第5話 二十四時のスタジオ
届いたデモは、一分四十秒しかなかった。
ピアノと、かなの鼻歌だけ。歌詞はまだない。録音もたぶんスマホで、途中で椅子のきしむ音まで入っている。雑だ。売り物の声を持っている人間が、こんな雑な録り方をしていいのかと思う。
なのに、三回も聴いてしまった。四回目の途中で、自分の指が机を叩いていることに気づいた。人差し指と中指で、とん、とん、と。考え事をするときの癖で、やめようと思ってもやめられない。
おかしなデモだった。テンポが異常に揺れるのだ。速くなって、遅くなって、また戻る。普通、デモというのはクリックに合わせて録る。そうしないと、あとで他の楽器が乗せられないからだ。かながそれを知らないはずがない。
わざと、メトロノームなしで録っている。
「で、これに合わせて叩けと……」
声に出したら、ちょっと笑えてきた。機械には絶対に無理だ。揺れているテンポに合わせて揺れるなんて、打ち込みでやろうとしたら一小節ごとに数字を打ち直す羽目になる。
打ち込みは違う、とかなは言った。そりゃ違うだろう。最初から、人間にしか叩けないように作ってあるのだから。
性格が悪い。いい意味で。
夜の十一時半、行きつけのリハーサルスタジオに着いた。歩いて十五分の距離なのに、アパートを出たら澄人さんの手配したタクシーが待っていた。過保護にもほどがある。
高校のときから通っている店で、当時ここの受付でアルバイトをしていたのが澄人さんだ。今の店長はその頃の先輩で、うちが深夜に予約を入れると何も訊かずに一番奥の部屋を空けてくれる。
重い防音扉を押し開けると、かなはもう来ていた。
アンプの前の床に、膝を抱えて座っている。椅子はあるのに、なぜか床である。この人は昔から、落ち着きたいときほど低いところに座る。
「早いね」
「九時からいた」
「二時間半も何してたの」
「待ってた」
待つな。帰って寝ろ。
と言いたいのを飲み込んで、私はスティックケースを下ろした。言ったところで聞く人ではないし、目の下の隈を見るかぎり、どうせ帰っても寝ない。
ドラムの椅子の高さを合わせる。スネアの張りを確かめる。そのあいだ、かなは一言も喋らなかった。ただ、こっちを見ている。
「聴いたよ。あれ、クリックなしでしょ」
「うん」
「合わせるの大変なんだけど」
「いとなら合う」
「根拠は」
「合うから」
会話になっていない。
ため息をついて、イヤホンを片方だけ耳に入れた。デモを流す。かなの鼻歌が始まるのを待って、一番静かなところから、そっとハイハットを置いていく。
最初の八小節は、探りながらだった。どこで速くなるのか。どこで息をつくのか。デモの中のかなに、後ろからついていく。
九小節目で、不思議なことが起きた。楽になったのだ。考えなくても、次にどこへ行くのかがわかる。揺れているはずのテンポが、揺れていない。私が自然に叩きたい速さと、曲の行きたい速さが、ぴったり重なっている。
なんだこれ。合わせているのは私のはずなのに、曲のほうが私に合わせてくるみたいだった。
最後まで叩き切って、シンバルを止めた。部屋が静かになる。自分の息が上がっているのに気づいた。たった一分四十秒で。
「……これさ」
顔を上げると、かなは床に座ったまま、目を閉じていた。
バスドラムのすぐ横だ。あんなところにいたら、キックを踏むたびに床から振動が直接くるだろうに。
「かな?」
「うん」
目を開けて、かなは小さく笑った。
世間が知っている久遠奏多は、よく笑う。テレビでもステージでも、アイドルみたいに明るくて、誰にでも感じがいい。
でも、あれは努力だ。バンドの顔として、リーダーとして、完璧であろうとして作り込んだ笑顔である。だから私たちの前では、かなは笑わない。気を許した相手にまで愛想を振りまくほど、器用な人ではないのだ。そのかわり、本当に楽しいときだけ、こうやって勝手に笑う。私はこっちの姿のほうが自然で好きだった。
「それ」
「どれ」
「今の。それで合ってる」
「まだ一回しか叩いてないよ。もっと詰められるけど」
「詰めなくていい。そのまま」
そのままって、あなた。こっちは人の倍やってやっと及第点の人間だ。一回目のテイクをそのまま使われては、立つ瀬がない。
抗議しようとして、かなの手元にスマホがあるのに気づいた。画面の隅で、赤い丸が点いている。
「録ってたの?」
「うん」
「いつから」
「いとが入ってきたときから」
「椅子の高さ直してるとこから?」
「うん」
何に使うんだ、そんなもの。
まあ、作曲する人の頭の中はよくわからない。物音からでも何か拾うんだろう。昔からかなは、私が机を指で叩いているだけの音を、やけに真剣な顔で聴いていることがあった。
「この曲、名前は?」
「まだない」
「仮でいいから付けてよ。日付だと呼びにくい」
かなは少し黙って、バスドラムの皮に手のひらを当てた。さっきまで私が踏んでいた、まだ少し震えているところに。
「心拍」
会議室で言っていた言葉だ。
「誰の?」
何の気なしに訊いた。
かなは答えなかった。答えるかわりに、こっちを見た。目の高さがほとんど同じ人間に、あんなふうにまっすぐ見られると、なんというか、困る。
困ったので、スティックを回してごまかした。
そのとき、防音扉がどん、と鳴った。
「おーい、生きてるかー」
陽太だった。コンビニの袋を二つ提げて、肩で扉を押している。
「なんでいるの」
「差し入れ。あと応援。どうせ晩飯食ってねえだろ、お前ら」
図星だった。私は夕方におにぎりを一個食べたきりだし、九時からここにいるかなに至っては、たぶん何も食べていない。
「帰りは奏多が送ってくだろうから、俺は食わせに来ただけ」
「歩いて十五分なんだけど」
「送る」
答えたのは、陽太ではなくかなだった。食い気味である。
「十五分だよ?」
「十五分もある」
この件に関して、かなが折れたことは一度もない。幼稚園の帰り道から数えて、たぶん一度も。
続けてスマホが震えた。澄人さんからだ。
『遅くまでお疲れさま。陽太が差し入れを持っていったよ。帰りは奏多と一緒にね。温かいものを食べてから寝ること』
連携が取れすぎている。うちの男三人は、仕事のホウレンソウは壊滅的なくせに、私の食事と帰り道に関する連絡網だけは軍隊並みである。
「肉まん買ってきた。半分食う?」
「食べる」
「奏多は」
「いらない」
かなは床から立ち上がって、録音を止めた。さっきの笑った顔は引っ込んで、いつもの静かな顔に戻っている。
陽太が肉まんを割りながら、かなと私を交互に見た。で、笑った。
あ、また笑ってる。
「いいのできた?」
「できた」
「そっか。よかったじゃん」
陽太は半分にした肉まんの、大きいほうを私に寄こした。
店の前で陽太と別れて、かなと二人で夜道を歩いた。十五分の道のりの、ちょうど真ん中あたりだった。
「いと」
「なに?」
「十月九日。覚えてる」
「収録の日でしょ? 覚えてるよ、先週だもん」
「……うん」
かなはそれだけ言って、あとはアパートの前まで黙っていた。
何か、違う答えを待っていたような気がする。気がするだけで、何が違ったのかは、部屋の鍵を閉めてもわからなかった。




