第二十三話 地図にない門
黒い糸が消えた割れ目の先は、地面を掘らなくても分かるかもしれない。
昼前に目を覚ましたユハンさんが持っていた地図は、木の薄い板へ描かれていた。雨で濡れても消えないよう、線は刃物で刻まれて黒い粉がすり込まれている。表には現在使われている山道、裏には古戦場の道があった。
「見張り塔の壁板に挟まっていた」
ユハンさんは壁際の寝床で畳んだ毛布に上半身を預けていて、机はその寝床のそばへ運ばれている。
「古い道を通る前に、使えそうな物は全部調べた。この板も壁の一枚だと思っていたが、ガランが脇口をふさぐのに引きはがして、初めて刻みが見えたのさ」
オルバン村長、父さん、母さん、ガランさん、セラ、僕が地図を囲んだ。リナたちは隣の部屋で休んでいて、ユハンさんだけが地図を説明するため、この短い間だけ上半身を起こしている。
「息が浅くなったり、胸の痛みが強くなったりしたら中断します」
テオさんが戸口から念を押す。
「分かった」
ユハンさんは不満そうに答えたが、テオさんが去ると背を支える毛布の位置を直した。
古戦場の東端にはルカ村、北西には見張り塔があり、その間を、今は崩れた街道がつないでいる。そして地面の下には細い二重線があって、村の墓地付近から始まり、古戦場の中央を避けて西へ曲がっていた。
「これが地下道?」
僕が尋ねると、ユハンさんがうなずいた。
「地図の文字では補給路だ。戦の間、食料と薬を運んでいたのかもしれない」
二重線の先には、四角い印と西門の文字が刻まれている。
「村の灯守の帳面には、西門なんて書かれていない」
父さんが自宅から持ってきた古い帳面を開く。古戦場の地図は何枚かあって、墓道、境の柵、三つの灯籠は描かれているのに、柵の下を通る地下道も西門もない。
僕は二枚の地図で共通する石柱や墓道を探して、木の板の縮尺を確かめた。前の世界の地図記号とは違っても、目印を三つ重ねれば向きは分かる。
「木の地図だけ、西が上になってる」
「持つ者が西へ進むための地図だからだ」
ユハンさんが板の端へ目をやり、父さんが四分の一だけ回すと、補給路は見る人の正面へ伸びた。
「地図は北を上にするものだと思ってた」
「町の地図はな。道案内の板は、進む向きを上にすることもある」
書き方が違うというだけで偽物だと決めず、使った人の立場から考える必要がある。
「昔の村人が、西門も補給路も知らなかっただけではないのか」
オルバン村長が言う。
「ですが、地下道の入口は村の墓石の下にありました」
母さんが答える。
「鐘楼の門石も、古戦場の古い門跡から運んだと伝わっています。全部知らなかったとは考えにくいかと」
母さんの言葉に、父さんが帳面の背を調べ始めた。一冊だけ糸の結び方がほかと違っていて、開くと、途中のページが根元からなくなっている。
前後のページには、雨量と灯籠の油を足した日が続いている。急に戦の記録だけが切れているのではなく、日々の記録の間へあった何かが、選んで抜かれているように見えた。
記録にないことと、起きなかったことは同じではない。
資料館で、明人は何度もそう自分へ言い聞かせた。ここに西門の記録がないのは、門がなかった証拠ではない。むしろ、誰かが「残っていない状態」を作った跡がある。
「切った時期は分かる?」
「糸の古さだけでは分からん」
父さんが答える。
「ただ、帳面を閉じたまま切れば隣のページまで傷つく。開いて、一枚ずつ根元へ刃を入れている」
誰かが急いで破いたのではなく、残すページと消すページを見比べながら作業した跡だ。
「破れたんじゃない」
僕は切り口を見た。紙の端が、同じ幅でまっすぐ残っている。
「刃物で切り取られてる」
「地下道のページだったと決まったわけではない」
父さんは慎重に言った。
「だが、調べる必要はあるな」
セラが木の地図へ銀の鐘を近づけたが、残火の反応はなかった。
「黒い糸が通った跡もありません。この地図を墓喰らいが使ったわけではなさそうです」
「怪物が地図を読むのか?」
オルバン村長が顔をしかめる。
「記憶の中の技をまねるなら、道を覚えた人の記憶まで食べているかもしれません」
地図の補給路には、短い刻みが何度も入っていた。三本で一組。右側へ三本、少し先で左側へ三本。
胸の奥で、名もなき斥候の火が揺れた。
「この印、知ってる気がする」
「残火の記憶か?」
父さんが尋ねる。
「まだ分からない。でも、三本ずつなのは《三歩の道》と同じだ」
斥候の最後の地図にも、倒れた柱の右脇を三歩進み、その先の岩の切れ目を左へ三歩と描かれていた。あれは能力の形ではなく、もともと斥候たちが使っていた伝え方なのかもしれない。
「入口は土砂で埋まっています」
セラが地図の東端を見る。
「掘り直して、西まで通れるでしょうか」
「最初の崩れだけなら、人一人が通れる穴は作れる」
父さんが答える。
「だが、途中が百年以上残っている保証はない」
「墓喰らいの黒い糸は、地面の割れ目へ入った」
ガランさんが言う。
「地下道を使っているなら、少なくとも一部は通れるんだろう。問題は、人間にも通れる広さかどうかだ」
ユハンさんが毛布の上から手を伸ばし、西門の先を指した。
「ここから今の町道までなら、歩いて半日ほどだ。西門へ出られれば、東の橋を渡らず町へ行ける」
薬、鉄、塩を運ぶ道だ。オルバン村長は指を折りながら、町から運びたい物を数えた。
「薬だけではない。東の橋を直す鉄具、冬前に足りなくなる塩、灯籠の油。西へ人が通れると分かれば、向こうから少人数で運べる」
「広さが荷車に足りなくても、背負って往復はできます」
マルクさんが隣室から声をかけた。休んでいても、商人として考えていたらしい。
一本の道が開けば、今回の六人だけでなく、これから村で暮らす人の冬まで変わる。見張り塔から来た人たちが旅を続ける道にもなって、村の孤立も終わる。
セラは地図の西端から目を離さなかった。
「セラは、このあとどうするの?」
「北の巡回路は崩れたままで、師と離れて二日が過ぎました。戻るのは、今は危険だと判断しています」
初めて会った日、セラは日暮れまでに戻らなければ師が北の詰め所へ知らせる決まりだと話していた。
「じゃあ、もう届けは出てるんだね」
「離れた日の夕方に、私は戻らない者として数えられているはずです」
数えられている。その言い方が、塔で番号を呼び合っていた時と重なった。
「師は探しに来ないの?」
「前にもお伝えしましたが、崩れた巡回路へ師が一人で入れば、行方不明が二人になります。師は、そういう無理をしません」
迎えを待っているのではなく、規則の通りに動く人だと信じているから、セラは焦らずにいられるのだ。
「西門から町へ出られれば、冠灯院へ知らせを送れます。師にも、私が生きていると伝わります」
セラはそこで一度言葉を切った。
「ただ、報告すれば規則も動きます」
その先は言わなかった。残火のことを冠灯院へ報告すれば、僕の中の火は送るよう命じられると、前にセラ自身が言っている。だから、早く帰れるといいね、とは言えなかった。
父さんは、セラが話し終えるのを待ってから地図の上へ指を置いた。
「セラの知らせも、六人の旅も、この道が開いてからだ」
指が西門から北の柵まで戻る。
「その前に、北の灯籠を取り戻す。黒い糸が灯籠を引いたのか、確かめる」
灯守は境の灯りを絶やさない。村の人が古戦場を背にして眠れるのは、北の石台に火があるからだ。その火が消えたまま動ける大人が地下へ入れば、村は守りのないまま留守になってしまう。父さんは、村を出る役目と灯りを戻す役目の両方を、自分のものとして数えていた。
「境の灯りを戻さず、地下へ入ることはできない」
僕は《灯名帳》を開き、今日のことを欄ごとに分けて書いた。
――確かめたこと。木の地図に補給路と西門がある。灯守の帳面は、そのページを刃物で切られている。
――考えたこと。三本の刻みは斥候たちの伝え方で、《三歩の道》はそこから来ている。
――まだ分からないこと。誰が、いつ、何のためにページを切ったのか。
まだ分からないことの欄には、答えを書かずに置いた。
北の灯籠は、四日前の夕方から古戦場側に倒れたままだ。今度は、何に引かれたかを知らずに取りに行くのではなく、地面の下にいるものがこちらを見ているかもしれないと分かった上で向かう。
机の上の地図には西門が描かれているが、その前に越えるべき場所は、僕が最初の残火へ触れた北の灯籠だった。




