中編
離縁届を書いた翌朝。
私はいつも通り、朝食の席へ向かった。
食卓には公爵夫妻、ロナルド、キャロラインが揃っている。
「おはようございます」
「おはよう」
ロナルドは何事もないように微笑んだ。
私は同じように微笑み返す。
もう期待はしていなかった。
だから、心は不思議なくらい穏やかだった。
三日後。
両家を交えた話し合いが開かれた。
場所はゴールディング公爵家の応接室。
父と母、公爵夫妻、ロナルド、そして私。
部屋には重苦しい空気が流れていた。
最初に口を開いたのは、公爵だった。
「離縁とは穏やかではない。理由を聞かせてもらえないか」
私は静かに頷く。
「はい」
その前に、デボラがため息をついた。
「リネットさん」
相変わらず穏やかな笑みだった。
「何か誤解があったのでしょう」
「……」
「わたくしたち、家族でしょう?」
私は彼女を見つめた。
「ええ、その言葉は何度も伺いました」
「でしたら、家族同士で済む話ではありませんか」
「そうですね」
私は頷いた。
「では、家族だったから譲った物をお話しいたします」
部屋が静まり返る。
「夜会用のドレス。キャロライン様が欲しいと仰ったので譲りました。祖母の形見のブローチ。大切な物でしたが、家族だからと言われ、お貸ししました」
一度、言葉を切る。
「返ってきた時には壊れていました」
キャロラインが慌てて口を開く。
「少し曲がっただけじゃない!」
「そうですね」
私は穏やかに答えた。
「私にとっては、母から受け継いだ大事な祖母の形見でした」
キャロラインは黙った。
「そのほかにも、髪飾り、手袋、宝石、夜会の席。すべて、家族だからという理由で譲りました」
デボラは笑みを崩さない。
「家族とは助け合うものですもの」
「はい」
私は頷いた。
「だから私は譲り続けました。ですが」
一度、言葉を切る。
「私が皆さんから何かを譲っていただいたことは、一度もありませんでした」
沈黙が落ちた。
ロナルドが戸惑ったように私を見る。
「そんなに……あったのか」
「何度か相談いたしました」
「……」
「その度に、あなたは仰いました」
私は彼を見る。
「『母に悪気はない』と」
ロナルドは何も言えなかった。
思い出したのだろう。
私は責めるような声ではなく、事実だけを述べた。
「私は助けてほしかったのではありません。せめて話を聞いてほしかっただけです」
一度、言葉を切る。
「そして、悪気がないからといって、傷ついた事実がなくなるわけではありません」
ロナルドの顔から血の気が引いていく。
デボラは不快そうに眉をひそめた。
「ずいぶん大げさですこと。物はまた買えば済みます。形見だって、思い出は心に残るでしょう?」
父が拳を握った。
「公爵夫人」
低い声だった。
「娘にとって形見とは、その程度の物ではありません」
「でも家族でしょう?」
デボラは当然のように言う。
「家族だから譲る。家族だから我慢する。私は間違ったことを教えた覚えはありません」
一拍置いて、穏やかな笑みを浮かべる。
「私は、すべてあなたのためを思って言ってきたのです。立派な公爵夫人になれるよう、厳しく教えてあげただけです。それを恨まれるなんて、思ってもみませんでした」
その言葉を聞いた瞬間。
私は思わず、小さく笑ってしまった。
部屋中の視線が集まる。
「何がおかしいの?」
デボラが尋ねる。
私はゆっくり顔を上げた。
「お義母様。ロナルド様は、お義母様の宝なのでしょう?」
「もちろんです」
デボラは胸を張る。
「私の自慢の息子です」
「でしたら」
私はにっこり微笑んだ。
「のしを付けて、お返しいたしますわ」
部屋が凍り付いた。
誰一人、言葉を発しない。
デボラだけが目を見開いている。
「……な、何ですって?」
「宝物は、持ち主の元へお返しするのが礼儀でしょう。私は、そのお手伝いをしたまでです」
私はロナルドを見た。
「ロナルド様にとって、一番大切な方は、最初から決まっていたのでしょう」
最初から。
夫婦になる前から。
ロナルド様の一番は、お義母様だったのですから。
ロナルドが立ち上がった。
「違う!」
その声は、初めて取り乱していた。
「俺は……!」
「私を大切に思ってくださっていたことは分かっています」
私は穏やかに遮った。
「ですが」
一度、息を吸う。
「守ってはくださいませんでした」
ロナルドは言葉を失った。
その時だった。
「失礼いたします」
応接室へ老執事が入ってきた。
長年ゴールディング家に仕えてきた執事だった。
「旦那様。この件について、お話ししたいことがございます」
公爵が驚く。
「お前まで?」
「はい」
老執事は深く頭を下げた。
「奥様がリネット様へ繰り返し嫌味を仰っていたこと。キャロライン様が何度も私物を望まれたこと。使用人一同、存じております」
デボラが立ち上がる。
「何を言っているの!」
「嘘です!」
しかし老執事は首を横に振った。
「嘘ではございません。皆、奥様を恐れ、口にできなかっただけです。私どもも、リネット様をお守りできず申し訳ございませんでした。」
続いて侍女長も前へ出た。
「私も証言いたします。リネット様は毎回、『家族だから』と言われ、断ることができませんでした」
さらに料理長、庭師、侍女。
一人、また一人と頭を下げる。
「私も見ておりました」
「私もです」
「私も」
デボラの顔色が変わった。
「あなたたち……!」
ロナルドは震える声で父を見た。
「父上は、ご存じだったのですか?」
ジュードは苦しそうに目を閉じた。
「……気付いてはいた。だが、デボラがうまくやっていると思っていた。口を出せば余計に揉めると……そう思ってしまった」
その声には後悔が滲んでいた。
ロナルドは静かに頷いた。
「そうですか」
一拍置いて、父をまっすぐ見つめる。
「父上も……母上を信じていたのですね」
ジュードは苦しそうに目を伏せた。
「……ああ。デボラなら、うまくやってくれると思っていた。口を出せば余計に揉めると……そう思ってしまった」
その声には、深い後悔が滲んでいた。
ロナルドは目を閉じ、小さく息を吐く。
「私も同じでした」
静かな声だった。
「母上に悪気はない。母上に任せておけば大丈夫だと……そう信じていました」
一度言葉を切り、自嘲するように笑う。
「その結果、リネットを傷つけた」
ゆっくりと目を開き、父を見る。
「父上も……私も、家族から目を背けていたのですね」
その言葉は、公爵だけではなく、ロナルド自身の胸にも深く突き刺さっていた。
ジュードは何も言い返せなかった。
ロナルドは深く息を吸い、私へ向き直った。
「……リネット。すまなかった」
初めてだった。
心からの謝罪だった。
けれど。
私は静かに首を横へ振る。
「今更もう遅いのです」
ロナルドは目を閉じた。
「私はもう、元に戻るつもりはありません」
その顔には、深い後悔だけが残っていた。
公爵は重々しく口を開く。
「……離縁を認めよう」
その一言で、すべてが終わった。
私は立ち上がり、両親とともに一礼する。
「今まで、お世話になりました」
デボラだけが叫んだ。
「わたくしたち、家族だったでしょう!」
私は振り返る。
もう涙は出なかった。
「いいえ。私は家族ではありませんでした」
私は静かに告げた。
「私は最初から、お義母様にとって都合の良い嫁だっただけです」
そう言い残し、私は応接室をあとにした。
その背中を、誰も引き留めることはできなかった。
◇
ゴールディング公爵家を去ってから、半年が過ぎた。
私は伯爵家で穏やかな日々を過ごしていた。
離縁した娘を気遣い、父と母は何も急かさなかった。
それでもある日、父が少し言いづらそうに切り出した。
「実は、一つ縁談が来ている」
相手は辺境伯、カーティス・アシュフォード様。
戦場では鬼神と呼ばれるほど勇猛な方だが、領民思いで誠実な人柄だと評判だった。
「事情はすべて承知の上で、一度お会いしたいそうだ」
私は少し迷った。
もう一度、誰かの家族になることが怖かったから。
父は穏やかに微笑む。
「無理にとは言わない。ただ、会ってみてから決めても遅くはない」
その言葉に背中を押され、私はカーティス様とお会いすることにした。
◇
初めてお会いしたカーティス様は、噂とは違い、とても穏やかな方だった。
席に着くなり、彼は静かに頭を下げる。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
辺境伯である彼が頭を下げたことに、私は少し驚く。
そして彼は、ゆっくりと口を開いた。
「まず、お伝えしたいことがあります」
私は顔を上げた。
「あなたは、何も悪くありません」
その一言に、胸の奥が熱くなった。
「離縁されたことも、ご自分を責める必要はありません。私は事情を伺った上で、それでもあなたにお会いしたいと思いました」
私は思わず俯く。
「……ありがとうございます」
震える声でそう答えると、彼は優しく微笑んだ。
「無理に過去を忘れなくても結構です」
その穏やかな声に、私は顔を上げる。
「ですが、これから先まで、その過去に苦しめられる必要もありません」
慰めるようでも、励ますようでもない。
ただ、私の気持ちを尊重してくれる言葉だった。
その温かさが、胸に静かに染み渡っていく。
それから何度かお会いするうちに、私は少しずつ自然に笑えるようになっていた。
ある日、別れ際にカーティス様が少し照れたように笑う。
「もし、ご迷惑でなければ」
一呼吸置いて、真っすぐ私を見つめた。
「今度は私と、本当の家族になっていただけませんか」
私は彼の瞳を見つめ返す。
そこには、誰かを変えようとする傲慢さも、「家族だから」という押しつけもなかった。
ただ、私という一人の人間を大切にしたいという想いだけがあった。
自然と笑みがこぼれる。
「はい。喜んで」
その返事を聞いたカーティス様は、心から安堵したように微笑んだ。
私はようやく知った。
家族とは、「家族だから」と誰か一人が我慢し続ける関係ではない。
互いを思いやり、尊重し合える人たちのことを言うのだと。
もう私は、誰かの都合の良い嫁ではない。
大切にされる喜びを知り、同じように大切にしたいと思える人と、本当の家族になれたのだから。
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続きは本日21時30分に投稿予定です。




