第29話 五十本の針
「……あと九十センチ」
十二月七日、月曜日。時刻は夜の十一時を回っていた。
作業部屋の蛍光灯の下で、緋色の袖と格闘する私。ひじから先に付ける薄い布が言うことをきかなくて、ギッと唇をかみしめ睨んでいた。
布が軽すぎて、ミシンにかけると逃げてしまう。これは手で縫うしかないなと、受け止めたくない現実に深い息を吐く。
ここ三日、まともに寝ていない。目がしょぼしょぼするし、針の穴が二つに見えるくらい目がかすんでいた。糸の先をなめて針に通そうとして、上手く穴に通らず、何度も同じ作業を繰り返す。
思ったように作業が進まなくて、情けなくなった。
その時、トントンと扉が二回叩かれた。
「糸音ちゃん。入ってもいいかな?」
澄人さんの声だ。
部屋に入ってきた澄人さんは、手に小さな土鍋を持っていた。蓋の穴から、湯気が細く上がっている。出汁の匂いが、布の糊の匂いを押しのけて、部屋中に広がった。
「ご飯、食べてないでしょ。夜食、作ってきたから食べない?鶏と卵の雑炊。……事務所の給湯室で作ったから、味は保証できないけれど」
「あの給湯室で、土鍋を」
「コンロは一口あるからね」
あんな狭い給湯室で、長身の澄人さんが土鍋を火にかけているところを三好さんが見たら、手帳を落としそうだ。
「冷める前に食べて」
「……でも、あと九十センチ」
「九十センチは逃げないよ。雑炊は冷める」
ごもっともである。
私はありがたく澄人さんがよそってくれた雑炊を受け取ると、れんげで一口すくった。
やさしい味が口いっぱいに広がる。うすく塩で味付けしてあって、ほんのりと感じるショウガのインパクトが心地よい。卵もふわふわだ。雑炊の温かさが、体の芯の冷えていたところに、じんわりと伝染していく。
「……おいしいです」
「よかった」
澄人さんは向かいの椅子に座って、私が食べるのを見ていた。自分は食べない。いつものことだ。
「澄人さんは?」
「私は済ませたから」
「嘘ですね」
「……どうして」
「土鍋が一人分だからです。二人分作る人が、自分のだけ先に食べるわけない」
澄人さんは少し目を丸くして、それから困ったように笑った。
「かなわないな……」
「半分、食べてください。れんげ、もう一本ありますか?」
「ない」
「じゃあ、これで」
私は澄人さんに自分のれんげを差し出す。
すると、澄人さんが固まった。
「……それは、君が使ったものだから」
「あ、ごめんなさい。洗いますか?」
「いや、そういう意味では……」
「じゃあ、どうぞ」
澄人さんは、恐る恐るといった感じでれんげを受け取った。受け取ってから、ずいぶん長いこと、それを見ていた。謎だ。しかも、雑炊をすくい口に運ぶまでに、信号が一回変わるくらいの時間がかかった。
――ああ、なるほど。猫舌なのかもしれない。
二、三口の雑炊を食べると、澄人さんがまた私にれんげを差し出してくれる。それを繰り返し、二人で一つの土鍋を空にした。
「それで……」
澄人さんは土鍋を脇に寄せると、裁ち台の上を見た。
「私にできることはあるかな?」
「ないです」
「……即答だね」
「だって澄人さん、ボタンも付けたことないじゃないですか」
「うう、痛いところつくね。確かにボタン付けはできないけれど……。でも、何かしたいよ。君が三日寝ていないのを、ただ見ているのは」
だんだんと泣きそうな表情になる澄人さんの言葉が、途中で切れた。
「……つらいんだ」
その瞬間、私は息を吞んだ。この人が、こういう気持ちを伝えてくれるのは初めてかもしれない。
ぎゅっと固く握られている澄人さんの拳に、その勇気を感じる。何か応えられないかなと思った私は、裁ち台を見回した。
「じゃあ、ひとつだけ」
「何でも」
「針に、糸を通してください。目が疲れて、穴が二つに見えるんです。通してあるのが並んでいたら、すごく助かります」
「わかった」
澄人さんは上着の内ポケットから、眼鏡を出した。細い銀の縁の、四角いやつだった。
「……澄人さん、眼鏡かけるんですか?」
「譜面の細かいところを読むときだけね。本当は人前ではかけないんだけど……」
「え、どうして?」
「似合わないから」
――全然そんなことはなかった。
いつもの穏やかな顔に、銀色の縁が一本入っただけで、別の人みたいに見える。眠くなるようなやわらかさが引っこんで、何かきりっとしたものが出てくるような……。
その珍しい姿に、私はじっと見いってしまった。
「……変かな?」
「いえ。似合ってます。とても。なんというか新鮮でつい……」
「そう。それは、よかったよ」
咳払いの後、澄人さんは眼鏡の位置を指で直す。そして針を一本、手に取った。
糸を切って、先を指でよる。そして、穴に近づけた。
糸はぐにゃりと曲がり穴から外れる。もう一回チャレンジするが、再び外した。三回目も外れて――。
「……難しいものだね」
「糸の先を斜めに切るんです。あと、針を動かさないで、糸のほうを持っていく感じで……」
「糸のほうを?」
「はい。針は待ってるだけで」
澄人さんは私のアドバイス通りにやった。
すると、糸がすんなりと針の穴を通った。
「通った!」
澄人さんがぱっと顔を上げる。子どもみたいな顔だった。初めて逆上がりができた子どものような表情だ。
「通ったよ、糸音ちゃん!」
「はい。上手です!」
「もう一本……!」
そこからが長かった。
この人は一度やり方を覚えると、止まらない。糸を切って、針穴に通し、針山に刺す。それを繰り返していた。
背筋を伸ばして、眼鏡の奥の目を細めて、長い指で一本ずつ。鍵盤を弾くときと同じ手つきだった。急がない。乱れない。同じ動きを、同じ丁寧さで繰り返す。
私はそれを見届けると、袖の続きを縫った。
黙々と縫い続けていると、糸の終わりまで来る。糸止めをして、次の針に手を伸ばすと、糸が完璧に通っていた。
楽だった。信じられないくらい、楽だった。
人に手伝ってもらうというのはこういうことか、と思った。
ずっと一人で縫ってきた。それが私の仕事だから。三人が衣装を纏う人で、私は作る人。そこに線を引いて、誰にも踏み込ませなかった。踏み込まれても、どうせ教えるほうが手間だからと思って――。
「澄人さん」
「うん」
「私、怒ってたじゃないですか。メールのこと」
澄人さんの手が一瞬止まった。
「……うん」
「……まだそのことは許してはいないんですけど」
「うん」
「でも……」
針をぐいっと布にくぐらせる。
「こうやって訊いてくれるようになったの、うれしいです。どう思う、って。……あと、今日も。できることはあるかって、先に訊いてくれた」
澄人さんは、何も言わなかった。針山に針を刺していた手が少しの間、針山の上に置かれたままになった。
「……君は、ずるいね」
小さい声だった。
「……それ、陽太にも同じこと言われました。何がずるいんでしょうか?」
「……ううん。気にしなくていいよ。悪いことでは、ないから」
そうは言っても気になるので、もっと訊こうとしたのだが、言葉よりも先にあくびが出てしまった。雑炊で身体が温まり、針の心配もなくなって、気がゆるんだらしい。まぶたが、急に重くなってきた。
「……少し、寝たらどうかな?」
「だめです。あと六十センチ……」
「十五分だけ。起こしてあげるから」
「十五分」
「約束する」
この人の約束は、信じられる。
そう思ったが最後、私の意識は飛んでいた。無意識に裁ち台へ腕を組み、頭を乗せる。
肩に何か掛けられた。重くて、温かい。澄人さんの上着だろうか。ほんのりと淹れたてのお茶みたいな香りがした。冷たいのに、最後だけ、ほんの少し甘い。
――目を開けると、針山が見えた。通した針が、きれいに一列に並んでいる。糸の長さが、全部ぴったりそろっていた。
律儀な人である。
目が、覚めた。
蛍光灯がまぶしい。首が痛かった。裁ち台で寝るとこうなるから嫌だ。
でも、寝たおかげで体が軽い。十五分の仮眠でも効果があるんだなと思いながら時計を見て、私は固まった。
――午前五時五十分。
「……え」
六時間、寝ていた。
飛び起きた。上着が、肩からすべり落ちた。
「澄人さん!!十五分って……!」
言いかけて、止まった。
澄人さんは、向かいの椅子で眠っていた。
座ったままだ。背筋は、伸びている。寝ていても姿勢が崩れない人を、初めて見た。眼鏡が鼻の上で斜めになっている。右手に針を一本、持ったままだった。
再び針山を見ると、増えていることに気づく。
一列だったのが、五列になっていた。白い糸、緋色の糸、群青の糸、橙の糸、水色の糸。色ごとに、十本ずつ。
全部で五十本もある。一体、どれくらいの時間、同じ作業を繰り返していたのだろうか。
裁ち台の端に、紙が一枚、置いてあった。几帳面だけど、右に少し傾いた文字だった。
『約束を破ってごめんなさい。十五分で起こそうとしたのですが、君があまりよく眠っていたので、起こせませんでした。後でお叱りはきちんと受けます。また使うかなと思って、糸は四人分の色で通しておきました。足りなければ、言ってください。 雨宮』
――怒れるわけがなかった。
澄人さんの斜めになった眼鏡が、今にも落ちそうなのを見て、そっと手を伸ばして、そっと外した。
ふと、澄人さんの目が開く。
反射するように、手首をつかまれた。
寝ぼけた目が、私を見ている。眼鏡のない、いつもの顔だ。なのに、いつもの顔ではなかった。穏やか
な笑みが、まだ間に合っていない。その下にあるものが、そのまま出ていた。
「夢かと、思った」
低い、かすれた声だった。
「起きたら、君がいる。朝に」
手首を持つ手に、少しだけ力が入った。
心臓が妙な打ち方をした。とくとくと、うるさい。
「……澄人さん。寝ぼけてます」
「うん」
「手」
「あ」
ぱっと、離れた。
澄人さんは、両手で顔をこすって、それから姿勢を正した。穏やかな顔が、やっと追いついてきた。
「ごめん。約束を破ったうえに、失礼を……」
「いえ。……紙、読みました」
「うん。怒っているよね?」
「いいえ、怒っていません。五十本も通してもらって、怒る人はいないです」
「でも、十五分って言ってたのに……」
「……次からは、起こしてくれるとうれしいです。ひっぱたいていただいて、いいので」
澄人さんは、ふっと笑った。
「次が、あるんだね」
言ってから、自分で驚いたような顔をした。私も、驚いた。そもそも共に朝を迎えることなど、普段あるはずもないことである。
しばらくして、机の上で私のスマホが震えた。
午前六時、ちょうど。
画面に一件の通知。
『おはよう』
差出人は、目の前に座っている人だった。
顔を上げた。澄人さんは、自分のスマホを持ったまま、気まずそうに目を逸らしていた。
「……隣にいるのに」
「六時なので」
「口で言えばいいじゃないですか」
「それは」
言いよどんだ。
「二年半、一日も欠かしていないんだ。途切れさせたくなかった」
律儀にも、ほどがある。
でも、その律儀さが、あの二年間をつないでくれたのだ。
『おはようございます。五十本、ありがとうございました』
私はそう打って、送った。
澄人さんのスマホが震えた。澄人さんの口元が、画面を見てゆるむ。
「ひとつ、お願いがあるんですけど……」
「何でも」
「ボタンの付け方を教えるので、一個だけ付けてくれませんか?」
私はそう言うと、緋色の袖を持ち上げた。
「この袖口の、いちばん端の小さいやつ。振り上げたときに開かないように、留めるボタンです。澄人さんに、付けてほしいです」
「私が?君の衣装に?」
「糸を通すの、あんなに上手なんだから。できます」
澄人さんは袖を見て、それから私を見て、もう一度袖を見た。
眼鏡をかけ直して、わざと姿勢を正す。
「……教えてください」
澄人さんは二十分の格闘のすえ、ボタンをつけることに成功した。
糸の始末が少しだけ太い。
でも、それがよかった。
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