前編
「リネット」
父に名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
伯爵家の応接室。窓の外では春の花が風に揺れている。
その日、私の結婚が決まった。
相手は、名門ゴールディング公爵家の嫡男。ロナルド・ゴールディング様。
真面目で、誠実で、誰に対しても礼儀正しい方だった。
「良いご縁だ」
父はそう言った。
母も、少し寂しそうに微笑んだ。
「公爵家は格式のあるお家です。けれど、きっと大切にしてくださるわ」
「はい」
私は素直に頷いた。
嫁ぐということは、新しい家族ができるということだ。
私はそう思っていた。だから、緊張よりも少しだけ期待のほうが大きかった。
私もあの家で、誰かの役に立てるかもしれない。
良い妻になれるかもしれない。
良い娘になれるかもしれない。
そんなふうに、信じていた。
◇
結婚式の日。
ゴールディング公爵家の大広間は、花と光で満ちていた。
高い天井。磨き上げられた床。重厚な家具。すれ違う人々の視線。
すべてが、私の生まれ育った伯爵家とは違っていた。
「リネット」
隣に立つロナルド様が、静かに私を見た。
「緊張しているか?」
「はい。少しだけ」
「大丈夫だ。母も妹も、君を歓迎している」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
「ありがとうございます」
式が終わると、デボラ・ゴールディング公爵夫人が私の前に立った。
美しい人だった。
背筋はまっすぐで、微笑みは穏やか。社交界で理想の公爵夫人と呼ばれているのも納得できた。
夫人は私の手を取った。
「リネットさん」
「はい、お義母様」
そう呼ぶと、夫人は満足そうに微笑んだ。
「あなたも今日から家族だから」
その一言が、嬉しかった。
胸が詰まりそうになるくらい、嬉しかった。
「はい。どうぞよろしくお願いいたします」
「ええ。家族なのだから、遠慮はいらないわ」
家族。
その言葉を、私は信じた。
信じたかった。
◇
新婚生活は、穏やかに始まった。
少なくとも、最初の数日はそう見えた。
朝は使用人たちに挨拶をし、お義母様に屋敷のしきたりを教わる。
昼にはお茶会の準備を手伝い、夜はロナルド様と食事をする。
私は必死だった。
公爵家の嫁として恥ずかしくないように。
ロナルド様に迷惑をかけないように。
お義母様に、良い嫁だと思っていただけるように。
「まあ、リネットさん」
ある日の昼下がり。
お義母様は、私の選んだ花瓶を見て微笑んだ。
「可愛らしいわね」
「ありがとうございます。玄関に明るい色があると良いかと思いまして」
「そう」
お義母様は小さく頷いた。
「私は昔から、あまり華やかなものを好まないの」
「……そうなのですね」
「質素なものが一番よ。私は昔から倹約家で」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉はなぜか胸に刺さった。
「公爵家の嫁になると、つい飾り立てたくなる方もいるでしょう?」
「……」
「でも、私は贅沢をしません。家族のために、無駄なことはしないの」
周囲の侍女たちは、感心したように頷いている。
誰も気付いていない。
その言葉が、私へ向けられていることに。
「申し訳ありません。すぐに替えます」
「あら、謝らなくていいのよ」
お義母様は優しく微笑む。
「家族だから言っているだけよ」
家族だから。
私は、その言葉を聞くたびに何も言えなくなった。
次に起きたのは、夜会用のドレスのことだった。
結婚後、初めて夫婦で出席する大きな夜会。
伯爵家の母が、私のために用意してくれた淡い青のドレスだった。控えめだが、胸元には繊細な刺繍が入っている。
母が言ってくれた。
「リネット。この色、あなた好きでしょう? きっと、よく似合うわ」
母が私のために選んでくれた、大切な一着だった。
夜会の前日。
部屋で試着をしていると、キャロライン様がやって来た。
ロナルド様の妹。
明るく、愛らしく、誰からも可愛がられている令嬢だった。
「まあ、素敵」
キャロライン様は目を輝かせた。
「そのドレス、とても綺麗ね」
「ありがとうございます」
「いいなあ。私もそういう色のドレスが欲しかったの」
何気ない一言だった。
私は微笑んだ。
「キャロライン様にも、きっとお似合いになります」
「でしょう?」
キャロライン様は楽しそうに鏡の前へ立った。
「ねえ、お母様にも見せたいわ」
しばらくして、お義母様が部屋に入ってきた。
「あら、本当に素敵なドレスね」
「でしょう? お母様、私これがいい」
その言葉に、私は一瞬だけ固まった。
けれどキャロライン様は悪びれもしない。
「明日の夜会でこのドレスを着たいわ」
「キャロライン」
お義母様はたしなめるように名を呼んだ。
私は少しだけ安心した。
けれど。
「リネットさん」
「はい」
「あなたはまた新しいのを仕立てればいいでしょう?」
お義母様は、当然のように言った。
「このドレスはキャロラインへ譲りなさい」
部屋の空気が止まった気がした。
私は、母が選んでくれたドレスへ視線を落とす。
「でも、これは母が……」
「あら」
お義母様は微笑んだ。
「リネットさんは、もうゴールディング家の人間でしょう?」
「……」
「実家のものにこだわるのは、少し寂しいわね」
キャロライン様が、無邪気に私を見る。
「いいでしょう? お義姉様。家族なのだし」
家族なのだし。
私は唇を結んだ。
断れば、心の狭い嫁だと思われる。
公爵家に馴染めない女だと思われる。
ロナルド様に迷惑がかかるかもしれない。
「……分かりました」
そう答えるしかなかった。
「ありがとうございます。明日の夜会が楽しみだわ」
キャロライン様はそう言った。
けれど、その声は本当に軽かった。
まるで、菓子を一つ譲られたくらいの調子だった。
翌日。
夜会でそのドレスを着ていたのは、キャロライン様だった。
私は急ぎで用意された、地味な灰色のドレスを着た。
周囲の人々は言った。
「キャロライン様、お美しいわ」
「ドレス、よくお似合いです」
お義母様は満足そうに微笑んでいた。
私はその隣で、静かに立っていた。
誰も、私に何も言わなかった。
それでも私は、まだ努力すればいいと思っていた。
きっと私が未熟なのだ。
まだ新しい家に慣れていないだけだ。
お義母様も、キャロライン様も、本当は私を家族として迎えてくれている。
そう思おうとした。
けれど、次の出来事で、私の中の何かが少しずつ壊れ始めた。
祖母の形見のブローチだった。
銀細工に小さな真珠があしらわれた、古いブローチ。
高価なものではない。
けれど、私にとっては何より大切なものだった。
母が若い頃に祖母から譲られ、そして私の結婚の朝に持たせてくれた。
「寂しくなったら、これを見てね」
そう言って、母は泣き笑いをしていた。
ある日、キャロライン様がそれを見つけた。
「可愛い」
私は胸元に手を添えた。
「祖母の形見なのです」
「そうなの?」
キャロライン様は少し首を傾げた。
「でも、私の今日のドレスにぴったりだわ」
嫌な予感がした。
「お義姉様、それ貸して」
「申し訳ありません。これは……」
断ろうとした。
今度こそ、断ろうとした。
けれど、その場にお義母様がいた。
「リネットさん」
穏やかな声。
柔らかな微笑み。
けれど、逃げ道を塞ぐような視線。
「形見を大切にする気持ちは分かるわ」
「はい」
「でも、物は使われてこそでしょう?」
「……」
「キャロラインが身につければ、お祖母様も喜ぶのではなくて?」
違う。
そう思った。
お祖母様は、きっと喜ばない。
でも、声が出なかった。
「それに」
お義母様は続ける。
「あなたたちはもう姉妹なのよ。家族なのだから、分かち合わなければ」
家族。
また、その言葉だった。
「……分かりました」
私はブローチを外した。
指先が震えていた。
キャロライン様は嬉しそうに受け取る。
「ありがとう、お義姉様」
その日、ブローチはキャロライン様の胸元で輝いていた。
夜になって返ってきた時、留め具は少し曲がっていた。
「あ、ごめんなさい。どこかに引っかけたみたい」
キャロライン様は笑った。
「でも、使えるでしょう?」
私は何も言えなかった。
その夜。
私はロナルド様に相談した。
書斎で書類を読んでいた彼は、疲れた顔をしていた。
「ロナルド様」
「どうした?」
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「ああ」
私は勇気を出して、ドレスのこと、ブローチのこと、お義母様の言葉のことを話した。
声が震えないように、ゆっくりと。
感情的にならないように、丁寧に。
ロナルド様は黙って聞いていた。
だから、少しだけ期待した。
分かってくれるかもしれない。
私の夫なのだから。
でも。
「母に悪気はない」
返ってきたのは、その一言だった。
「……悪気、ですか」
「ああ。母は昔から家族を大切にする人だ。キャロラインにも甘いところはあるが、それも家族だからだ」
「でも、私は……」
「リネット」
ロナルド様は困ったように眉を寄せた。
「君も家族の一員だろう?」
胸が、ずきりと痛んだ。
「だからこそ、もう少し広い心で見てやってほしい」
私は彼を見つめた。
「広い心……」
「母は公爵家を長年守ってきた。君に厳しく見えることもあるかもしれないが、それは君を認めているからだ」
「認めているから、ですか」
「そうだ」
ロナルド様は真面目な顔で頷いた。
「君には期待している。俺も、君なら母とうまくやっていけると思っている」
それは、優しい言葉のように聞こえた。
でも、違った。
私が本当に伝えたかったことは、一つも伝わっていなかった。
「……分かりました」
私は小さく頭を下げた。
「お時間を取らせてしまい、申し訳ありません」
「リネット」
「失礼いたします」
部屋を出る時、背中にロナルド様の視線を感じた。
けれど、追いかけては来なかった。
それからも、同じことが続いた。
私が何かを持てば、キャロライン様が欲しがる。
私が断ろうとすれば、お義母様が言う。
「家族だから」
私が傷つけば、ロナルド様が言う。
「母に悪気はない」
私が黙れば、周囲は言う。
「リネット様は控えめで素晴らしい」
控えめ。
従順。
よくできた嫁。
その言葉が増えるほど、私の中身は少しずつ削られていった。
ある夜会の日。
私はお義母様の隣に立っていた。
ロナルド様は少し離れた場所で知人と話している。
キャロライン様は、また私の髪飾りをつけて笑っていた。
「リネットさん」
お義母様が声をかけてきた。
「はい」
「あなたもずいぶん、この家に馴染んできたわね」
「……ありがとうございます」
「最初は心配だったのよ」
お義母様は扇を口元に当てた。
「伯爵家のお嬢様でしょう? 公爵家のしきたりについて来られるかしら、と」
「ご心配をおかけしました」
「いいのよ」
お義母様は優しく微笑む。
「私は昔から家族第一なの。だから、嫁にも同じようにしてほしいだけ」
「……」
「ロナルドは私の宝です」
その瞬間、胸の奥が冷えた。
お義母様は、うっとりするような声で続けた。
「あの子は幼い頃から真面目で、優しくて、立派で。私が大切に大切に育ててきたの」
「はい」
「だから、あなたには支えてもらわないと」
支える。
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
「妻というものはね、自分が前に出るものではないの。夫を支え、家を支え、家族を支えるものよ」
お義母様は私を見た。
「あなたは、それができれば十分」
十分。
私は、その言葉を心の中で繰り返した。
私は妻ではないのだろうか。
娘ではないのだろうか。
姉ではないのだろうか。
家族ではないのだろうか。
いいえ。
答えは、もう出ていた。
私は家族ではなかった。
ただ、都合よく譲る嫁だった。
我慢する嫁だった。
責めれば謝る嫁だった。
家族という言葉で縛れる、便利な人間だった。
「……そうですか」
私は静かに言った。
お義母様が少し目を細める。
「何かしら」
「いいえ」
私は微笑んだ。
その時、自分でも不思議なくらい心が静かだった。
「よく分かりました」
◇
その夜、私は部屋へ戻った。
侍女が心配そうに私を見た。
「奥様、お加減が悪いのですか」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「少し疲れただけ。あとは自分でできるから、下がっていいわ」
侍女が一礼して部屋を出る。
髪飾りを外す。
耳飾りを外す。
手袋を外す。
鏡の中の私は、ひどく静かな顔をしていた。
泣いていない。
怒ってもいない。
ただ、何かが終わったのだと思った。
机へ向かい、引き出しを開ける。
白い紙を取り出した。
ペン先をインクに浸す。
手は震えなかった。
私は、ゆっくりと文字を書いた。
離縁届。
夫の名。
自分の名。
理由。
夫婦関係の継続が困難なため。
それだけでは足りないと思った。
だから、別紙も用意した。
譲ったドレス。
壊されたブローチ。
繰り返された嫌味。
相談しても流されたこと。
家族という言葉で、我慢を押し付けられ続けたこと。
一つずつ、事実だけを書いた。
感情は入れなかった。
怒りも、悲しみも、恨みも。
そんなものを書かなくても、事実だけで十分だった。
書き終えた時、窓の外は夜明け前だった。
薄い青の光が、部屋に差し込んでいる。
私は封筒に書類を入れ、封をした。
その上に手を置き、小さく息を吐く。
「もう、終わりにしましょう」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
私は家族になれなかった。
でも。
もう、都合の良い嫁でいるつもりもなかった。
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続きは本日21時20分に投稿予定です。




