第二十話 十一人で帰る
二体の白喰いは、別々の方向から近づいていた。塔から追ってきた一体は泥地の向こうにいて、水路の向こうでは、石壁の陰から爪が石をかく音がする。
「北西へ追いやった一体か」
父さんの問いに、ガランさんがうなずいた。
「音具を追わせている間に、俺たちは塔へ入った。水路で待つうちに、下流側から戻ってきたんだ」
ガランさんが泥地を指す。
「塔から追ってきた方は後ろだ。挟まれたな」
村へ戻るには、前にいる白喰いの横を通らなければならなかった。
「正面の一体を水路へ落とす」
ガランさんは、水路の両岸に立つ石柱を見比べた。
「十一、後ろの一体は《送火》で動きを鈍らせられるか」
「任せてください。できるだけ時間を稼ぎます」
セラは腰の銀の鐘へ手を添えた。
「ただし、《送火》が届くのは短槍の間合いまでです。鐘も続けて三度鳴らせばいいわけではありません」
セラは続けて言った。
「一度目で灰を浮かせ、その反応を確かめてから、二度目で中の残火を離します。三度目で送り出すまで、白喰いの近くにいなければなりません。前の響きが残っているうちに鳴らしても、次の段階には進まないんです」
「分かった。三度鳴らす時間は俺たちが作る。後ろは十一に任せ、縄は正面へ使う」
「十一人が水路を渡る時間は?」
父さんが尋ねる。
「作る。五、全員が向こうへ渡れる道は見えるか」
「やってみる」
僕は立ち上がって左足を確かめた。今は痛くないが、泥地に続く二度目を使えば痛みが出ることは分かっている。
テオさんが僕の足元へしゃがんだ。
「靴先を押します。押し返してください」
言われたとおりに力を返すと、テオさんは僕のかかとを支えた。
「次は膝を曲げてください。痛むところはありますか」
「ありません」
テオさんが、ガランさんと父さんへ伝えた。
「今は問題なく動いています。ただ、《三歩の道》をもう一度使えば、痛みが出るのでしょう?」
「はい。これが二度目になります。使うのは、この一度だけにします」
僕が答えると、ガランさんが僕の目を見た。
「分かった。痛みが出たら、すぐに言え」
「分かった」
「三歩だけで渡れる場所を探す」
胸の奥で斥候の火が揺れたが、青い足跡はすぐには現れなかった。
誰のための道かを考える。ガランさんと父さんが運ぶ大盾。胸を負傷し、少しの揺れも危険なユハンさん。リナ。リナの家族。十一人全員。
三つの足跡が、水路の左へ現れた。一つ目も二つ目も水の中で、三つ目だけが向こう岸の石だ。
「水へ入る道だ」
「深さは?」
ガランさんが尋ねる。
「足跡の所なら安全。でも、どこまで沈むかは分からない」
「安全な足場でも、深さまでは分からない。まず俺が確認しよう」
ガランさんは、足場の深さと広さを確かめるため、一人で水路へ入った。一つ目の足跡へ足を置くと水は膝の下で止まり、二つ目も同じ深さだ。水底の石は両足を置けるほど広く、体重をかけても動かない。
「この深さなら、問題ない。盾も運べる」
ガランさんが向こう岸へ上がり、同じ足場を通ってこちら側へ戻ってきた。
「前から一人ずつだ。走らず、前の者が岸へ着いてから入れ!」
一人、二人と水路を渡る。渡った者は向こう岸の石壁へ背をつけ、先に渡ったボルさんが次の者へ手を伸ばして岸へ上げた。
水中にある一つ目と二つ目の足跡は僕にしか見えないうえ、濁った水の中には前の人が踏んだ跡も残らない。
「もう少し左! そこが一つ目! 次は、まっすぐ前へ!」
僕は一人ずつ足元を見て、同じ場所へ足を置けるように声をかけた。やがてリナの番になる。
「冷たい?」
「冷たい。でも、底は固い」
僕が先に水へ入って手を差し出すと、リナはユナさんの手を離し、僕の手をつかんだ。
「三歩だけ?」
「三歩で向こうだ」
一つ、二つ、三つ。リナが岸へ上がる。
その間に、父さんとダリオさんは太い縄で、引けば締まる大きな輪を作っていた。輪の部分だけを白喰いが音具へ近づく進路へ平たく置き、そこから伸びる二本の端を、水路の両岸にある石柱へ一本ずつ回す。
手前側の端をダリオさんが握り、向こう岸では先に渡ったボルさんが、父さんから渡されたもう一方の端を握った。石柱を支えにして二人が同時に引けば地面の輪が締まり、両方の前脚をまとめて転ばせられる。
さらにガランさんが、残していた最後の音具を取り出した。細縄の一端を水路沿いの石へ結び、穴を開けた骨と小石の束を底へ投げると、流れに引かれた骨が石へ当たって、水の中で続けて鳴り始める。僕たちが離れたあとも、細縄が切れない限り音は止まらない。
正面の白喰いが石壁の陰から出て、音を追って水路へ頭を向けた。
「まだだ」
ダリオさんとボルさんが両岸で縄の端を握り、七人目、八人目が渡っていく。
泥地側の白喰いが、崩れた壁の間から姿を現した。列の最後尾まで大人の足で二十歩ほどしか離れておらず、六本の脚が石畳を打つたび、その距離が縮まっていく。走り出されれば、すぐに追いつかれる。
セラが列の後方から離れ、右手で短槍を構えた。左手には布を抜いた銀の鐘を握っている。胸の高さまで上げてはいるが、まだ鳴らさない。作戦を決めた時にセラが説明した《送火》の間合いには遠すぎて、今鳴らしても術は灰まで届かず、自分の居場所を教えるだけだからだ。
十歩。五歩。
白喰いが崩れた石を越えて、灰をまとった前脚を伸ばす。セラの短槍の穂先が、その前脚へ届く距離に入った。
「一回目、鳴らします!」
その瞬間、銀の鐘が響き、泥地の白喰いから白い灰が薄く浮いた。横一文字の口がセラへ向く。
「十一、下がれ!」
ガランさんが番号で呼ぶ。一度目の鐘にひるんだ白喰いの前脚が止まり、セラはその隙に一歩下がって、二度目の鐘を鳴らした。灰の間から青い火が離れ、白喰いの動きが鈍る。
「九、十、俺と一緒に渡るぞ!」
九番のテオさんが、十番のユハンさんを固定した大盾の横につく。父さんとガランさんが前後を持ち、盾を傾けないよう足跡の上だけを進んだ。テオさんはユハンさんの肩の下へ手を添えたまま、呼吸が浅くなっていないかを見続ける。
正面の白喰いは、水中の骨へ向かって走り出した。横一文字の口を開いて水面ぎりぎりまで頭を下げ、目がないからこそ、骨が鳴った場所へ迷わず進んでいく。
右の前脚が輪へ入ったが、そのまま向こう側へ抜けかけた。今引いても一本しか捕らえられない。ダリオさんが細い棒で水面をたたくと、骨の音より半歩だけ白喰いに近い場所で水音が鳴った。白喰いは新しい音へ頭を向け、踏み出しかけた右脚を輪の中へ戻す。続く左の前脚も輪へ入り、二本が中央にそろった。
「今だ!」
ダリオさんとボルさんが両岸から縄の端を同時に引く。輪が縮まって白喰いの二本の前脚をまとめて締め、支えを失った巨体が前へ倒れた。
重い頭が水路へ落ちて、濁った水が高く上がった。白喰いは六本の脚を暴れさせたが、水路の狭い壁に挟まって、すぐには向きを変えられない。
「三、縄を石柱へ結んで渡れ!」
ダリオさんは手前側の縄を石柱へ固く結び、僕の声に従って水路を渡った。
「五、渡れ!」
向こう岸には九人いて、こちら側に残っているのは、五番の僕と十一番のセラだけだ。
「十一が先!」
「私は最後まで止めます!」
セラは役目を果たそうとしている。けれど僕が先に渡れば、水音と白喰いの足音に声をかき消されて、僕にしか見えない水中の足場を、向こう岸から正確に伝えられない。
「三度目の隙に渡って! 僕が足場を伝える!」
セラが岸へ着いたら、僕も同じ三歩を続ける。それが二人で帰る一番早い道だ。
「すぐ後ろから行く。十一人で帰るんだ!」
セラは僕を見てうなずき、背後を振り返った。二度目の《送火》で動きは鈍っているが、白喰いはまだ短槍の届く距離にいる。
セラが三度目の鐘を鳴らすと、泥地の白喰いから灰が大きくはがれた。
「十一、今だ!」
セラが水路へ入る。
「一つ目は少し左! 次は右足を半歩前!」
僕の声を聞いたセラは、水の中でも足を止めずに三つの足場を渡りきった。僕も続く。
一つ目。二つ目。左足へ冷たい痛みが走る。
(あと一つ)
三つ目を踏み、父さんの伸ばした手をつかんだ。
「全員、このまま音を立てずに進め!」
ガランさんが大盾の前を持ち直す。テオさんはユハンさんの息が渡る前と変わっていないことを確かめてから、胸を揺らさない速さで進むよう父さんたちへ伝えた。
水路へ落ちた白喰いが、脚に絡んだ太い縄を切り始めていた。それでも頭は、流れの中で鳴り続ける骨へ向いたままだ。泥地から来た一体も足を止め、村とは反対にある水路へ頭を向けている。
「追跡を切る。だが走るな。ゆっくり墓道へ移るぞ」
もう固い墓道までは遠くない。僕たちは番号を確かめながら進んだ。一から十一まで、途中で一度も返事は欠けなかった。
背後では骨と小石の音がしばらく続き、白喰いの六本脚が地面を打つ音は、少しずつ遠ざかっていった。
◇
北の柵が見えた時、村人たちが内側からこちらを見ていた。横木へ手をかける村人を見て、盾を運んでいるガランさんの代わりに、ダリオさんが列の前へ出た。片手を高く上げ、もう一方の腕を胸の前へ横にする。止まれという合図だ。村人はすぐに手を止め、声を出さずにうなずいた。
十一人は音の響きにくい石の上で足を止めた。ダリオさんが一人で来た道を少し戻り、しばらく地面の音を聞いてから、全員にだけ聞こえる声で告げる。
「追ってきていない」
ダリオさんの声を聞いてから、父さんが柵へ向き直った。
「開けてくれ」
太い横木が外されて柵が開くと、門柱のそばにノアが待っていた。僕たちが通る場所を空けたまま、指で一人ずつ示しながら小声で数え始める。
大盾を運ぶガランさんと父さん、その上のユハンさん。盾の横につくテオさん。僕、リナ、ユナさん、マルクさん、ボルさん、ダリオさん。最後尾のセラ。
セラが村側へ入った瞬間、ノアの数える声が十一で止まった。
「十一人! ちゃんと十一人いる!」
ノアの声を聞いてから柵が閉じられる。太い横木が二本とも掛かり、見張りが合図の板を手に取る。ガランさんとダリオさんは隙間から古戦場側をもう一度確かめた。
「ここから先は、村の中だ」
父さんがそう言って初めて、全員の肩から力が抜けた。ユナさんはその場へ膝をついてリナを抱きしめ、ボルさんは顔を両手で覆う。テオさんだけは泣くより先にユハンさんの呼吸を確かめ、寝床へ移す者を呼んで、胸を圧迫しない肩の外側と腰の革帯から順に緩めていった。
ノアが僕の前まで駆けてきた。
「約束どおりだね」
「うん。十一人で帰った」
その後ろで待っていた母さんが、僕の肩を抱く。
「お帰り」
母さんの声を聞いた途端に左足から力が抜けたが、転ぶ前に、母さんと父さんが両側から支えてくれた。
「助けて」
僕は小さく言った。
「足が、もう動かない」
「言えたね。あとは任せなさい」
母さんが僕を座らせ、父さんがテオさんを呼ぶ。帰り着くまで一人で立ち続けることが、約束の終わりではなかった。
ノアは僕のそばに残っている。
「木の音、役に立った?」
「塔へ近づく途中で、白喰いを一度、遠くへ向けてくれた。ひもは枯れ木へ残してきたが、大活躍だ」
ガランさんが答えると、ノアは胸を張った。
「ありがとう、ノア。あの音がなかったら、塔へ着く前に見つかってたかもしれない」
僕が言うと、ノアは照れたように鼻の下をこすった。
「次はもっと遠くで鳴るのを作る」
「次がないことを祈りたいけどね」
古戦場の向こうでは、まだ白喰いの声が響いている。東の道も直っておらず、何もかも終わったわけではない。北へ流れていく残火も、帰りに調べるはずだったのに、確かめる余裕は一度もなかった。
それでも、見張り塔にいた六人はもうそこにいない。《灯名帳》へ書いた十一という数を、消さずに済んだ。




