後編
ゴールディング公爵家は、少しずつ変わり始めていた。
けれど、それは良い変化ではなかった。
きっかけは使用人たちだった。
長年勤めていた老執事が退職し、それに続くように侍女長、料理長、侍女たちも屋敷を去っていく。
「もう、あの奥様にはお仕えできません」
そんな言葉が、少しずつ社交界へ漏れ伝わった。
そして誰もが知ることになる。
――理想の公爵夫人と呼ばれたデボラ・ゴールディングが、「家族だから」という言葉で嫁から大切なものを奪い続けていたことを。
夜会でデボラを囲んでいた夫人たちは、いつしか距離を置くようになった。
笑顔は向ける。けれど、その目は以前とは違っていた。
ロナルドも変わっていた。
「母上」
ある日の夕食。
彼は静かに口を開いた。
「もう、やめてください」
「何をかしら?」
「『家族だから』という言葉です」
デボラは呆れたように笑う。
「まだその話?」
「母上は最後まで分からないのですね」
「私は間違っていないわ」
「……そうですか」
ロナルドは立ち上がった。
「これから私は別邸で暮らします」
「ロナルド!」
「少し、一人で考えたい」
そう言い残し、部屋を出ていく。
デボラは慌てて追いかけようとしたが、公爵ジュードが静かに制した。
「やめなさい」
「でも!」
「……もう遅い」
その一言に、デボラは初めて何も言い返せなかった。
一方、キャロラインには縁談が決まっていた。
相手は由緒ある侯爵家の嫡男。
社交界でも評判の良い家だった。
「やはり私には、このくらいのお家がお似合いですわ」
キャロラインは得意げに笑う。
「お母様のおかげね」
「あなたなら、どこへ行っても愛されるわ」
デボラも満足そうに頷いた。
二人とも疑っていなかった。
何一つ。
◇
キャロラインの結婚式から数週間後。
侯爵家では、親族だけの小さなお茶会が開かれていた。
「キャロラインさん」
義姉のセシリアが小箱を開く。
中には深い青色のサファイアが輝いていた。
「まあ……! なんて綺麗なの!」
キャロラインは目を輝かせる。
侯爵夫人が微笑んだ。
「この首飾りは代々、この家の長男の妻へ受け継がれるものなのです。セシリアが嫁いだ時に贈ったものですよ」
セシリアは大切そうに首飾りを身につける。
窓から差し込む光を受け、青い宝石が美しく輝いた。
キャロラインは目を離せなかった。
「素敵……」
そして、何の迷いもなく言った。
「それ、わたくしにくださいませんか?」
部屋が静まり返る。
セシリアは驚いたように瞬きをした。
「……え?」
「だって、とても素敵なんですもの」
「申し訳ありませんが、これは譲れません」
穏やかな断りだった。
しかしキャロラインは、不思議そうに首を傾げる。
「どうしてですの?」
「大切なものだからです」
キャロラインは笑った。
「家族なら譲るものでしょう?」
誰も動かなかった。
侯爵夫人も、侯爵も、使用人も。
ただキャロラインだけが、当然のように続ける。
「お義姉様なら、また新しいものを買えますわ。わたくし、とても気に入りましたの。家族なのですから、譲ってくださるでしょう?」
セシリアはしばらく黙っていた。
やがて、静かに尋ねる。
「……キャロラインさん」
「はい?」
「それは、どなたに教わったのですか」
キャロラインは胸を張った。
「母です。家族とは譲るものだと教わりました。欲しいと言われたら譲る。我慢するのが家族ですもの」
侯爵夫人がゆっくり目を閉じ、侯爵は深くため息をつく。
「……ゴールディング公爵家では、それが家族なのですか」
「はい。ずっとそうでした」
すると、セシリアが静かに微笑んだ。
「キャロラインさん、私はあなたの家族です」
「はい」
「だからこそ、譲りません」
キャロラインは目を丸くした。
「え……?」
セシリアは首飾りをそっと撫でる。
「家族とは、相手の大切なものを大切にできる人です。家族だからこそ奪わない。家族だからこそ尊重する」
静かな声だった。
しかし、その一言一言が部屋に響く。
キャロラインは理解できなかった。
「でも、お母様は違いました! お義姉様だって、家族なら――」
「違います」
初めて、セシリアが言葉を遮った。
「それは家族ではありません。支配です」
キャロラインは何も言えなかった。
その日の夕方。
侯爵夫妻は息子夫婦を呼び出した。
「この婚姻は続けられない」
侯爵は静かに告げる。
「価値観が違いすぎる」
キャロラインの夫も、苦しそうに俯いた。
「……申し訳ないが、離縁してくれ」
「そんな! これから、努力しますから!」
キャロラインは叫ぶ。
けれど侯爵夫人は、静かに首を振った。
「努力ではどうにもなりません。あなたは、人の大切なものを尊重するという当たり前を知らないのです」
一度、言葉を切る。
「このままでは、誰も幸せになれません」
こうして、婚姻は短期間で解消された。
実家へ戻ったキャロラインは、玄関へ飛び込んだ。
「お母様!」
デボラが慌てて駆け寄る。
「どうしたの! いきなり帰ってきて」
「離縁されたの!」
「何ですって! 何をしたの!」
その瞬間、キャロラインが泣き叫んだ。
「セシリア様の首飾りが素敵だったから、譲ってもらおうとしただけなのに! お母様がそう育てたのでしょう!」
屋敷中に響く声だった。
「家族なら譲るって! 欲しい物は譲ってもらうものだって! 我慢するのが家族だって! 全部、お母様が教えたじゃない!」
廊下を歩いていた侍女たちが立ち止まる。執事も、庭師も、料理人も。
皆、その叫びを聞いていた。
「私はお母様の言う通りにしただけよ! なのに、なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないのよ! 私は何も悪くないわ!」
デボラは言葉を失った。
翌日には、その話は社交界中へ広がっていた。
誰もが口を揃えた。
「やはり、あの噂は本当だったのね」
こうしてゴールディング公爵家の名声は、完全に地に落ちた。
さらに数か月後。
王都の夜会。
リネットは淡い藍色のドレスをまとい、穏やかな笑みを浮かべていた。
その隣には、辺境伯カーティス・グレンヴィル。
彼は何も聞かず、何も急かさず、ただ静かに寄り添ってくれる人だった。
そこへ、デボラが近づいてくる。
以前の自信に満ちた姿は、もうなかった。
「リネットさん……」
震える声だった。
「わたくしたち……家族だったでしょう?」
リネットは静かに見つめ返す。
そして、小さく首を横に振った。
「いいえ」
その一言に、デボラは息を呑む。
「家族とは、お互いを大切にし合うものです。都合の良い時だけ『家族だから』と言い、我慢を求めるものではありません」
デボラの顔から血の気が引いていく。
「私は、家族になりたかったのです。結婚した時は、本当に家族になれると信じていました」
静かな声だった。
「でも、お義母様が私に望んでいたのは、家族ではなく、従う嫁でした」
「……違う、わたくしは……」
デボラが何かを言おうとする。
けれど、続く言葉は出てこない。
反論する資格も、言葉も失っていた。
リネットは穏やかに微笑んだ。
「ですが、今はもう、本当の家族がどのようなものか分かっています。ですから、後悔はしておりません」
デボラはその場で立ち尽くした。
もう何も言えなかった。
その時、カーティスがリネットへ手を差し出す。
「リネット。帰ろうか」
「はい」
リネットは迷うことなく、その手を取った。
一度も振り返ることなく、新しい家族のもとへ歩き出した。
二人は並んで歩き出す。
今度は、何も譲らなくていい。
大切なものを、大切だと言える場所へ。
リネットはそっと、カーティスの手を握り返した。
その背中を見送りながら、ゴールディング一家だけが、広い夜会場に取り残されていた。
夜会をあとにした帰り道。
馬車の窓から見える街には、柔らかな灯りがともっていた。
「疲れませんでしたか」
カーティスが穏やかに尋ねる。
「ええ、少しだけ疲れました」
リネットは微笑んだ。
「でも、不思議です。昔ならきっと泣いていたと思います」
「今は?」
「泣きたいとは思いません。むしろ、スッキリした気持ちです」
そう答えてから、リネットは小さく笑った。
本当に、そう思えた。
デボラを見ても、恨みは湧かなかった。
ロナルドを思い出しても、胸は痛まない。
ただ、一つの季節が終わったのだと感じるだけだった。
カーティスはただ静かに寄り添ってくれる人だった。
慰めの言葉も、過去を探るようなことも言わない。
ただ隣に座り、同じ景色を眺めている。
その静けさが心地よかった。
「カーティス様」
「はい」
「ありがとうございます」
「何に対してですか」
リネットは少し考えてから笑う。
「何も聞かないでいてくださることに」
カーティスも小さく笑った。
「話したくなったら聞きます。話したくないなら、それでいいのです」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
無理に変わらなくてもいい。無理に笑わなくてもいい。
無理に何かを差し出さなくてもいい。
ただ、自分のままでいていいのだと。
そう思えた。
数日後。
辺境伯邸の庭では、色とりどりの花が風に揺れていた。
「リネット様、こちらの花はお好きでしょうか」
庭師が尋ねる。
リネットは足を止めた。
淡い青色の小さな花だった。
「ええ。とても」
「でしたら、もっと植えましょう」
「いいえ」
リネットは首を横に振る。
「このくらいだからこそ、可愛らしいのでしょう」
「そうですね」
穏やかな声がした。
振り向くと、カーティスがこちらへ歩いてくる。
「たくさん咲くのも見事ですが、このくらいだからこそ目を留めたくなる花もあります」
リネットは小さく笑った。
「ええ」
カーティスも花へ視線を向ける。
「来年も咲くのが楽しみですね」
一瞬だけ、リネットはその言葉を胸の中で繰り返した。
――来年も。
「はい」
自然と笑みがこぼれる。
「私も楽しみです」
春風が優しく吹き抜けた。
リネットは花へそっと手を伸ばし、小さく微笑んだ。
ようやく分かった。
家族とは。
何かを我慢し続ける関係ではない。
お互いの大切なものを、大切にできる人たちのことだった。
リネットは前を向く。
その隣には、静かに歩幅を合わせてくれる人がいる。
もう、何も譲らなくていい。
色とりどりの花が、春風に揺れていた。
【完】
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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