第7話 七人目
十月十八日、日曜日。
今月のうちの仕事を、数えてみる。
テレビの収録が一本。音楽誌の取材が一本。四人のラジオが週に一回。それから、今日。以上である。
再始動して四か月のバンドの予定表としては、なかなか風通しがいい。大手の事務所なら、毎日どこかの局に誰かが顔を出しているのだろう。うちには、局を回る人間が社長しかいない。その社長は、運転手と営業を兼ねている。
今日の仕事は、郊外の大きなCD店の、店頭イベントだった。
「来てくれって言ってくれる店があるだけ、ありがてえんだよ」
社長は高速の料金所で小銭を数えながら、そう言った。出演料は、往復の高速代とガソリン代でだいたい消えるらしい。
楽屋は、店のバックヤードだった。
段ボールの山と、返品の箱と、従業員用の冷蔵庫。そのあいだに、折りたたみの長机がひとつ。壁に「火気厳禁」の紙が貼ってある。古い紙と、埃と、誰かの弁当の匂いがした。
着替える場所はない。四人でこの一部屋である。
「はい。じゃあ私、向こう向いてるから」
段ボールの山のほうを向いて、両手で目を覆った。背中を向けて、目も隠す。念には念を入れる。
「いいよ。着替えて」
「見んなよー」
「見ないよ」
「いや、別に見てもいいけど」
「見ない」
陽太が笑って、ごそごそ布の音がしはじめた。
目を閉じていても、音は自然と耳に入ってくる。ハンガーから外す音。袖を通す音。ベルトの金具。十二年、三人に服を着せてきたので、音でだいたいわかるのだ。
「陽太。裾、入れないで。今日のは出すやつ」
「なんで見えてんだよ!」
「見てない。ベルトを締める音が早すぎた」
「こわ……」
「かな。ボタン、一個ずれてる」
背中のほうで、布の音が止まった。
「……なんでわかるの」
「留める音が六回だった。そのシャツは七つ」
「数えないで」
「数えちゃうの。ドラマーだから」
しばらく、ボタンを外して留め直す音が続いた。この人の着替えは、時間がかかる。
「糸音ちゃん。こちらは済んだよ」
澄人さんの声は、衣ずれの音がほとんどしないうちに聞こえた。この人は、着替えまで静かである。
「かなは」
「……あと二つ」
「待つよ」
手のひらの裏が、温かくなってきた。段ボールから、古い紙の匂いがする。
「できた」
「全員?」
「全員」
手を下ろして、振り向いた。
三人とも、ちゃんと着ていた。陽太の裾は出ている。かなのボタンは、七つとも合っている。
「じゃあ、交代。三人とも壁を向いて。目を閉じて」
「へいへい」
「耳もふさいで」
「耳も!?」
「音で数えられたら、いやだから」
「お前だけだよ、そんなことすんの!」
陽太は文句を言いながら、両手で耳をふさいだ。澄人さんは黙って壁に向き直り、ついでに、まだこっちを見ていたかなの頭を、片手でそっと壁のほうへ回した。
三十秒で着替えた。黒のシャツと黒のパンツ。後ろにいる人間はそれでいい。
イベントは二本立てだった。
前半が店の一角に組んだ小さな台の上での、三曲だけの演奏。後半がCDを買ってくれた人へのサイン会。
台は畳四枚ぶんくらいしかない。ドラムセットは載らないので、私は木の箱を一つ持ってきた。またがって、手で叩く楽器だ。陽太は生のギター。澄人さんは小さい鍵盤。かなはマイク一本。
客は、百二十人くらい。整理券を持って前に座っている人が半分で、残りは、買い物の途中で足を止めた人たちだった。
四つ数えた。声は出さない。箱の角を指で四回。
かなが歌いだした。
アリーナの音とはまるで違う。飾りが何もない。箱とギターと、鍵盤と声。ごまかしが利かない分、三人のうまさがそのまま前に出る。
買い物かごを提げたおばさんが、通路で立ち止まった。ベビーカーを押していた人が、向きを変えた。レジの店員さんが、手を止めてこっちを見ている。
こういう景色は、好きだ。
用事があって歩いていた人の足を、音だけで止める。大きな会場で一万人を揺らすのとは別の種類の、いい仕事だと思う。
三曲は、あっという間に終わった。
問題は、後半である。
サイン会は、メンバーごとに列を作る形だった。CDを一枚買うと、券が一枚もらえる。券には、四人の名前が印刷してあって、好きな一人に丸をつける。
長机が四つ、横に並んだ。
「では、お並びください」
三好さんの声で人が動いた。
かなの机の前に列が伸びる。店の端まで行って、折り返した。六十人はいる。
陽太の前に、三十五人くらい。
澄人さんの前に、二十人くらい。
私の前には、六人いた。
数字にすると、なかなか味わい深い。
「す、すみません、園原さん。あの、列の案内を、もう少し」
三好さんが、手帳を握りしめて青くなっている。
「大丈夫ですよ。いつもこんなものです」
本当のことだった。休止の前は五人だった。一人増えている。
それに、悪いことばかりではない。列が短いと、一人ひとりと長く話せるのだ。
一人目は、五十代くらいの男の人だった。
「あのスティック、どこのですか。音が丸くて、いいなと思って」
「あ、わかります?あれ、自分で少しだけ削ってあるんです」
「やっぱり! 自分も昔、叩いてまして」
三分ほど、角の話をした。
二人目と三人目は、高校生の男の子の二人組だった。軽音部でドラムとベースをやっているという。ドラムの子が、スティックの握り方を訊いてきたので、サインペンを二本持たせて直してやった。
四人目は、おばあさんだった。
「孫がね、あなたたちの曲が好きで。今日は来られないから、かわりに」
「お孫さんのお名前、書きましょうか」
「あら、いいの」
「いいですよ。何人でも」
五人目と六人目は、お母さんと、小学校の低学年くらいの女の子だった。
女の子は、お母さんの後ろに半分隠れて、私ではなく、私の後ろを見ていた。舞台に置きっぱなしのドラムを。
「叩いてみる?」
目が丸くなった。
「いいの?」
「いいよ。おいで」
列にはもう、後ろに誰もいない。机を離れても、誰も困らなかった。
箱に座らせて、手を取った。
「真ん中を叩くと、低い音。端を叩くと、高い音。じゃあ、四つ数えてごらん」
「いち、に、さん、し」
「それに合わせて、真ん中、端、真ん中、端」
どん、た、どん、た。
女の子の顔が、ぱっと明るくなった。
「できた!」
「できたね。もう叩けるよ」
お母さんが、何度も頭を下げている。女の子は、舞台から下りたがらなかった。
結局、私が対応した時間は六人で、十五分くらいだった。
残りの三つの列は、まだ半分も進んでいない。
私は机に戻って、座った。
することが、ない。
サインペンのキャップを、閉めて、開けて、また閉めた。
そのときである。
「ドラムの人のとこ、空いてるよ。先にあっち行けば?」
かなの列の最後尾のあたりから、声がした。大学生くらいの女の人の二人組だった。
「えー。いい」
「でも、券あと一枚あるじゃん」
「私は、大丈夫。奏多にもう一回並ぶ」
言ったほうの人と、目が合った。
一秒くらい。
向こうが先に逸らした。
私は小さく会釈をした。ほかに、どうすればいいのかわからなかったので。
大丈夫、というのは、便利な言葉だ。断るときにも、平気なふりをするときにも使える。胸のあたりがちくりとした。
ちくりとしたが、それは三秒で済ませることにした。四秒目からは、仕事である。
あの人は、かなに会いに来たのだ。かなの歌が好きで、休みの日に電車に乗って、CDを二枚買って。それは、私の作った衣装と私が直した前髪が、ちゃんと仕事をしているということでもある。
メンバーの列が長いのは、いいことだ。
そう思って顔を上げた。
上げたら、見えてしまった。
さっきの人のコートのボタンである。
上から二つ目が、糸一本でぶら下がっていた。今にも落ちそうだ。
手が、勝手に動いた。
職業病である。取れかけたボタンを見ると、ほかのことが考えられなくなる。
鞄から針と糸を出した。黒い糸を通した針は、いつも三本、刺してある。
立ち上がって、列の最後尾まで歩いた。
「あの、すみません」
二人がぎょっとして振り向いた。
「ボタン、落ちそうです。三十秒ください。付けます」
「……え。え?」
「動かないでくださいね。刺さるので」
返事を待たずに、コートの前をつまんだ。
糸を巻く。根元を三回くぐらせる。足を作って、きゅっと締める。玉を留めて、切る。二十秒で済んだ。
「はい。これで、取れません」
「あ……」
その人はボタンを見て、私を見た。口が開いているが、言葉が出てこないらしい。
「久遠に会うんでしょう。ちゃんとしてたほうが、いいじゃないですか」
言ってから、余計なお世話だったかもしれない、と思った。
まあ、いい。ボタンは付いた。
机に戻る途中で、澄人さんの列に、杖をついたおじいさんがいるのに気がついた。立ちっぱなしで、つらそうである。バックヤードから折りたたみ椅子を一つ持ってきて、列の横に置いた。
「順番が来たら、呼びますね」
「すまないねえ」
レジの横では、店員さんが一人で、CDを袋に入れては券を渡していた。行列ができている。
「手伝います。袋、こっちでいいですか」
「えっ、メンバーさんにそんな」
「暇なので」
本当に暇なのだ。
袋を広げて、CDを入れて、券を添えて渡す。広げて、入れて、添えて、渡す。こういう単純な作業は、嫌いではない。リズムがある。
袋を渡すたびに、相手が、え、という顔をした。さっき台の上で箱を叩いていた人間が、レジの横で袋詰めをしているのだから、それはそうだろう。
一時間たって、三つの列ようやく終わった。
片づけをしていたら、三好さんが小走りに来た。
「園原さん。あの、もうお一人、いらっしゃいます」
「私に?」
「はい。券を、お持ちです」
机の前に人が立っていた。
さっきのボタンの人だった。
手に、買ったばかりのCDの袋を提げている。三枚目だ。
「あの」
声が小さかった。
「サイン、いいですか」
「もちろんです」
券を受け取った。私の名前のところに、丸がついていた。ボールペンで、何重にも。
ジャケットに、名前を書いた。サインというほどのものではない。普通に、園原糸音、と書くだけだ。
「さっきは」
その人は、コートのボタンを、指で押さえていた。
「すみませんでした。聞こえてましたよね」
「何がですか」
「……大丈夫、って」
「……ああ」
ペンを置いた。
「気にしてないですよ。久遠の歌、いいですもんね。私も好きです」
「でも」
「それに、今日の久遠のシャツ、私が縫ったんです。あれを着た久遠に会いたくて並んでくれたなら、私はそれで、けっこう満足なので」
その人は、しばらく黙っていた。
「衣装、全部作ってるって、本当なんですか」
「本当です」
「今日の、襟のところ。左右がぴったりで、すごくきれいで。それと、あの……」
顔が、赤い。
「ボタン、すごく速かったです。びっくりして。お礼も言えなくて」
「いえいえ」
「ありがとうございました。久遠さんに、恥ずかしくない格好で会えました」
深く、頭を下げられた。
それから、CDを胸に抱えて、友達のところへ走っていった。
七人目である。休止の前より、二人増えた。
帰りのワゴンで、社長が売り上げを数えた。
「CD、百四十二枚。物販が少し。高速代とガソリン代を引いて……」
電卓を叩く音が、止まった。
「赤じゃねえ。上出来だ」
「黒は?」
「どら焼き四個分」
「買ってください」
「買わねえ」
後ろの席で、陽太が伸びをした。
「糸音、何人だった?」
「七人」
「お、増えてんじゃん。前は五人だったろ」
「数えてたの」
「数えてるよ、毎回。俺の列の三番目のやつ、去年はお前んとこに並んでたぞ。浮気されてんぞ」
「それは陽太が浮気相手でしょ」
「たしかに!」
腹から笑っている。
「私の列の方が、何人か言っていたよ」
助手席から、澄人さんが振り向いた。
「ドラムの人、椅子を持ってきてくれた、と。レジで袋を渡してくれた、とも」
「暇だったので」
「それでも。ありがとう」
やわらかい声だった。
かなは隣で、窓にもたれていた。六十人に外向きの顔を使い果たして疲れたのか、目が半分閉じている。
「……七人目」
目を閉じたまま、言った。
「ボタンの人でしょ」
「見てたの」
「見てた。僕の列の、全員が見てた」
「全員?」
「いとが縫ってるあいだ、六十人が、こっちじゃなくて、そっちを見てた。僕も」
そんなに目立つことをしたつもりは、なかった。
「サイン、手が止まった。三好さんに時間ないから手を止めないでって、怒られた」
「それは、ごめん」
「謝らなくていい」
かなの頭が、こつんと私の肩に落ちてきた。
「……いとは、ああいうとき、迷わない」
「ボタンが落ちそうだったんだよ」
「うん。だから」
だから、の続きは、寝息になった。
窓の外を、高速の灯りが流れていく。
七人。
一万二千の椅子を埋めようとしているバンドの、ドラムの列が七人。笑える数字だと思う。
でも、角の話をしたおじさんと、スティックの握りを直した男の子と、箱を叩いた女の子と、ボタンの人の顔を、私は全部覚えている。六十人だったら、こうはいかない。
後ろの席というのは、案外、悪くない。
そう思いながら少しだけ、サインペンを持っていた手を握った。
ちくりとしたところは、まだ少しだけ残っていた。




