第二十一話 帰ってきた人数
ルカ村へ戻って最初にしたのは、喜ぶことではなかった。
「けが人は、どうすればいい」
オルバン村長がテオさんへ尋ねた。
「まず横にできる場所へ。湯と乾いた服も要ります」
「ワシの家を使え。湯と服は村の者に運ばせよう」
オルバン村長は、僕たちが戻る前に一階の机と戸棚を壁際へ移して、太い敷物を六枚並べていた。自分の家を診療所として使えるようにしていたらしい。
「家の物で邪魔な物は外へ出せ。壊しても構わん。まず体を温めろ」
命令する声は大きかったが、オルバン村長自身もユハンさんを乗せた大盾の端を持っていた。胸をひどく負傷したユハンさんは、大盾に乗せたまま運ばれる。村へ着いたからといって、すぐに起こしたり背負ったりはできない。テオさんの指示で上半身を少し高く保ち、姿勢を崩さないように寝床へ移した。白喰いに捕まった者はいないが、水路で足をぬらし、泥地を歩いた全員が疲れていた。
リナはユナさんから毛布をかけられ、温かい飲み物を両手で持っている。
「カイ兄、このお姉ちゃんも塔にいたの?」
ノアが僕の袖を引いた。
「うん。塔にいた六人の一人だよ」
リナは毛布を肩へ引き上げ、ノアを見た。
「塔では七番だった。古戦場では、姿の見えない所から名前を呼ばれても、返事をしちゃいけないから」
「僕は柵で十一人を数えたよ」
「十一まで数えられるなんて、えらいね」
リナは毛布の中で、自分の名を確かめるようにもう一度言った。
「リナ。ここでは、そう呼んでいいんだよね」
「いいよ。僕はノア」
古戦場で名前を隠した時間があったからこそ、安全な場所で呼び合えることがうれしいのだと、二人を見て分かった。子どもの声が広場にあるだけで、見張り塔の暗さが遠ざかった気がする。
それでも、僕はまだ笑えなかった。濁った水の音が、耳の奥に残っている。
「カイ」
母さんが僕の顔をのぞき込む。
「まず着替える。話はそのあと」
母さんの目は、濡れた服ではなく僕の顔で止まっている。何かあったと気づいたらしいが、ここでは尋ねなかった。
「でも、ユハンさんは大丈夫?」
「テオさんが見ています。あなたが見ても治りません」
言われてみれば、その通りだった。自分にできないことまで抱えようとしている。藤代明人が何度も繰り返したことを、僕も同じように始めていたのだ。
「分かった」
今度は言い訳をせず、家へ戻った。短い道でも母さんは僕の左側を歩いている。肩を貸すほどではないが、足の力が抜けたらすぐ支えられる距離だ。
僕は「平気」と言わず、その距離を受け入れた。
◇
着替えて温かいスープを飲むと、左足の痛みはかなり軽くなった。父さんと母さんを前にして、資料館で見たことを最初から話していく。
豪雨。非常口。最後に外へ出た母子。倒れた白い棚。右足を挟まれたこと。助けてほしかったのに、戻ろうとした職員まで自分一人の判断で遠ざけたこと。
「それで、藤代明人は死んだ」
口にすると、胸の奥が少しだけ静かになった。母さんはすぐに慰める言葉を言わない。
「怖かった?」
「怖かった。死にたくなかった」
「そう」
母さんの手が僕の手へ重なり、その指に少しだけ力がこもった。
「明人のことを、どう受け止めればいいのか、まだ分からないわ」
母さんは言葉を選びながら続けた。
「でも、あなたがカイで、私たちの子であることは変わらない。明人として生きた時間も、あなたが大切にしているなら、私も大切にしたい」
僕は母さんの手を握り返した。
「明人をいないことにはしたくない。でも、今ここにいる僕を見ていてほしい」
「ええ。目の前のあなたを見ます。明人のことも、あなたが話したい時に聞かせて」
父さんも静かにうなずき、僕の胸元へ目を向けた。
「カイとして生きた十二年と、明人として生きた二十八年。どちらか一方を選ぶ必要はない。怖かったことも、悔やんでいることも、お前の中にあるなら一緒に受け止める」
父さんが机に置いた《灯名帳》を見たので、僕はその新しいページを開いた。
「斥候と門番の記憶とは分けるのか」
「うん。受け取った記憶と、僕自身の記憶は別にする」
新しい一ページ目に、残火から受け取った記憶の見出しを書く。
――残火から受け取った記憶。
次のページにも線を引いた。
――僕自身の、以前の記憶。
藤代明人の最期は、二つ目へ書いた。誰かから受け継いだ英雄の話ではなく、自分の人生を、自分の失敗も含めて残すための記録だ。
それから、前のページの「考えたこと」の欄を開いた。明人は生まれる前の僕だったのか、と書いたまま置いていた一行がある。その行へ線を引き、隣へ短く書き添えた。
――そうだった。
最後に、こう書き足した。
――助けを求める前に、相手の危険まで一人で決めた。
さらに、今日できたことも書いておく。
――古戦場の水路で、少し待ってほしいと伝えた。
失敗だけを並べれば、《灯名帳》を開くたびに自分を責めることになる。変えられたことも残してこそ、次に同じ場面が来た時の道標になるはずだ。
「次はどうする?」
父さんが尋ねる。
「助けが必要なら、必要だと言う。みんなと一緒に方法を考える」
「今日のようにな」
十一人は、一人の能力だけで帰ったのではない。それさえ忘れなければ、藤代明人の二十八年も、ただ同じ失敗を繰り返すための記憶にはならない。
◇
午後、オルバン村長の家で、町へ通じる別の道を話し合った。
マルクさんの話を聞きながら、僕は一行がここへ来るまでの道筋を頭の中でたどった。南方の集落を出て、商品を山あいの町まで運ぶはずの旅で、家族も連れていくため、出発前にガランさんを護衛として雇ったという。けれど南の広域路が土砂でふさがれていて、仕方なく古戦場へ回ったところで白喰いに襲われ、見張り塔へ逃げ込んだ。そして僕たちに助けられ、ルカ村へ来た。
町はマルクさんたちの本来の目的地であり、ルカ村としても、橋の崩落を知らせて薬と塩と鉄の補給を頼まなければならない。だからユハンさんをすぐ町へ運ぶのではなく、まずは連絡を届けられる道を探すことになった。
マルクさんは、東の崩れた橋を遠くから見ていた。
「橋脚が一本、谷へ落ちて、上の板も一緒に流されたままです。斜面の崩れも広がり、残った橋脚へ近づく道まで削られています。村側だけで直すなら、木を切るところから始めて十日では足りません」
「町側へ知らせる方法は?」
オルバン村長が尋ねる。
「東からは無理です。私たちも、南の道が土砂で埋まり、古戦場の古い街道へ回りました」
ユハンさんは壁際の寝床で、畳んだ毛布に上半身を預けている。息は塔にいた時より落ち着いているが、テオさんからは長く話さないよう言われていた。
「古戦場を西へ抜ける道がある」
ユハンさんが寝床から言った。
「ガランが来た道か?」
オルバン村長が尋ねる。
「違う。もっと古い道だ。見張り塔の地図に、地下を通る線があった」
ユハンさんが上着の裏を示すと、テオさんがそこから油紙に包まれた薄い木板地図を取り出し、机の上へ広げた。
「ただし、入口がどこかは分からない。今の地図には載っていない道だ」
父さんと僕は顔を見合わせた。村の墓地下から見つかった、あの古い地下道。西へ続いているなら、崩れた東の橋を待たずに町へ知らせを出せるかもしれない。
「明日、地図を見せてくれ」
父さんが言った。
「いろいろ話したいこともあるだろうが、帰還したばかりだ。今は全員休もう。カイもだ」
ガランさんが付け加え、僕をじろりと見る。
「僕は何も言ってない」
「顔が、今から墓地下道の入口を掘り返すと言っている」
否定できなかった。
ユハンさんが笑おうとして胸をかばい、息を整えてから、ガランさんへ言った。
「十二歳の顔まで読めるなら、案内人に向いてるぞ」
ガランさんは親指で僕を示した。
「こんな十二歳が、ほかにもいてたまるか」
そう冗談を返してから、僕の左足へ目をやる。
「足の痛みが完全に引いてから教えてくれ。今はテオの言うことを聞け」
話を僕へ戻されて、今度は部屋の何人かが笑った。見張り塔では護衛と案内人だった二人が、こうして無事に言い合える。それも十一人で帰った結果の一つだ。
僕は助けが必要だと話し、みんなで方法を考えると書いたばかりだった。
家へ帰る道で、明日どちらを灯すか決めた。地図を見るだけで終わるとは思えないし、柵の外へ出るなら、盾より道がいる。
選んだのは、また斥候の火だ。門番の火は、今夜も眠ったままになる。
一人で先へ行く代わりに、明日まで待つ。それも、藤代明人にはできなかった選び方だった。




