第4話 大事な話
事務所デネボラは、古い雑居ビルの二階にある。
一階がクリーニング屋、二階がうち、三階は長いこと空いたままだ。
エレベーターなんていう便利なものはない。機材を運ぶたびに階段を呪うことになるのだが、家賃の話を聞いてからは誰も文句を言わなくなった。
水曜の十時。会議室という名の、長机がひとつあるだけの部屋に、四人と社長と三好さんが揃っていた。
それから、もう一人。
「おはようございます。お時間いただきありがとうございます」
レーベル担当の氷見さんである。三十八歳、紺のスーツ、銀縁の眼鏡。デビューのときからうちを見てくれている人で、口癖は「数字で言うと」だ。
念のため言っておくと、氷見さんはうちの事務所の人ではない。レコード会社の人だ。
事務所が私たちの面倒を見てくれる家だとすれば、レーベルは曲を世の中に売ってくれる取引先である。事務所は多少のことで私達を見放さないが、レーベルは売れなければ普通に切り捨てられる。
この人が朝から事務所に来る時点で、いい話ではない。長年の勘がそうささやいている。
ふと視線の先に、事務所の壁に飾られた額縁が映った。中には一枚の紙が入っている。二年前の活動休止の発表文だ。
『Cor Leonisは、ボーカル久遠奏多の体調不良のため、当面のあいだ活動を休止いたします。医師の診断の結果、一定期間の休養が必要と判断いたしました。予定しておりました公演は、中止とさせていただきます』
それは本当に突然だった。誰よりも作曲が好きで、曲を作る瞬間が何よりも息抜きだと言っていたかなが、「曲が書けない」と言い出したのだ。そのときの様子も今までに見たことがない表情をしていて、慌てて精神科に診療を受けにいったところ、休養が必要だと言われた。
活動休止中、最初の一年はかなは本当に何もしなかった。部屋から出てこない日のほうが多かった。二年目に入って、人に渡す曲と、人の曲を歌うことだけは、少しずつできるようになった。コルレオの曲は、最後まで一曲も出てこなかったけれど。
社長が自分で額装して掛けた。戒めだそうだ。何の戒めなのかは訊いていないが、あの紙の下で打ち合わせをすると、全員ちょっと背筋が伸びる。
制作期間のため。便利な言葉だよなあ、と見るたびに思う。実際のところ、あの二年でかなが作ったのは人に渡す曲ばかりで、コルレオの曲は一曲もなかったのに。
「単刀直入にいきます」
氷見さんが資料を配った。
「一月期の連続ドラマの主題歌、コンペの話が来ています。締切は十一月三十日。局のプロデューサーが、コルレオの名前を候補に挙げてくれました」
「お、いい話じゃないっすか」
陽太が身を乗り出す。私も思わず資料をめくった。よかった。悪い勘が外れたかもしれない。
「ただし」
――外れなかった。
「数字で言うと、勝率は三割です。相手がVESPERなので」
会議室の空気が、一段階だけ重くなった。
VESPER。うちが休んでいた二年のあいだに、きれいに頂点まで駆け上がっていった三人組だ。大手の事務所にいて、曲は完璧で、顔もいい。
ボーカルの鳴海朔は「もう一人の天才」なんて呼ばれている。
誰がそう呼び始めたのかは知らないが、「もう一人」と付く時点で、一人目が誰なのかは全員わかっている。
その一人目は、私の隣で資料も見ずに天井を眺めていた。カメラの前ではあれだけ愛想のいい男が、身内しかいない部屋ではこれである。十年近い付き合いの氷見さんも、どうやら身内の勘定に入っているらしい。
「先方の本命はVESPERです。これは隠しても仕方ないので言います。局としては、休止明けのバンドに賭けるより、いま売れているほうが安全ですから」
「……はっきり言いますねえ」
「はっきり言うのが仕事ですので」
氷見さんは眼鏡を押し上げて、もう一枚、紙を出した。
「もう一点。アリーナ公演のファンクラブ先行、現時点で売れたのは六割です」
六割……。残りは二十四日の一般発売で売るしかない。二年前、同じ会場のチケットは、先行だけで全部なくなった。あの公演は結局、やれなかったのだけれど。
「このコンペを取れれば、発売の追い風になります。取れなくて、アリーナも埋まらなければ」
氷見さんは最後まで言わなかった。言わなくても、壁の額が代わりに言っていた。レーベルとの契約は、今期で切れる。
社長が腕を組んだまま、うん、と一回だけうなずいた。この人は苦しいときほど何も言わない。黙って目を閉じたまま、何かを考えるように下を向いていた。
「書く」
隣から、ぼそっと声がした。
かなが、天井から目を下ろしていた。
「久遠さん。ありがとうございます。デモは十一月三十日必着でお願いします。打ち込みで構いません」
「……いとが叩いたのを出す」
「……はい?」
「いとが叩いたやつしか、出さない」
私は心の中で額に手を当てた。
出た。かなの謎のこだわり。
これを言い出すと、この人は梃子でも動かない。
ドラムやボーカルを本格的に収録しようとすると、スタジオ代もかかるし、提出に時間もかかる。なので、機械で楽器を打ち込んだ簡易版でよいと永見さんは言ってくれているのだが……。かなはなぜかデモ版にもドラムだけは私の音で入れたがる。
氷見さんは眼鏡の奥で二回まばたきをして、それから、あっさり肩をすくめた。
「構いませんよ」
構わないんだ。
「デモの段階でドラムを生で録る必要は、正直ありません。先方が聴くのは曲の形ですから、打ち込みで十分です。ソロのときも、久遠さんはそうされていましたし」
ソロ、という単語が出た瞬間だけ、空気が変わった。
陽太の笑顔が、口の形だけ残して止まっている。澄人さんはお茶の湯呑みを置いて、何も言わない。かなは氷見さんを見て、それから私を見て、そして天井を見た。
ソロの話は、うちではなんとなく誰もしない。
理由は知らない。ただ、かながあの二年のことを話したがらないのは知っている。人に書いた曲はどれも売れたのに、自分で歌ったのはカバーばかりで、そのアルバムのタイトルが『借りもの』だったことも。
氷見さんは、変わった空気に気づいたのか気づいていないのか、同じ調子で続けた。
「ですが、手間をかけたいとおっしゃるなら止めません。スタジオ代はそちら持ちで、期日までに納品していただければ、中身がどう作られていても私は結構です」
清々しいほど、興味がなかった。
この人のこういうところは、わりと嫌いじゃない。音楽に夢を見ていないぶん、嘘もつかない。
「打ち込みは、違うから」
誰も訊いていないのに、かながぼそっと付け足した。
「心拍が違う」
会議室が静かになった。
氷見さんは「そうですか」とだけ言って、手帳に締切を書き込んだ。翻訳を求められなかったことに、私は心底ほっとした。二十年以上の付き合いだが、この人の言う「違う」を訳せたことは一度もない。
「――叩きます。かなの曲ができ次第、すぐに。」
「助かります。締切を守るバンドは好きですよ」
氷見さんは初めて少しだけ笑って資料を閉じ、それから、思い出したように付け足した。
「そういえば。昨日のオンエア、VESPERの鳴海さんも観ていたそうですよ」
「へえ。何か言ってました?」
「衣装だけは褒めていました」
「衣装だけ」
「衣装だけ、です。『あのバンドで一番いい仕事をしているのはスタイリストだ』と」
なんだそれは。喧嘩を売られているのか褒められているのか、判断に困る。曲を褒めろ、曲を。うちは音楽をやっているのだ。
三人の方に視線を向けると、陽太は笑顔をやめていた。澄人さんは「そうですか」と逆にキレイな笑顔を浮かべている。かなは初めて、資料を手に取った。VESPERの名前が載っているページを、じっと見ている。
会議が終わって、階段を下りかけたところで、袖を引かれた。
「いと」
かなだ。
「今夜、空いてる?」
「空いてるけど。……もしかして、もう曲あるの?」
「ある」
――あるんかい。
「送る。聴いて」
その場でスマホが震えた。届いたのは音声ファイルがひとつ。名前は、数字が八つ並んでいるだけだった。
20261009。
かなのデモは、昔からいつもこうだ。曲名のかわりに日付が付いている。名前を考えるのが面倒なんだろうと思っている。
十月九日。先週の収録の日だ。仕事が早いなあ、と私は思った。
あの日、何かあったっけ。




