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「あなたも家族だから」と言われて嫁いだ公爵家では、私だけが家族ではありませんでした ~のしを付けて、お返しいたしますわ~  作者: 黒猫と珈琲


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前編

「リネット」


 父に名前を呼ばれ、私は顔を上げた。


 伯爵家の応接室。窓の外では春の花が風に揺れている。

 その日、私の結婚が決まった。


 相手は、名門ゴールディング公爵家の嫡男。ロナルド・ゴールディング様。

 真面目で、誠実で、誰に対しても礼儀正しい方だった。


「良いご縁だ」


 父はそう言った。

 母も、少し寂しそうに微笑んだ。


「公爵家は格式のあるお家です。けれど、きっと大切にしてくださるわ」


「はい」


 私は素直に頷いた。


 嫁ぐということは、新しい家族ができるということだ。

 私はそう思っていた。だから、緊張よりも少しだけ期待のほうが大きかった。


 私もあの家で、誰かの役に立てるかもしれない。

 良い妻になれるかもしれない。

 良い娘になれるかもしれない。


 そんなふうに、信じていた。



 結婚式の日。


 ゴールディング公爵家の大広間は、花と光で満ちていた。

 高い天井。磨き上げられた床。重厚な家具。すれ違う人々の視線。

 すべてが、私の生まれ育った伯爵家とは違っていた。


「リネット」


 隣に立つロナルド様が、静かに私を見た。


「緊張しているか?」


「はい。少しだけ」


「大丈夫だ。母も妹も、君を歓迎している」


 その言葉に、胸の奥が温かくなる。


「ありがとうございます」


 式が終わると、デボラ・ゴールディング公爵夫人が私の前に立った。


 美しい人だった。

 背筋はまっすぐで、微笑みは穏やか。社交界で理想の公爵夫人と呼ばれているのも納得できた。


 夫人は私の手を取った。


「リネットさん」


「はい、お義母様」


 そう呼ぶと、夫人は満足そうに微笑んだ。


「あなたも今日から家族だから」


 その一言が、嬉しかった。


 胸が詰まりそうになるくらい、嬉しかった。


「はい。どうぞよろしくお願いいたします」


「ええ。家族なのだから、遠慮はいらないわ」


 家族。


 その言葉を、私は信じた。


 信じたかった。



 新婚生活は、穏やかに始まった。


 少なくとも、最初の数日はそう見えた。


 朝は使用人たちに挨拶をし、お義母様に屋敷のしきたりを教わる。

 昼にはお茶会の準備を手伝い、夜はロナルド様と食事をする。


 私は必死だった。

 公爵家の嫁として恥ずかしくないように。

 ロナルド様に迷惑をかけないように。

 お義母様に、良い嫁だと思っていただけるように。


「まあ、リネットさん」


 ある日の昼下がり。

 お義母様は、私の選んだ花瓶を見て微笑んだ。


「可愛らしいわね」


「ありがとうございます。玄関に明るい色があると良いかと思いまして」


「そう」


 お義母様は小さく頷いた。


「私は昔から、あまり華やかなものを好まないの」


「……そうなのですね」


「質素なものが一番よ。私は昔から倹約家で」


 穏やかな声だった。


 けれど、その言葉はなぜか胸に刺さった。


「公爵家の嫁になると、つい飾り立てたくなる方もいるでしょう?」


「……」


「でも、私は贅沢をしません。家族のために、無駄なことはしないの」


 周囲の侍女たちは、感心したように頷いている。


 誰も気付いていない。

 その言葉が、私へ向けられていることに。


「申し訳ありません。すぐに替えます」


「あら、謝らなくていいのよ」


 お義母様は優しく微笑む。


「家族だから言っているだけよ」


 家族だから。


 私は、その言葉を聞くたびに何も言えなくなった。


 次に起きたのは、夜会用のドレスのことだった。


 結婚後、初めて夫婦で出席する大きな夜会。

 伯爵家の母が、私のために用意してくれた淡い青のドレスだった。控えめだが、胸元には繊細な刺繍が入っている。


 母が言ってくれた。


「リネット。この色、あなた好きでしょう? きっと、よく似合うわ」


 母が私のために選んでくれた、大切な一着だった。


 夜会の前日。

 部屋で試着をしていると、キャロライン様がやって来た。


 ロナルド様の妹。


 明るく、愛らしく、誰からも可愛がられている令嬢だった。


「まあ、素敵」


 キャロライン様は目を輝かせた。


「そのドレス、とても綺麗ね」


「ありがとうございます」


「いいなあ。私もそういう色のドレスが欲しかったの」


 何気ない一言だった。


 私は微笑んだ。


「キャロライン様にも、きっとお似合いになります」


「でしょう?」


 キャロライン様は楽しそうに鏡の前へ立った。


「ねえ、お母様にも見せたいわ」


 しばらくして、お義母様が部屋に入ってきた。


「あら、本当に素敵なドレスね」


「でしょう? お母様、私これがいい」


 その言葉に、私は一瞬だけ固まった。


 けれどキャロライン様は悪びれもしない。


「明日の夜会でこのドレスを着たいわ」


「キャロライン」


 お義母様はたしなめるように名を呼んだ。


 私は少しだけ安心した。


 けれど。


「リネットさん」


「はい」


「あなたはまた新しいのを仕立てればいいでしょう?」


 お義母様は、当然のように言った。


「このドレスはキャロラインへ譲りなさい」


 部屋の空気が止まった気がした。


 私は、母が選んでくれたドレスへ視線を落とす。


「でも、これは母が……」


「あら」


 お義母様は微笑んだ。


「リネットさんは、もうゴールディング家の人間でしょう?」


「……」


「実家のものにこだわるのは、少し寂しいわね」


 キャロライン様が、無邪気に私を見る。


「いいでしょう? お義姉様。家族なのだし」


 家族なのだし。


 私は唇を結んだ。


 断れば、心の狭い嫁だと思われる。

 公爵家に馴染めない女だと思われる。

 ロナルド様に迷惑がかかるかもしれない。


「……分かりました」


 そう答えるしかなかった。


「ありがとうございます。明日の夜会が楽しみだわ」


 キャロライン様はそう言った。


 けれど、その声は本当に軽かった。

 まるで、菓子を一つ譲られたくらいの調子だった。


 翌日。


 夜会でそのドレスを着ていたのは、キャロライン様だった。


 私は急ぎで用意された、地味な灰色のドレスを着た。


 周囲の人々は言った。


「キャロライン様、お美しいわ」


「ドレス、よくお似合いです」


 お義母様は満足そうに微笑んでいた。


 私はその隣で、静かに立っていた。


 誰も、私に何も言わなかった。


 それでも私は、まだ努力すればいいと思っていた。


 きっと私が未熟なのだ。

 まだ新しい家に慣れていないだけだ。


 お義母様も、キャロライン様も、本当は私を家族として迎えてくれている。


 そう思おうとした。


 けれど、次の出来事で、私の中の何かが少しずつ壊れ始めた。


 祖母の形見のブローチだった。


 銀細工に小さな真珠があしらわれた、古いブローチ。


 高価なものではない。


 けれど、私にとっては何より大切なものだった。


 母が若い頃に祖母から譲られ、そして私の結婚の朝に持たせてくれた。


「寂しくなったら、これを見てね」


 そう言って、母は泣き笑いをしていた。


 ある日、キャロライン様がそれを見つけた。


「可愛い」


 私は胸元に手を添えた。


「祖母の形見なのです」


「そうなの?」


 キャロライン様は少し首を傾げた。


「でも、私の今日のドレスにぴったりだわ」


 嫌な予感がした。


「お義姉様、それ貸して」


「申し訳ありません。これは……」


 断ろうとした。


 今度こそ、断ろうとした。


 けれど、その場にお義母様がいた。


「リネットさん」


 穏やかな声。


 柔らかな微笑み。


 けれど、逃げ道を塞ぐような視線。


「形見を大切にする気持ちは分かるわ」


「はい」


「でも、物は使われてこそでしょう?」


「……」


「キャロラインが身につければ、お祖母様も喜ぶのではなくて?」


 違う。


 そう思った。


 お祖母様は、きっと喜ばない。


 でも、声が出なかった。


「それに」


 お義母様は続ける。


「あなたたちはもう姉妹なのよ。家族なのだから、分かち合わなければ」


 家族。


 また、その言葉だった。


「……分かりました」


 私はブローチを外した。


 指先が震えていた。


 キャロライン様は嬉しそうに受け取る。


「ありがとう、お義姉様」


 その日、ブローチはキャロライン様の胸元で輝いていた。


 夜になって返ってきた時、留め具は少し曲がっていた。


「あ、ごめんなさい。どこかに引っかけたみたい」


 キャロライン様は笑った。


「でも、使えるでしょう?」


 私は何も言えなかった。


 その夜。


 私はロナルド様に相談した。


 書斎で書類を読んでいた彼は、疲れた顔をしていた。


「ロナルド様」


「どうした?」


「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」


「ああ」


 私は勇気を出して、ドレスのこと、ブローチのこと、お義母様の言葉のことを話した。


 声が震えないように、ゆっくりと。

 感情的にならないように、丁寧に。


 ロナルド様は黙って聞いていた。


 だから、少しだけ期待した。


 分かってくれるかもしれない。

 私の夫なのだから。


 でも。


「母に悪気はない」


 返ってきたのは、その一言だった。


「……悪気、ですか」


「ああ。母は昔から家族を大切にする人だ。キャロラインにも甘いところはあるが、それも家族だからだ」


「でも、私は……」


「リネット」


 ロナルド様は困ったように眉を寄せた。


「君も家族の一員だろう?」


 胸が、ずきりと痛んだ。


「だからこそ、もう少し広い心で見てやってほしい」


 私は彼を見つめた。


「広い心……」


「母は公爵家を長年守ってきた。君に厳しく見えることもあるかもしれないが、それは君を認めているからだ」


「認めているから、ですか」


「そうだ」


 ロナルド様は真面目な顔で頷いた。


「君には期待している。俺も、君なら母とうまくやっていけると思っている」


 それは、優しい言葉のように聞こえた。


 でも、違った。


 私が本当に伝えたかったことは、一つも伝わっていなかった。


「……分かりました」


 私は小さく頭を下げた。


「お時間を取らせてしまい、申し訳ありません」


「リネット」


「失礼いたします」


 部屋を出る時、背中にロナルド様の視線を感じた。


 けれど、追いかけては来なかった。


 それからも、同じことが続いた。


 私が何かを持てば、キャロライン様が欲しがる。


 私が断ろうとすれば、お義母様が言う。


「家族だから」


 私が傷つけば、ロナルド様が言う。


「母に悪気はない」


 私が黙れば、周囲は言う。


「リネット様は控えめで素晴らしい」


 控えめ。


 従順。


 よくできた嫁。


 その言葉が増えるほど、私の中身は少しずつ削られていった。


 ある夜会の日。


 私はお義母様の隣に立っていた。


 ロナルド様は少し離れた場所で知人と話している。


 キャロライン様は、また私の髪飾りをつけて笑っていた。


「リネットさん」


 お義母様が声をかけてきた。


「はい」


「あなたもずいぶん、この家に馴染んできたわね」


「……ありがとうございます」


「最初は心配だったのよ」


 お義母様は扇を口元に当てた。


「伯爵家のお嬢様でしょう? 公爵家のしきたりについて来られるかしら、と」


「ご心配をおかけしました」


「いいのよ」


 お義母様は優しく微笑む。


「私は昔から家族第一なの。だから、嫁にも同じようにしてほしいだけ」


「……」


「ロナルドは私の宝です」


 その瞬間、胸の奥が冷えた。


 お義母様は、うっとりするような声で続けた。


「あの子は幼い頃から真面目で、優しくて、立派で。私が大切に大切に育ててきたの」


「はい」


「だから、あなたには支えてもらわないと」


 支える。


 その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。


「妻というものはね、自分が前に出るものではないの。夫を支え、家を支え、家族を支えるものよ」


 お義母様は私を見た。


「あなたは、それができれば十分」


 十分。


 私は、その言葉を心の中で繰り返した。


 私は妻ではないのだろうか。


 娘ではないのだろうか。


 姉ではないのだろうか。


 家族ではないのだろうか。


 いいえ。


 答えは、もう出ていた。


 私は家族ではなかった。


 ただ、都合よく譲る嫁だった。


 我慢する嫁だった。


 責めれば謝る嫁だった。


 家族という言葉で縛れる、便利な人間だった。


「……そうですか」


 私は静かに言った。


 お義母様が少し目を細める。


「何かしら」


「いいえ」


 私は微笑んだ。


 その時、自分でも不思議なくらい心が静かだった。


「よく分かりました」



 その夜、私は部屋へ戻った。


 侍女が心配そうに私を見た。


「奥様、お加減が悪いのですか」


「いいえ」


 私は首を横に振る。


「少し疲れただけ。あとは自分でできるから、下がっていいわ」


 侍女が一礼して部屋を出る。


 髪飾りを外す。


 耳飾りを外す。


 手袋を外す。


 鏡の中の私は、ひどく静かな顔をしていた。


 泣いていない。


 怒ってもいない。


 ただ、何かが終わったのだと思った。


 机へ向かい、引き出しを開ける。


 白い紙を取り出した。


 ペン先をインクに浸す。


 手は震えなかった。


 私は、ゆっくりと文字を書いた。


 離縁届。


 夫の名。


 自分の名。


 理由。


 夫婦関係の継続が困難なため。


 それだけでは足りないと思った。


 だから、別紙も用意した。


 譲ったドレス。


 壊されたブローチ。


 繰り返された嫌味。


 相談しても流されたこと。


 家族という言葉で、我慢を押し付けられ続けたこと。


 一つずつ、事実だけを書いた。


 感情は入れなかった。


 怒りも、悲しみも、恨みも。


 そんなものを書かなくても、事実だけで十分だった。


 書き終えた時、窓の外は夜明け前だった。


 薄い青の光が、部屋に差し込んでいる。


 私は封筒に書類を入れ、封をした。


 その上に手を置き、小さく息を吐く。


「もう、終わりにしましょう」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 私は家族になれなかった。


 でも。


 もう、都合の良い嫁でいるつもりもなかった。


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続きは本日21時20分に投稿予定です。

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