第1話 いつものこと
本番三十分前の楽屋というのは、どこの局でも同じ匂いがする。ヘアスプレーと、スチームアイロンの湯気と、誰かが開けたばっかりの炭酸水。
この景色が戻ってきて早四か月。いいかげん慣れろよと自分でも思うのだが、この匂いを嗅ぐとまだたまに手が止まる。
「糸音ちゃん」
頭の上から降ってきたのは、うちの最年長の柔らかく透明な声。聞いているだけで、とてもよく眠れそうな安心感に包まれる。
「三時に軽く食べたきりでしょう。そこにおにぎり置いてあるから、縫い終わったら食べてね。梅と鮭、どっちもあるよ」
――なんで私の最後の食事の時刻を把握しているのか。
というツッコミは、もう何年も前にやめた。訊いたところで「見てたから」と笑顔で返されるだけである。
「ありがとうございます。あと二針なんで、動かないでください」
「はーい」
語尾に音符がつきそうな軽やかな返事を聞きながら、私は膝をついたまま、澄人さんのジャケットの裾に針を通した。
キーボードを前に椅子に座っているときは忘れがちだが、身長183センチの人間を下から見上げると手足の長さが際立って巨人に見える。
一見、圧迫感を感じそうな景色なのに、全くそれを感じないのは、言われたとおりにぴたりと固まり、息まで止め、プルプルと震えている姿があるからだろうか。
(いや、息はしていいんだけどな)
そう言ってもどうせ息を止めるので、言わない。……素直なんだか頑固なんだか、十年以上の付き合いとなる今でも、この人のことはよくわからない。
「……あ、来週の衣装の打ち合わせ。先方から私のほうに連絡が来ていたから、火曜の二時で入れておいたよ」
「ありがとうございます。火曜の二時ですね。了解です」
私宛ての連絡がなんで澄人さん経由なんだ、と首をひねったのも最初の頃だけだ。事務所の社長と仲がいいし、事務所の窓口をずっとこの人が見ているんだから、まあそういうもんなんだろう。
そこまで考えて、ちょうど縫い上げ終わった糸を切って、彼の裾をぽんと払う。
「はい完了。自由に息していいですよ」
「助かった……」
冗談で言ったのに、本人が本当に息を吐いたので、ちょっと笑ってしまった。律儀か。
「糸音、水」
立ち上がるより先に、目の前にペットボトルが突き出された。ギター担当の陽太だ。
ペットボトルを受け取ると、蓋がもう開いている。正確には、一回開けて軽く閉め直したようだった。
言っておくがこれは、私が頼んだわけでも、私の握力がなくて開けられないわけでもない。
こちとらドラマーである。スティックを二時間振り回す女に、ペットボトルの蓋が開けられないわけがない。
なのに陽太はいつからか、私に渡す飲み物の蓋を必ず先に緩めてよこす。理由は訊いたことがないが、彼なりの気遣いと優しさなのだろうと思っている。
「ぬるいやつな。本番前に冷たいの飲むと腹にくるだろ」
「うん。ありがと」
「あと鍵。今日も俺が持ってっから」
「……それ、うちの鍵だよね?」
「そ。お前、無くすじゃん。帰れなくなると大変だから、俺が預かっとく」
確かに無くしたことはある。だが、無くしたのは一回だけだ。それも、三年前。それをいつまで言うか、この男は。
抗議しようと口を開いたときには、陽太はもう自分のギターのほうへ歩いていて、肩越しに振り返ってにっと歯を見せた。
経験上、この男がこんな風に笑う日は、だいたい何かある。私は手に持っていたペットボトルを、ぎゅっと握りつぶした。
「あの、園原さん」
ドアの横から、遠慮がちな声がした。
今日からうちの現場に入った、マネージャーの三好さんだ。ひょろりと背の高い男の人で、常に手帳を握りしめて、メモを取っている。緊張しているのか、まばたきがやたら多い。
着任の挨拶をもらったのが一時間前で、それからずっと楽屋の隅っこで固まっていた。初日だもんな、そりゃ緊張するよな、と思っていたのだが――。
「みなさん、その……いつも、こうなんですか」
「こう、って?」
三好さんの質問に訊き返すと、三好さんの視線が順番に動いた。その視線をたどるとあるのは、陽太の背中。澄人さんのおにぎり。それから私の手の中の、蓋のゆるんだペットボトル。
「……いえ。なんでもないです」
なんでもない顔ではなかった。
何か変だっただろうか。……ざっと思い返してみたが、特に思い当たる節がない。いつもどおりの本番前である。
廊下の足音が近づいて、ドアが三回鳴った。
「コルレオさん、スタンバイお願いしまーす」
「はーい」
陽太が返事をして、澄人さんが袖口を直しながら立ち上がる。
で、一人だけ動かないのがいる。
久遠奏多。うちのボーカルで、全部の曲を書いている人で、私の幼なじみである。
「かな」
幼稚園の頃からの呼び慣れた名を呼ぶと、青みがかった黒い瞳だけがこっちを向いた。
鏡の前の椅子に座ったまま、両手を膝に置いて動かない。鏡の前にいるくせに、鏡の中の自分を見ておらず、ずっと同じ姿勢のまま、もう十分は経っている。
「襟」
「直ってるよ。さっき見たでしょ」
「直ってない」
三十分前に私がアイロンを当てて、角度まで決めた襟だ。一ミリだって崩れちゃいない。スタイリストの名にかけて断言する。
断言するのだが――
私は全く……と声を漏らしながら、針山を置いて、かなの前に立った。
指で襟の先をなぞる。何も動かさない。触って、形を確かめるふりをするだけ。
「はい。できた」
「ん」
そこでやっと、かなは立ち上がった。並ぶと、目の高さがほとんど変わらない。
この人は、幼稚園のおゆうぎ会のときからこうだ。誰かが大丈夫だと言ってやるまで、舞台の袖から一歩も動けない。日本中が天才だなんだと騒ぐようになっても、そこだけは変わらなかった。
正直、変わらないでいてくれて、ちょっとほっとしている。というのは、本人には絶対に言わない。
ポケットの中でスマホが震えた。
取り出して画面を見るより早く、横から伸びてきた手にするっと抜き取られた。
「十二パーセント」
かなである。携帯の充電がわずかしかないことに目ざとく気づいたようだった。
「本番のあいだ、挿しとく」
「あ、うん。ありがと」
スマホのディスプレイに映しだされた通知の一行目が、一瞬だけ見えた気がした。
『なんであの女がまだ』
続きはかなの親指の下でよく見えない。一瞬だったし、見間違いかもしれない。
かなは何も言わずに私のスマホに自分の充電器をつないで、画面を下にして、鏡台のいちばん奥に置いた。
顔を上げると、三好さんがまたこっちを見ていた。目を見開き、硬直している姿に、私は首をかしげる。
「糸音」
ドアのところで陽太が振り返って笑っている。その後ろには澄人さんがいて、手を振っていた。
「行くぞ。お前のカウントがねえと始まんねえんだから」
はいはい、と返事をして、私はスティックを二本ひっつかんだ。
楽屋を出ていくかなの後に次いで、彼らの背中を追いかける。
――追いかけるのは慣れていた。私の定位置は、いつだってこの人たちの一番後ろだから。




