る。
「線まで下がれ!」
ガランさんの声で、ダリオさんが先に灯籠の取っ手を持った。父さんは鉤棒を捨てず、持ち替えるぶん一歩遅れる。
その一歩を、墓喰らいは見逃さなかった。糸が父さんの足首へ巻きつき、体が古戦場側へ引かれていく。
「父さん!」
僕は腕をつかんだ。ガランさんが大盾を父さんの前へ立てて下端を石台へ食い込ませ、セラが糸へ銀の鐘を近づける。
「一つ送ります!」
鐘が鳴り、黒い糸の中から小さな青い火が一つ抜けて、糸が緩んだ。ガランさんの片手剣が、父さんの足首のすぐ外でその糸を切る。
「全員、灯籠の後ろへ下がれ!」
父さんは足首をさすりながら立ち上がり、僕たちは火のついた灯籠を間に置いて墓道まで下がった。
墓喰らいが柵へ近づこうとする。ダリオさんが弓を構えたが、矢は放たない。灰の体へ刺さっても止められる保証がなく、矢じりまで取り込まれるかもしれないからだ。それでも、構えずにはいられないのだろう。
黄色い火が揺れるたび、黒い灰の体が少しずつ崩れていく。境の灯りはあれを倒す武器ではなく、残火の流れを静めてこちら側へ来にくくするものなのだと、目の前の動きが教えていた。
墓喰らいは柵の向こうで止まり、顔に埋まったいくつもの青い火が僕の胸へ向いた。その奥で、名もなき斥候の火が強く揺れる。
墓喰らいの足元に、青黒い足跡が三つ現れた。僕の《三歩の道》と、同じ並びだった。




