序章 暗転
一万人分のざわめきが、幕の向こうから床を伝って足の裏まで届いていた。
海の音に似ている。寄って、引いて、また近づいて――袖の暗がりに立つ私は、鼻腔をくすぐるスモークの甘い匂いに目を閉じた。
十二月十三日、日曜日。午後五時五十八分。
あと二分で、客席の明かりが落ちる。
徐々に近づいてくる幕開けの瞬間に、スティックを握る手に自然と力が入った。じわじわと手の平に湿り気がおびる。
浅くなる呼吸に、どうやら自分が緊張しているらしいと教えられた。十二年もやっていて、何を今さら……と自分でも思う。
――気分転換に自己紹介でもしておこうか。
園原糸音。二十七歳。Cor Leonis、略してコルレオというバンドのメンバーであり、ドラマー。ついでに、メンバー全員の衣装を縫うスタイリストである。
うちのバンドには、三人の天才がいた。
一人は、作詞作曲を全て自分で行い、性別を超えた圧倒的な音域で、会場の雰囲気を一瞬にして包み込むボーカル。力強さと繊細さを兼ねそなえた歌声は、聞いている人を自分の世界へと引きずり込む。まるで歌の魔法使いのようだ。
そしてもう一人は、彼が作り出す繊細な曲を誰よりも速く正確に弾くギタリスト。多くのプレイヤーが音を上げる複雑な音階を、軽やかに弾きこなし、聴く人の鼓動にリンクさせる。
最後の一人は、華やかで展開の多いサウンドを、鍵盤一つで鮮やかに再現するキーボード。ピアノもシンセサイザーも巧みに弾きこなす安定感は、二人の音を下から支え、全体をひとつにまとめている。
舞台袖の下、静かに出番を待つ三人の背中を眺めながら、自分がこの空間にいることを不思議に思う。
この三人に比べて、私はとにかく平凡だ。三人の後ろで、カウントを数え、リズムを叩く。それ以外に、できることは特にない。音感のない私が彼らの足を引っ張らないようにできることは、精々人の倍練習すること。あとは、三人の魅力が最大限に引き出せるよう、空いた時間で衣装を整え、襟の芯を替えるくらいだ。ここまでやってはじめて、普通の人間が天才の後ろに座らせてもらう席料が払えると思っている。
――少なくとも、二か月前まではそう思っていた。
「園原ちゃん」
サポートでベースをしてくれている男性が、小さく声をかけてきた。
「襟、曲がってるぞ」
「知ってます」
特殊な芯を入れ形状を記憶させた襟が、今日は少しだけ右に傾いている。魅せ方が大切な舞台衣装で、通常なら直すところである。
だが、今日は直したくない気分だった。
靴ひも。袖口のボタン。そして、襟。
この3か所は今日の私にとって、触れてはならない聖域になったのだ。
どうしてそうなったのかは、話すと長い。
この二か月で私は、封筒を二通もらった。片方は銀の箔押しで、片方は星の罫線。週刊誌にも載り、雑誌を投げつけられた。そして――生まれて初めて、人を怒鳴った。怒鳴り返されもした。
それから、「選べ」と言われた。三人から、別々の言葉で。
明日の朝までに、私は決めなければならない。
――このバンドに残るのか。出ていくのか。
出ていけば、私の名前は大きくなり、報酬は四倍になって、叩かれることもなくなる。
――残れば。
残れば、何があるのだろう。それをまだ、誰も口では言ってくれていない。うちのバンドは、大事なことほど口に出さないのだ。
幕の隙間から差し込んだ光が、目の前の三人を照らす。群青と、橙と、水色。顔は暗くて見えない。でも、誰がどれなのかは、立ち方でわかる。落ち着きなく足を踏みかえているのと、まったく動かないのと、こっちをじっと見ているのと。
十二年、後ろから見てきた背中だ。
客席の明かりが、落ちた。
暗転。
悲鳴みたいな歓声が、壁になって押し寄せてきた。
真っ暗な舞台を、歩く。
一番奥の、一番うしろ。いつもより八十センチ高い台に上がり、椅子に座って、ペダルに足を置く。
顔を上げると、全員の背中が見える。私だけの特等席。
息を吸った。
四つ数えれば、舞台は始まる。
始まったら、二時間半は何も考えなくていい。行くとか、残るとか。数字も、封筒も、曲がった襟のことも。
――二か月前、蓋のゆるんだペットボトルを見て、「まあ、いつものことだ」としか思わなかったあの頃、私はこうなることを全く予想もしていなかった。




