第3話 三枚の上着
社長のワゴンは、走行距離が二十万キロを超えている。
買い替えないんですかと訊いたら「まだ走る」と返ってきた。走るかどうかの話はしていないのだが、うちの事務所の財布事情を考えると、それ以上は突っ込めなかった。
座席の位置は毎回、決まっている。助手席に澄人さん。後ろの列は、窓側に陽太とかなで、真ん中が私だ。
なぜ毎回私が真ん中なのか。訊いたら陽太に「お前がいちばん場所取らねえから」と言われた。153センチへの侮辱である。が、反論の材料がなかった。
車が首都高に乗ったあたりまでは、覚えている。
次に目を開けたら、重かった。
何がって、上着が。
群青のパーカーと、橙のブルゾンと、水色がかったグレーのカーディガン。三枚が首から膝まで積み上がっていて、ちょっとした布団である。
「……重いんだけど」
「寒そうだったから」
という右側のかな。
「口開けて寝てたから」
というのは左側の陽太。
「それは上着と関係ないよね?」
「風邪ひかれると困るんだよ。お前のカウントがねえと」
「始まんないんでしょ。はいはい」
今日二回目だ、それ。
そこまで言ってもらえるとちょっとうれしいのだが、顔に喜びを出したら負けな気がして、そっけなく返す。
すると、助手席から澄人さんが振り返って、すまなそうに笑った。
「ごめんね、俺のは薄いから意味がなかったかもしれない」
意味がないと思うなら、なぜ掛けたのか。
というか今、澄人さん「俺」って言ったな。普段は「私」なのに。眠くて気が抜けているんだろうか。珍しいものを聞いた。
窓の外を見ると、見慣れたコンビニが流れていった。うちの近所だ。
この車は、いつも私を最初に降ろす。
スタジオから近い順でいえば、私は三番目のはずである。つまり毎回、けっこうな遠回りをしている。
ガソリン代を考えろと言いたいが、ハンドルを握っている社長が何も言わないので、言う機会がないまま四か月が過ぎた。
アパートの前で車が止まる。
私が降りると、当然のように陽太も降りてきた。
「鍵」
「俺が開ける」
「自分で開けられるんだけど」
「知ってる」
知ってるなら渡せ。
陽太は二階まで上がって、私の部屋の鍵を開けて、ドアを半分だけ開けて、中を一回のぞいた。何を確認しているのかは不明だ。泥棒がいたとして、ギタリストに何ができるというのか。
「よし」
「何がよしなの」
「はい鍵。閉めたら窓から手ぇ振って」
「子どもか」
「いいから」
押し切られて部屋に入り、鍵を閉めて、窓を開ける。下でワゴンのスライドドアが開いたままになっていて、三人ぶんの顔がこっちを見上げていた。
仕方ないので、手を振る。
陽太が大きく振り返す。澄人さんが小さく会釈する。かなは振らない。振らないくせに、車が角を曲がるまでずっとこっちを見ていた。
過保護だよなあ、と思う。休止前は、ここまでじゃなかった気がするのだ。送ってはくれたけど、部屋の中までは確認しなかったし、上着も一枚だった。
たぶん、休止した二年分を取り返しているんだろう。離れていた間、みんなそれぞれ一人でやっていた。戻ってきて、家族がちゃんと揃っているか、いちいち数え直したくなる気持ちはわからなくもない。私だってスタジオに入るたび、三人ぶんの背中を数えている。
家族って、そういうものだ。
窓を閉めて、部屋の電気をつけた。
1Kの部屋の窓際には、祖母の足踏みミシンが置いてある。その横に練習用のパッド。布とスティックに囲まれて暮らしている二十七歳というのは、客観的に見てどうなんだろうと思わなくもないが、考えると悲しくなるのでやめておく。
シャワーを浴びて、髪を乾かして、布団に入ったのが午前一時ちょうど。
枕元のスマホで、ラジオのアプリを開いた。
金曜の深夜一時は、陽太の生放送の日だ。
聴いていることは本人には言っていない。言うと絶対に調子に乗るので。
『はいどーも、柏木陽太です。ミッドナイト・レグルス、今週も始まりました。いやー今日ね、収録だったんですよ。来週の火曜かな、オンエア。楽しみにしててください』
さっきまで隣に座っていた声が、スピーカーから聞こえてくる。変な感じだ。
『で、ひとつだけお願いがあって。観るときさ、音、ちゃんと聴いてほしいんですよね。特にドラム』
目が開いた。
『画面には、まあ、あんま映ってないかもしんないけど。うちのバンドって、あいつのカウントがないと一音も出ないんで。心臓なんで、あれが。そこんとこ、よろしく』
一拍あいて、陽太はいつもの調子で笑った。
『はい、というわけで一曲目いきましょう』
……大げさな。
心臓って。ただのカウントだ。四つ数えるだけなら、メトロノームにだってできる。
そう思ったのに、なんとなく布団を鼻の上まで引っぱり上げていた。
相方思いのいいやつだよなあ、と思う。リズム隊みたいなものだから、ドラムが軽く見られるのは、ギターとしても気分がよくないんだろう。
曲が流れているあいだに、まぶたが落ちた。そこから先は覚えていない。
目が覚めたら朝で、スマホには通知が一件だけ届いていた。澄人さんからだ。
『おはよう。来週の水曜、十時に事務所へ来てください。四人揃って、社長から大事な話があります』
大事な話。事務所の「大事な話」が、いい話だったためしは、ここ二年ほど一度もない。
私は天井を見上げて、とりあえず、もう五分だけ寝ることにした。




