第十九話 濁った水の向こう
泥地を抜け、来る時には使わなかった道を進んだ。崩れた壁の間に残る石畳の先に、石で囲まれた水路がある。百年以上前には、雨水を古戦場の外へ流すために使われていたのだろう。今は半分崩れ、濁った水がたまっていた。
「昨日より水が増えている。これでは盾を運べん」
昨日はすねの半ばほどだった水が、今はガランさんの腰近くまで増えていた。上流から流れ込んだ泥で茶色く濁り、底は見えない。
ダリオさんが下流へ目を凝らす。崩れた石と流木が水路の狭い場所へ重なって、水の流れをせき止めていた。ガランさんが通ったあとで、上流から流れ着いたらしい。
この深さでは、ユハンさんを乗せた大盾を運ぶどころか大人でも足を取られかねないし、誰か一人が滑れば、盾ごと濁った水へ倒してしまう。
「水路を回り込めないの?」
僕が尋ねると、ガランさんは上流と下流を順に指した。
「上流側はかなり遠いうえ、道も崩れている。この人数と盾で回り込める状態じゃない。下流側は塔の北へ回り込む道だ。北西へ遠ざけたもう一体が、そちらから戻ってきている」
背後では、塔の中から追ってきた白喰いが泥地を渡れず、こちらへ回り込める場所を探している。来た道へ戻ることもできない。
十一人全員と大盾が通れて、そのうえ渡ったあとに音具で白喰いを留められる場所は、ここしかなかった。
僕たちは水路の手前で足を止めた。休むためではなく、この水位のまま、底の見えない水へ十一人で入るわけにはいかなかったからだ。
ただし、全員が並んで待てるほど広くはない。父さんたちは崩れた壁へ身を寄せ、リナはユナさんと僕の間に立った。ユハンさんを乗せた大盾だけは、上半身を少し高くしたまま、傾かない平たい場所へ下ろす。
「ここで全員を向こう岸へ渡す。同時に、追ってくる白喰いもここで止める」
ガランさんが言った。
「先に足場を確かめる」
急がなければならない。だからこそ、急いでは決めない。
「ここを越えれば、村側の墓道まで近い」
ガランさんが水面へ身をかがめ、短剣をさやごと真下へ沈める。握った手が水面へ触れるところまで下げても、さやの先は底へ届かなかった。
「昨日は水が澄み、底の石まで見えた。今は濁って、深ささえ測れん。短剣でも届かんほど深い」
泥地で《三歩の道》を一度使っているから、ここで続けて使えば二度目になって左足が痛む。すぐには使わず、石の陰へ座った。
狭い割れ目を抜ける水が、低い音を立てている。ごう、と水がうなった。石壁の向こうへ遠ざかった響きが、今度は足元から戻ってくる。ごう。さっきより近い。
胸の奥まで震わせるこの音を、僕は知っていた。次の響きが耳へ届いた瞬間、目の前の古戦場が消える。濁った水と湿った土の匂いが、消毒液と古い紙の匂いへ変わった。
これは斥候の記憶ではない。そう考える間もなく、僕の意識は雨の日へ引き戻された。
◇
濁った水が、資料館の床を流れていた。僕は大人の手で非常口の扉を押さえている。停電した廊下には職員と見学者が残っていて、外の駐車場まで水が入り、正面玄関は開かない。
『足元に気を付けてください。子どもの手を離さないで』
自分の声を、今度ははっきりと聞いた。藤代明人の声だ。
職員が一人、見学者が三人と非常口を抜け、最後に残ったのは小さな男の子と母親だった。男の子は水を怖がって、扉の前で動けなくなっている。
『大丈夫。三つ数えたら、お母さんと一緒に出よう』
明人はしゃがみ、男の子と同じ高さで数えた。一、二、三。母親が男の子を抱え、外にいる職員へ渡す。
『あなたも早く!』
母親が振り返った。
『すぐ行きます。先に高い所へ』
明人はそう答えたが、すぐには外へ出なかった。廊下の奥を見て、誰も残っていないか確かめる。
『誰か残っていませんか!』
廊下の奥へ呼びかけたが、返事はない。それでも、聞こえなかっただけかもしれないと思って、もう一度だけ確認しようと扉から奥へ戻った。
その時、建物の横から水が流れ込んだ。白い金属棚が倒れて明人の右足が棚と床の間に挟まり、紙の束が水へ落ちて、古い手紙が一枚ずつ流れていく。
そのうちの一枚へ手を伸ばしかけて、違う、と思う。今は手紙を拾っている場合ではなく、棚に挟まれた自分の足を抜かなければならない。棚を押す。動かない。
外から、職員が明人の名を呼ぶ声がした。なかなか来ないことを心配して、戻ろうとしている。
『大丈夫! 上へ行って!』
明人は叫んだ。
助けてほしかった。本当は、ここで死にたくなかった。資料館には続けたい仕事があったし、休みの日に行こうと思いながら何年も後回しにした場所もある。頼まれた仕事ばかり終わらせて、自分が望んだことは、まだ一つも始めていない。
誰かに助けてくれと言えばよかった。仕事を代わってくれと言えばよかった。戻ろうとする職員へ、離れた場所から縄を投げてほしいと頼めたかもしれない。けれど明人は、また自分だけで決めてしまった。
濁った水が胸まで上がってくる。非常口の向こうにいる男の子と母親は壁に隠れて見えない。助かっただろうか。
開いた扉の隙間から、二人を高い所へ導く職員の背中だけが遠ざかっていった。二人は助かったのだ。その背中を見て、胸の奥の張りが少しだけ緩む。
それを見たところで、藤代明人の二十八年は終わった。
◇
「五!」
一番のガランさんが僕の番号を呼び、すぐに口をふさいだ。暴れかけた僕の体を、石の壁へ押さえつけている。
「声を出すな。ここがどこか見ろ」
目の前には濁った水路。背後には父さん、セラ、リナたち、十一人。資料館ではない。
リナがユナさんの服を握り、こちらを見ていた。ユハンさんは浅くても途切れず息をしている。胸を締めつけない革帯も、肩の下の外套もずれていない。セラの銀の鐘は布を詰められたまま、音を立てずに揺れている。今見えるものを一つずつ数えると、息が水に沈む感覚が薄れていった。
「ルカの古戦場」
僕が小声で答えると、ガランさんの手が口から離れた。
「今のは残火の記憶を見ていたのか?」
ガランさんが尋ねると、セラも隣へしゃがんだ。
「違う。僕自身の記憶」
口にしてから、息が震えた。
(あれは、生まれる前の僕だった)
《灯名帳》の「考えたこと」の欄に置いたままだった一行が、今は答えに変わっていた。
「藤代明人は、あの雨の日に死んだ。最後の人を外へ出したあと、棚に足を挟まれて、水の中で」
父さんの顔が動いた。両親にも、死んだことまでは話していなかったのだ。
「今、話せるか」
父さんが尋ねる。
「帰ったら全部話す。今は進まないと」
「全部は帰ってからでいい」
父さんは僕の肩へ手を置いた。
「だが、このまま進めるかは今ここで確かめる。歩けるのか。道を見られるのか」
「歩ける。道も見られる。でも、少しだけ待ってほしい」
助けが必要なら言う。ただ、今の僕はまだ冷静ではないから、このまま急いで決めても正しく判断できないだろう。さっき見た明人の後悔を、同じ日のうちに一つだけ変えられた。
「分かった。待つ間は俺たちが守る」
ガランさんが僕の目を見る。
「本当に今の自分へ戻ったか」
「戻った。カイ。十二歳。ここには十一人いる」
「なら、水路を見ろ。能力はまだ使うな」
厳しい声だったが、急がせるためではなく、自分の目で現在を確かめさせるためだった。
僕は水面を見た。濁って底は見えないが、水路の壁には先日の雨で流されてきた枯れ草が引っかかっている。水面に浮かぶ草の切れ端は、右側の崩れた壁へゆっくり流れ、割れ目の中へ消えていた。
「何が分かる」
「雨がやんで、上流から流れてくる水は少なくなってる。でも、右の割れ目からは今も流れ出してる。入ってくるより出ていく方が多いなら、水は少しずつ減る」
ガランさんが枯れ草を一本、水面へ落とすと、枯れ草は右へ流されて割れ目へ吸い込まれた。
「このまま割れ目が詰まらなければ、まだ水位は下がりそうだな」
「うん」
「白喰いが待ってくれればな」
ダリオさんが水路の上流と下流を見比べた。
「下流の割れ目を少し広げれば、もっと早く水が引かないか」
「音が出る。それに石を外して急に流れれば、足場まで崩れる危険がある」
ガランさんは否定して、濁った水面へ目を戻した。
「昨日、渡れた時の深さまで水が引かなければ、大人でも足を取られ、盾を安全に運べん。ここを渡るなら、待つしかない。その間に縄を準備する」
何もしないで待つのではない。父さんとダリオさんが縄の輪を作り、セラが列の後方から鐘を鳴らせる距離を測る。テオさんは僕の顔色を確かめてから、ユハンさんの息の深さと胸の痛みが変わっていないかを尋ねた。
水面が下がるまでの短い時間は、塔を出てから初めて全員が足を止められる時間にもなった。
「今のうちに水を飲め。食べられる者は、少しでも腹へ入れておけ。五、お前ももう少し休め」
ガランさんに言われて、父さんたちが母さんから預かった包みと水筒を配る。僕も固いパンを一口分だけ割って干した果物と一緒にかみ、水を二口飲むと、乾いていた喉がようやく楽になった。
テオさんはユハンさんの胸を圧迫しないよう肩と背を支え、水を一口だけ飲ませた。息を整えるのを待ってから、もう一口。むせたり息が浅くなったりすれば、すぐやめるためだ。食べ終えた者から縄や荷物の準備を代わったため、誰も長く休めたわけではない。それでも、歩く者は村まで進む力を少し取り戻すことができた。
やがて水面が下がり、ガランさんがもう一度、短剣をさやごと沈めた。今度はさやの先が水底の石へ触れる。濁りは残っているが、ようやく渡る方法を探せる深さだ。
遠くで、六本の脚が泥を打った。塔から追ってきた一体だ。反対側の石壁の向こうからも、別の足音が近づいている。
二体の白喰いが、水路を挟んだ僕たちへ近づいていた。




