第2話 消えた通知
スタジオの照明が落ちると、私の世界は背中三つぶんになる。
右に陽太。左に澄人さん。真ん中の、いちばん遠いところにかな。ドラムセットの内側から見えるのは、十年以上ずっとこの景色だ。
悪くない。というか、正直に言えば特等席だと思っている。
客席からは絶対に見えない角度でこの三人を見られるのは、世界で私だけなのだ。ちょっとした役得である。
スティックを構える。フロアディレクターの指が、三、二、一、と折れていく。
カウントは四つ。この曲で私から始まるものは、それだけだ。
――カッ、カッ、カッ、カッ。
澄人さんの鍵盤が入る。陽太のギターが乗る。そしてかなが息を吸う音が、イヤモニ越しに聞こえる。
――来る。
何百回聴いても、この一瞬だけは背筋がぞわっとする。歌い出したかなは、さっきまで楽屋で「襟」としか喋らなかった男とは別の生き物だ。
猫背がまっすぐ伸び、声が照明より先にスタジオの天井に届く。
ずるいよなあ、と毎回思う。
こっちは人の何倍も練習してやっとここに座っているのに、あの人は口を開けるだけでああなのだ。陽太だって、あんな顔で弾きながらカメラに目線まで送っている。澄人さんに至っては鍵盤を見てすらいない。
天才三人と、普通が一人。
うちのバンドの内訳は、要するにそういうことだ。だから私は叩く。普通の人間が天才の後ろに座らせてもらうには、一打も外さないくらいしか払えるものがない。
最後のサビ。フィルを叩き込んで、シンバルを両手で止める。
音が消える、その一拍前。
かなが振り返った。
これも、いつものことだ。この人は曲の最後の一音で、必ず一回だけこっちを見る。合ってたか、と確かめるみたいに。
合ってるに決まってるでしょうが。
目だけでそう返すと、かなはふいっと前を向いた。
「はいOKでーす! コルレオさん、ありがとうございましたー!」
「ありがとうございました! めちゃくちゃ楽しかったです!」
真っ先に頭を下げたのはかなだった。ぱっと花が咲いたみたいに笑って、カメラさんにも照明さんにも、一人ずつ目を合わせて手を振っている。
さっきまで鏡の前で十分も固まっていた男と、同一人物とは思えない。
あれを見るたびに、プロだなあと思う。
世間の人が知っているのはあっちの久遠奏多だ。よく笑う、明るい、みんなのリーダー。
本人が何年もかけて、一ミリずつ作り上げた顔である。襟を直すのは、たぶんあっちに切り替えるためのスイッチなんだろう。
プレイバックのモニターを、四人で覗き込む。
画面の中のかなは、やっぱりずるかった。陽太は抜かれるたびに決め顔をしているし、澄人さんの指は芸術品みたいに映っている。
で、私はというと。
――映っていない。
正確には三分四十秒のうち、たぶん二秒。それもシンバルの向こうに頭のてっぺんが見えたくらいだ。
「……糸音のとこ、少なくないっすか」
陽太が笑ったまま言った。笑っているのに、声の温度だけが低い。
「カメラ割りは局さんのご判断ですから」
答えたのは澄人さん。こちらはいつもより言葉が丁寧だった。
「ただ、次回は事前にご相談させていただけると、私どもとしても大変ありがたいのですが」
澄人さんのキレイな笑顔に、ディレクターさんが一歩下がった。
当の私といえば、なんで空気が冷えているのか、よくわからない。ドラムが映らないのなんて今に始まったことじゃないし、私が作ったこだわりの衣装を着た三人が華やかに映っていれば、私としては満足だった。
「私は別にいいですよ。襟、きれいに映ってたし」
フォローのつもりで言ったら、三人が同時にこっちを見た。かなに至っては眉間にしわが寄っている。
……なんで?
楽屋に戻ると、紙袋を提げたおじさんが待っていた。
「おう、おつかれ」
うちの社長、真柴さんである。五十二歳、元バンドマン。現在の肩書きは社長兼運転手兼営業兼、たまに機材運び。
兼任が多いのには理由があって、うちの事務所は現在、今日入った三好さんを含めてスタッフが四人しかいない。所属しているアーティストは、うち一組だけだ。少数精鋭、と社長は言い張っている。数字にすると、なかなかに味わい深い。
「差し入れ。どら焼きな。あと奏多、これお前の」
社長が茶封筒を一枚、かなにだけ渡した。かなは中も見ずに鞄にしまう。
毎月のことだ。中身は知らない。一度訊いたら「明細」とだけ返ってきた。明細なら私たちにも来ているのだが、なぜかかなのぶんだけ社長の手渡しである。
陽太が、その封筒からふっと目を逸らした。で、また笑った。
「かな、どら焼き」
「いらない」
差し出されたどらやきから視線を外し、炭酸水の蓋をひねるかな。いかにも興味ありませんという顔をしている。
嘘つけ、と私は思った。
自分のぶんを半分に割って、かなの鞄の横にそっと置く。案の定、五分後に見たら、きれいに消えていた。包み紙ごと。
この人が甘いものを人前で食べないのは昔からで、理由は「かっこ悪いから」だそうだ。かっこ悪くはないと思うのだが、本人が隠したいなら付き合うまでである。
「いと」
かなに呼ばれ振り返ると、彼は私のスマホを差し出してきた。
「充電」
「ありがと。おお、百パーセント」
ありがたい。画面をつける。
(あれ?通知、ゼロ?)
本番前に、たしかに一回震えたはずだ。一行目まで見えた気がしたのだが。SNSのアイコンを確かめても、赤い丸ひとつ付いていない。
見間違いだったのかもしれない。それか、スマホの機能で一定時間が経つと自然と消える機能なのかも。
私はスマホをポケットに突っ込んで、残り半分のどら焼きにかじりついた。
顔を上げたら、三好さんが手帳に何かを書いていた。目が合うと、ものすごい勢いで閉じた。




