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一番後ろの一等星〜自称・普通のドラマーは、天才バンドマン3人の激重な溺愛に気づかない〜  作者: 嘉ノ海 祈


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第32話 届けたかったもの

「はい、できた」

「さんきゅ」


 十二月十三日、日曜日。


 今朝も陽太から九個目となるおにぎりを受け取った。今日のおにぎりは、どこから見ても三角で綺麗な形をしている。しかも、ちゃんと種ぬきだ。


 陽太の裾を直し終わると、次は澄人さんの袖を調整していく。


「ありがとう」


 優しく微笑む澄人さんに微笑み返した後、最後にかなの襟の調整に取り掛かった。


 さっと襟の芯に指を沿わせ、形を整えていく。


「できた。行ってらっしゃい」


 かなの背筋が、すっと伸びる。……伸びたのだが、顔が、いつものようには切り替わらなかった。眠そうだった目尻は上がったし、口もともゆるんだ。でも、あの明るくてアイドルのような久遠奏多の顔の下に、素の奏多が半分透けて残っている。


「……かな?」

「今日は、半分にする」

「半分?」

「全部切り替えると、いとの音が遠くなるから。半分のありのままの僕も、こっちに置いとく」


 そんな器用なことができたのか、と思った。いや、長い何月をかけてできるようになったのだ。たぶん、これまでの様々な経験が、彼をそうさせた。


「じゃあ、次」


 かなの言葉に、私は首を傾げる。


「次?」

「いとの番」


 何のことかわからないうちに、陽太が私の足もとにしゃがんでいた。


「靴ひも。左がゆるい」

「あ、ほんとだ。気づかなかった。自分でやるよ?」

「いいから」


 石みたいに硬い指が、ひもを結び直した。きつすぎず、ゆるすぎず。ペダルを踏む足のことを、わかっている結び方だ。


「糸音ちゃん、右手を」


 澄人さんが、私の袖口を取った。薄い布のいちばん端に付けた小さなボタン。……留め忘れていた。


 すらっとした長い指が、それを器用に留めてくれる。六日前の朝、澄人さんが自分で付けたボタンだ。糸の始末が、少しだけ太い。


「……よし。これで、振り上げても開かないね」

「ありがとうございます」


 最後に、かなが私の正面に立った。襟元に向かって、かなの手が伸びてくる。


「ちょっと!?」

「じっとして」

「……かな、自分の襟も直せないのに」

「うるさい」


 かなの指が襟の端をつまむ。おそるおそる、左を上げて、右を上げて、高さを見比べて、また左を直した。眉間に、曲を書いているときと同じ皺が寄っている。


 体感、三十秒くらいそうしていたと思う。


「……できた」


 私は近くの姿見を見た。少し襟は右に傾いているが、及第点だろう。


「ふふ。曲がってる」

「曲がってない」

「スタイリストが言うことが信じられない?」

「……直す」

「いい」


 私は襟に手をやって、そのまま下ろした。


「このままで出る」

「え」

「うしろの席からは見えないし。前の人には、ご愛嬌」


 せっかく、かながやってくれたのを直したくなかった。


 そのとき、楽屋の扉が勢いよく開いた。


「ほ、報告です!」


 三好さんだった。手帳を握りしめて、肩で息をしている。


「当日券、開場までに四百枚出ました! 最終、八割六分に到達です!」


 一瞬、誰も動かなかった。八割五分。それが損益の分かれ目。


 越えた。赤字にせず済んだ。レーベルからの条件もクリアだ。


「っしゃあああ!」


 陽太が吠えて、三好さんに抱きついた。三好さんは「ひゃ」と変な声を出して固まる。推しに抱きつかれたファンの顔だった。


 澄人さんはホッとしたように長く息を吐いて、目を閉じた。


 かなは、私を見ている。


「社長は」

「客席の、いちばん上にいらっしゃいます。一番うしろの列の通路に」


 自分で見に行ったのだ。あの人らしい。


「僕たちも行こう。ステージへ」


 かなが、手を出した。円陣を組もう、ということらしい。


 四人で輪になる。掛け声は決めていない。十二年間、いつもその時の気分で決めていた。


「何て言う?」

「部室ー、でいいんじゃね」

「アリーナで?」

「半拍遅れるやつが一人いるけど」

「遅れない」

「じゃあ、いと。カウント」


 息を吸った。


「ワン、ツー、スリー、フォー!」

「部室ー!」

「……部室」


 数えたのに、かなは遅れた。それを四人で笑って、手を離す。


 舞台の袖は、暗かった。幕の向こうで、一万人が待っている。ざわめきが、床を伝って足の裏まで届いていた。海の音に似ている。


「園原ちゃん」


 宇佐美さんが、ベースを提げて隣に立った。


「襟、曲がってるぞ」

「知ってます」

「そうか」


 それ以上は訊かなかった。この人は、いつもそうだ。


 客席の明かりが落ちた。


 暗転。


 悲鳴みたいな歓声がアリーナに広がる。


 私は真っ暗な舞台を歩いて、八十センチの台に上がった。椅子に座って、高さを確かめる。スネアには触らない。ペダルに足を置く。


 顔を上げて、息が止まった。


 光っていた。


 すり鉢の底から縁まで、小さな光が、びっしりと埋まっている。お客さんが手に持つ灯りだ。


 群青色、橙色、水色。三つの色が、波みたいに揺れていた。


 その間に、ぽつぽつと緋色の灯りもあった。十個中二つくらいでそんなに多くはないけれど、どの方向を見ても必ず緋色の灯りがあった。群青の海の中に、橙の帯の端に、水色のかたまりの真ん中に。


 私の色を持ってきた人がいる。今までメンバーカラーを身につけたことがなかったのに、どこで知ったんだろう。プロフィールに小さく書いたことしかないのに。


 いちばん上を見た。天井に近い暗がり。一番うしろの列。豆つぶより小さい光が、横一列に並んでいる。

その端にひとつ。赤い光があった。


 涙腺に力を込め、ぎゅっと泣くのを我慢する。泣いたら、叩けない。私はスティックを、固く握り直した。


 四つ数える。


 一曲目のスタートだ。


 インディーズの頃に作った、速くて荒い曲。曲の途中で、陽太が舞台を端から端まで走る。橙色の裾が、火みたいに尾を引いた。澄人さんはいつもより一歩前に出ていて、鍵盤の音が今までより太く、真ん中に刺さってくる。


 かなは、歌っていた。明るいけど、素の自分を半分だした状態で。笑っているのに、目の奥は素のかなのまま。


 声が、いつもより近かった。何というか、いつものハイパフォーマンスで完ぺきじみた感じではなく、弱い自分を抱きしめて上げるような、本当のかなの人間らしさが、歌に混じっている。


 全部切り替えると、いとの音が遠くなる。かなは、そう言っていた。逆も、そうだったのだ。私にとっても今の方が、かなの声が私のところまでちゃんと届く。


 半拍うしろに、キックを置いた。歌がそこに乗っていく。


 そのまま演奏が進み、五曲目に差し掛かったとき、私は客席を見て気がついた。前から四列目に、あの人がいた。


 コートに星のピン。手には、何も持っていない。灯りを点けずに、膝の上で両手を握って、舞台を見上げている。それでも、来てくれた。


 陽太も気づいていた。間奏で、舞台の縁まで出ていき、四列目の真正面にしゃがみこんで、ギターを低く構えた。


 三日間みっちり練習して、何度も挫折しかけながら仕上げた想い出深いフレーズだ。速いのに、一音も濁らない。指がどこに行けばいいか、全部わかっている。私のスネアのすぐ後ろに、ぴたりと座っていた。


 誰でもいいギターなんかじゃない。そう知らしめる音だった。


 あの人の顔が、くしゃくしゃになった。両手で口を押さえて、肩が揺れている。


 陽太は立ち上がって、ニッと笑うと、ステージの反対側へ走っていく。一瞬見えた横顔は、とても嬉しそうだった。


 八曲目は、澄人さんの見せ場だ。


 頭の三十二小節が、鍵盤だけで始まる曲である。今までは舞台の奥で、照明もほとんど当てずに弾いていた。


 今日は違う。水色の袖から出た指が、鍵盤の上を滑らかに走っていく。一音ずつ、置くべき場所に、置くべき重さで置かれていく繊細な指さばきは、クラシックで鍛えられた代物だ。それが、バンドの音の中で、初めて中心に立った。


 三十二小節が終わったとき、客席から声が上がった。


「澄人さーん!」


 一つではなかった。あちこちから、何十も。澄人さんの肩が、びくりと動いた。驚いたのだ。自分の名前が、あんな大きさで呼ばれたことに。水色の灯りが、すり鉢の中でいっせいに揺れた。


 澄人さんは、ほんの一瞬、うしろを振り向いた。困ったような、泣きそうなような、子どもみたいな顔をしていた。


 私は、スティックの先で前を指した。前、向いて。お客さんを見てと。


 それに気づいた澄人さんはふっと笑うと、客席に向き直って、深く頭を下げた。


 いつも誰かの世話を焼いている人が、拍手を受け取る側に立つと、こんな顔をするのだ。一万人が、今それを目撃した。


 十曲目に、私の番が来た。そんなものは、今までなかったので、初めての試みだ。


 ドラムソロ、というやつである。曲の途中で他の全員が手を止めて、ドラムだけが叩く。十二年間、うちのライブには一度も入れなかった。入れようと言われるたびに、私が断ってきた。そこは三人を見せる時間にしたほうがいい、と。


 でも今回は、かなが譲らなかった。少しだけでいいからと押し切られ、やることになった。


 音が引いて、照明が私だけを照らす。


 私は深く息をすると、思いっきりドラムを叩いた。


 難しいことはしないし、できない。私は手数で聴かせるドラマーではない。いつもやっていることを、そのまま全力でやるだけだ。キックを置いて、スネアを置いて、その間に左足でハイハットを踏んで――。


 いつもはひっそりとやってきたことを、今日はお客さんに見てもらう。


 スティックを振り上げると、緋色の袖が動きに合わせて揺れる。両脇の画面に、自分が映っているのがわかった。見ないようにした。見たら手が止まる。


 ソロとしてやる十六小節は、長かった。最後の一打を振り下ろして、手を止めた。


 静かだった。


 しまった、と思った。地味すぎたか。やっぱり、三人の時間にしておけば……。


「糸音ーーっ!」


 静寂を掻き消すように、1人の女性の声が会場に響いた。立て続くように、一つ、二つとファンの声が聞こえてくる。


「糸音ちゃーん!」

「かっこいいーっ!」


 その声はどんどん増えていき、顔を上げたら、客席の灯りが、変わりはじめていた。


 群青色の中で、ぽつ、と一つが赤に変わる。続くようにその隣も変わる。橙色の帯の端で、三つまとめて変わっていく。


 十のうち一つか二つだった赤が、三つになった。見ているあいだに、四つになった。


 ――ああ、そういうことだったのか、と思った。


 十二年間、私は三人がどう見えるかだけを考えてきた。襟の角度。裾の長さ。照明が当たったときの色。

 

 三人が一番よく見えるように、自分はいちばん見えないところに下がった。黒い服を着て、機材のうしろに座って、カメラが来たら体を引いた。


 ――見えないものを、好きになってもらえるわけがなかったのだ。


 三人のことが好きで、三人を見に来た人たちにとって、私は名前と、週刊誌の写真と、誰かが書いた言葉でしかなかった。顔もよく知らない女が、好きな人のすぐそばにいる。それは、面白くないだろう。 


 叩いているところを、ちゃんと見せたことがなかった。ちゃんと見せたら、こうなるのか。


 陽太が、舞台の向こうで両手を上げて跳ねていた。澄人さんは、鍵盤の前で拍手をしている。初ライブの日と同じ、誰よりも早い拍手だった。


 かなはマイクの前で、こっちを見て笑っていた。だから言ったのに、という顔だった。


 関係者席は、見ないつもりだった。でも、見えてしまった。台を上げたせいだ。

 

 二階の正面。灰色の髪の人が、背筋を伸ばして座っている。隣に、熊みたいに大きい影。その隣に、切れ長の目の人。


 鳴海さんは、腕を組んで身を乗り出していた。何かを考えている顔だ。まるで計画を練るような。


 好きなようにすればいいと思った。もう、自分たちの絆が揺らぐことはない。私たちは強くなったのだから。


 十四曲目。いよいよ『心拍』の演奏だ。今日が初披露になる。クリックがないので、私の体の中の拍を頼りに演奏をする必要がある。


 四つ数えた瞬間、一万人が静かになった。


 澄人さんの和音。私のキック。かなの声。


 全てが重なり、曲が進んでいく。そして、あの八小節が来た。楽器が、全部引く。残ったのは、キックと、声だけ。

 

 かなが振り向いた。半分だけ。体は客席に向けたまま、顔だけをこっちに。


『一番後ろの 一等星

誰も 気付かないって 思ってた?

ごめんね まだ 言えないまま

君を 背中で 聴いている』


 目が、合った。


『止まりそうな 夜にも

君が 僕を 鳴らしてくれた

ねえ 夜空の獅子の心臓も

一等星だって 知ってた?』


 足は、止まらなかった。止まらなかったが、胸のあたりで、何かが半拍ずれた。


 走ったのとは違う。糸くずとも違う。『交際の事実はございません』を読んだときに引っかかった、あの名前のない場所が、今度は鳴った。


 何の音なのかは、わからなかった。わからないまま、最後のサビを叩ききった。


 歓声が、壁みたいに押し寄せてきた。


 かなが、マイクを握る。ここで喋る予定は、台本になかった。


「……えっと」


 おずおずと放たれる、小さな声。一万人が、聞き耳を立てた。


「二年間、待たせて、ごめんなさい」


 拍手が起きかけて、かなが手で止めた。


「それと。いつも皆んなに見せている笑ってる僕は、頑張って練習したやつです」


 客席が、どっと笑った。


「家でお風呂に入りながら……こう言われたらこう返す、って、全部決めて、必死に練習して、僕がこれだったら皆んなに認めてもらえると思う僕を演じてました。もちろん、それも僕だし嘘じゃないけど……僕の全部でもなくて」


 言葉を、探している。覚えてきた言葉ではなかった。


「この前、素の僕の顔を、たくさんの人に見られました。正直、怖かったです。でも……そのあと、たくさんの人が、それでいいって言ってくれた」


 四列目のあの人が、顔を覆ったのが見えた。


「それが少し自信になりました。だから今日は、半分だけ、ありのままの僕を出して歌ってます。……下手だったら、ごめんなさい」


 「下手じゃないよー!」と、客席のあちこちから声が飛んだ。


 かなは、それにちょっと嬉しそうに笑った。


「ここまで聴いてくれて、ありがとうございます。……いよいよ、最後の曲です。新曲になります。題は、うちの名前と同じです」


 照明が落ちた。『獅子の心臓』。かなのタイトルコールが、会場にこだまする。


 かなが、ピアノの前に座った。私はスティックを置き、両手を膝にのる。息を思いっきり吸って、一万人の前で、マイクもなしに声を出す。


「ワン、ツー、スリー、フォー!」


 声は思ったより遠くまで行った。アリーナが静まり返っていたからだ。誰も、咳ひとつしなかった。澄人さんが怖がっていた種類の静けさではない。全員が、同じものを待っている静けさだった。


 かなのピアノがスタートする。


 『一番うしろで 四つ数える声がする

針の穴ほどの 灯りがともる』


 私は叩かない。座ったまま、三人の背中を見ている。群青の背中に、銀の星がひとつ。照明を拾って、ちかりと光った。


 二番になり、キックを入れた。サビで、全ての音がのっていく。


 そして、最後のサビの前。音が止まった。もう一度、声で四つ数える合図だ。私は息を吸った。


 そのとき――


 照明が、全部、消えた。


 真っ暗になった。事故か、と思った。


 でも、違った。


 一本だけ、光が点いた。真上から、まっすぐ。私にだけ。緋色の袖が、白い光の中で、燃えるみたいに浮かぶ。


「え」


 声が出た。暗がりの中で、三つの影が動いた。


 振り向いたのだ。三人とも。客席に背中を向けて。


 陽太が、ギターを抱えたまま、こっちを見ていた。澄人さんは、鍵盤から手を離して、体ごと向き直っている。かなは、ピアノの椅子から立ち上がって、マイクを一本持って、舞台の真ん中に立っていた。


 一万人に背を向けて。私のほうを、向いて。


 舞台の両脇の、大きな画面が点いた。映っていたのは、三人の背中だった。客席から見た、後ろ姿。群青色と、橙色と、水色。


 私がいつも見ている景色を、今、一万人が見ている。


 画面が寄っていく。群青色の背中の真ん中へ。銀の糸の小さな星に。


 うしろの列からは見えないはずのものが、アリーナでいちばん大きく映った。


 どよめきが、会場を上っていった。


 隠していた演出というのは、これか。――馬鹿じゃないの、と思った。前を向いて歌うのがボーカルでしょう。お客さんに背中を向けて、どうするの。


 喉の奥が、熱かった。


 かなが、こっちを見ている。あれは、素のかなの表情だ。


 幼稚園の舞台袖で、私に手を引かれて、顔を上げたときの。あの顔のまま、二十七歳になった人が、マイクを持って立っていた。


 口が、動いた。声は出していない。


 『いと。カウント』


 ……ずるい。それを言われたら、私は数えるしかない。


 肺いっぱいに息を吸った。待っている一万人のために。


「ワン」


 声が、震える。


「ツー」


 一番うしろの列で、赤い光が揺れた。


「スリー」


 三人が、笑った。


「フォー」


 スティックを、振り上げた。緋色の袖が、光の中で広がっていく。


 ドラムを叩いた。


 全部の照明が、いっぺんに点灯する。客席のうしろから、いちばん上の、いちばんうしろの列から、光が波になって、前へ前へ下りてくる。


 かなが歌った。私に向かって。背中で、一万人に聴かせながら。


『獅子の胸のいちばん奥で

鳴りやまないものを 心臓と呼ぶなら』


 陽太のギターが、吠えた。澄人さんの鍵盤が、全部を下から持ち上げていく。宇佐美さんのベースが、床を揺らした。


『きみが数える 四つの音が

ぼくの いちばん明るい星だ

止まりかけてた ぼくの時計が

きみの カウントで 動くんだ』


 叩いた。叩いて、叩いて、叩いた。


 何も考えなかった。行くとか、残るとか。数字も、記事も、封筒も。ただ四つ数えて、叩く。十二年間、それしかしてこなかった。それだけで、三人がこっちを向いて、こんな顔をしている。


 自分は普通だと、思っていた。天才が三人いて、普通の人間が一人。それがこのバンドだと、そう思っていた。


 最後の一音を、振り下ろした。シンバルの余韻が、天井まで上がって、消えた。


 二秒ほどの静寂の後、一万人分の歓声が雪崩れ込んできた。拍手なのか、叫びなのか、もう区別がつかない。


 私は顔を上げると、息をのんだ。色が、変わっていた。


 始まったとき、客席は三つの色がほとんどだった。


 でも今は、四つの色が、ほとんど同じ広さで、混ざりあって揺れていた。群青の隣に赤。赤の隣に水色。橙の隣に、また群青。色ごとのかたまりが、もうどこにもない。誰のファンがどこに座っているのか、わからなくなっていた。


 途中で色を替えた人が、たくさんいたのだ。曲ごとに、見せ場ごとに。陽太のときは橙に、澄人さんのときは水色に、私のときは赤に。そうやって二時間半かけて、一万人の手もとが混ざった。


 前から四列目を見た。あの人の手に、灯りがあった。最初は、何も持っていなかったのに。


 そして、その色は赤だった。


 目が合った。あの人は、泣きながら、深く頭を下げた。


 かなが、まだこっちを見ていた。肩で息をしていて、汗で前髪が貼りついている。泣きぼくろのあたりが光っていた。


 かなの口が、もう一度動いた。何かを言っていたけれど、歓声にかき消されて、内容は聞こえなかった。


 何て言ったの、と目で訊いた。かなは、首を振って答えなかった。


 あとで言う。そういう顔だった。


 私は、台の上で立ち上がった。そして、一万人の人たちに感謝を込めて、頭を下げた。一番うしろの列まで見えるように大きく。


 襟は曲がったままだった。

いつもお読みいただきありがとうございます!

ようやくアリーナライブが終了しました!

いよいよ、糸音の決断のとき……!


残りの物語もお楽しみください!


いいね、評価ありがとうございます!

いつも励みにさせていただいております!

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