02. 前世の記憶
真っ暗な世界の中で、セイレナは漂っていた。
どこか遠くで声がした。
セイレナの意識が、ゆっくりと別の何かと接続された。
それは映像だった。
電車の窓から見える景色。
買い物帰りのビニール袋。
畳の部屋とテレビから聞こえる音。
ピアノの鍵盤に楽譜。
コンクールのトロフィー。
ぼろぼろになったピアノの練習本。
友人の笑い声。
「また練習してるの?」と呆れた顔をする母の声。
これは、誰の記憶?
違う。
これは、私の記憶だ。
セイレナ・ルマッセルは生まれる前、日本で生きていた。
名前は……そうだ、思い出せる。
三十八年間の人生を、ピアノに捧げた女だった。
幼い頃から、ピアノを弾いていたこと。
プロとして活動していたこと。
難曲と呼ばれるものを片っ端から制覇していったこと。
それにゲームとアニメの曲が大好きで、よく弾いていたこと。
そのすべてが、鮮明に蘇った。
それから、ふっと意識が浮上した。
目を開けると、天井があった。
(ええ~、これって転生!?ウソでしょ!!)
薄暗い小屋の天井だ。
イセルトの顔が視界に入った。
「セイレナ!あぁセイレナ、目が覚めたか!よかった……!」
イセルトは目を赤くしていた。
その隣に侯爵家の医師らしき老人が立っていた。
「お嬢様は、頭を打たれております。しばらくは安静にして下さい」
「……お兄様」
「大丈夫か?どこか痛むか?一体何があったんだ、どうしてこんな……」
セイレナは、ゆっくりと口を開いた。
「お兄様、これは……カスティーナに石を投げられたのです」
イセルトの目が、鋭くなった。
「……カスティーナが?」
「はい」
「そうだったのか」
イセルトの声は低く、静かだった。
だが拳を強く握り、怒りを抑えているようだった。
「お兄様、お父様に言ってもどうせ信じないでしょう」
「……そうだな」
苦渋の顔でイセルトは答えた。
「今までのカスティーナの行動から、何をしでかすか分からない。私はお前の方を信じる」
「ありがとうございます」
セイレナは微笑んだ。
その笑顔がいつもより穏やかで、どこか違う雰囲気だったからかイセルトは眉を寄せた。
「セイレナ、本当に大丈夫か?なんか……雰囲気が変わったような気が……」
「大丈夫です。少し……いろいろと思い出していただけです」
イセルトは不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
翌日、ズクールはセイレナの元へ医師を寄越し、一言だけ伝えさせた。
「その程度の傷なら問題ない。回復したら小屋に戻れ」
医師は申し訳なさそうな顔でその言葉を伝えた。
セイレナは「分かりました」と答えた。
怒りは、もちろんあった。
だが今の彼女の中には、それ以上の何かが灯っていた。
前世の記憶と技術、そしてどこか俯瞰したものの見方があった。
(まぁ、いいじゃないの。小屋でも生きていける。前世だって、学生時代は狭い部屋で十分にやっていたんだし)
セイレナは仰向けになったまま天井を見つめて、ふっと笑った。
ルマッセル侯爵家にある元庭師の小屋は、こじんまりとしたものだった。
長年使われておらず、窓枠は歪んでいた。
床板はところどころきしみ、天井には蜘蛛の巣が張っている。
備え付けの寝台はがたついていて、眠るたびに不安な音を立てた。
セイレナはその小屋を、まじまじと見回した。
(前世でDIYも趣味だったのよね)
趣味としていたがはたから見たら、もはやそれは職人レベルだった。
セイレナはまず、屋敷の使わなくなった道具置き場から工具を借り出した。
イセルトがそれを見て「一体何をするんだ?」と首を傾げたが、セイレナは「見ていてください」とだけ答えた。
侯爵家には資材の貯蔵庫がある。
庭師が使っていた材料がたくさんあった。
それらを使うからと願い出ると、驚いたことに管理の使用人が快諾してくれた。
「お嬢様が、ご自分でなさるのですか?」
「ええ。少し、作りたいものがあるの」
使用人は目を丸くしたが、資材を分けてくれた。
「工具の扱いには、十分にお気をつけ下さい」
それから、セイレナのDIYが始まった。
まず床板の補修をした。
きしんでいる板を一枚ずつ剥がし、下地を確認して新しい板を丁寧に張り直す。
カンカン、トントン、という音が庭に響いた。
次に、窓枠の歪んでいた木枠を修繕した。
壁は綺麗にふき取り、天井にある蜘蛛の巣を払った。
寝台はがたつく足を補修した。
棚を作り、机を作った。
小さな鏡台も作った。
カーテンは、屋敷の物置にしまわれていた薄い布を見つけ、縫い合わせた。
針と糸は幼い頃から刺繍の授業で習っていたので、手縫いも十分こなせた。
屋敷の厨房に頼んで、小さな暖炉用の薪を定期的に分けてもらう取り決めもした。
侍女のラーナは、朝と夜の支度をしてくれる。
食事を運んでくるのも彼女だった。
「お嬢様……本当に大丈夫ですか?」
「おかげさまで、小屋生活も案外楽しいものよ」
セイレナは本当にそう思っていた。
時折、イセルトが小屋を覗きにきた。
彼は軽く扉を叩いて開けた。
綺麗な壁に、張り直された床。
カーテンのかかった窓から差し込む光。
こじんまりとした部屋の中には棚に本が並び、手作りの机の上には花瓶に野の花が活けてある。
暖炉には小さな火が灯り、空間全体がほのかに温かい。
「……セイレナ」
「いらっしゃいませ、お兄様!」
セイレナは椅子から立ち上がり、にっこりと笑った。
「またずいぶんと……変わったね……」
「そうでしょ!」
「普通、貴族令嬢はこんなことできないぞ」
「ふふん!才能よ!」
イセルトは、驚きながら室内を見回した。
妹が刺繍や手作業を好むことは知っていた。
手先も器用だと思っていた。
だがこれは次元が違う。
「……いや……もうこれ、職人技だと思うんだよ……」
「棚は少し苦労しましたが、机と椅子はわりと上手くできたと思います。どうぞ、座ってみて下さい」
イセルトはおそるおそる椅子に座り、机を手で叩いてみた。
びくともしない。
「……うん……丈夫だね……」
「ふふ、そうでしょう!」
イセルトはしばらく呆然としていたが、やがてふっと笑った。
「セイレナ、お前は……本当にすごいやつだな」
「これからが楽しみですわ。あと、小さな薬草園を作ろうかと」
「薬草園まで?!」
二人は、久しぶりに声を上げて笑った。
その後も、セイレナは小屋での生活を着々と充実させた。
侯爵家の書庫からイセルトがもって来てくれた本から植物の知識を得て、小屋の前に小さな畑を耕してハーブを植えた。
そして、音楽。
イセルトが、古い小型ピアノを屋敷の物置で見つけ出した。
その話を聞いたセイレナは持ってきてほしいとお願いをした。
セイレナはその古ぼけたピアノの前に座り、前世の記憶を辿るように鍵盤に指を置いた。
小型のピアノは十分に弾けた。
セイレナの指が、ゆっくりと動き始めた。
最初は簡単な曲からだった。
それが次第に複雑になり、頁をめくるように記憶の中の曲が蘇ってきた。
そのうち、窓の外にふわふわとした光の粒が集まってくることに、セイレナは気がついた。
それは妖精だった。
この世界では、妖精は珍しくなかった。
だが普通は人里に近づかないと言われていた。
ましてや音楽を聞いて集まってくるなど聞いたことがなかった。
妖精達は小屋の窓の外でくるくると回り、キャッキャと声を上げながら踊っていた。
「可愛らしい妖精さん達。こちらにどうぞ」
セイレナが窓を開けると、妖精達はびっくりして一度散ったが、すぐに戻ってきた。
そして窓枠に並んで、セイレナの演奏を聞き始めた。
セイレナは、その光景をいたく気に入った。




