第28話 午前五時のF
「一番奥、もう入ってるよ。三時から」
「三時?」
「ラジオ終わって、そのまま来たって」
十二月五日、土曜日。今日は収録のために、スタジオへ来ていた。まだ日が昇っておらず、辺りは薄暗い。
私は『獅子の心臓』の、二番から入るキックが決まらないことを悩んでいた。一番を丸ごと叩かずに待って、そこから一発目を踏む。その一発の重さが、何度やってもしっくりこなかった。
なので、誰もいない時間に一人で踏んで練習しようと思ったのだが――。
スタジオの店長に言われ、重い防音扉に耳を当てると、ギターの音が聞こえてきた。
同じ四小節を繰り返している。速くて、細かくて、指がもつれそうなやつだ。弾いて、止まって、また頭から。音が止まるところは、毎回同じだった。三小節目の、いちばん指が開くところ。
私は扉を少しだけ押した。
中にいたのは、やはり陽太だった。アンプの前の丸椅子に座り、ギターを練習している。
こっちに背中を向けているので表情は見えないが、足もとにメトロノームと、空になった水のボトルが三本と、角のすり切れた大学ノートが置かれていた。上着は脱いでいて、Tシャツ一枚。十二月の明け方だというのに、汗をかいているようだった。
曲の頭から始まった音が、また四小節目で止まった。
「もう一回」
小さく言って、メトロノームの目盛りを一つ下げた。
ゆっくり弾くと、今度は進んだ。再び、目盛りを一つ上げて弾くと、また指がもつれ同じところで止まる。
「もう一回」
舌打ちも、ため息もない。下げて、弾いて、上げて、弾く。つまずいたら、また下げる。その繰り返し。
びっくりするくらい、地味な作業だった。
ステージの陽太は、走って、跳ねて、笑って、客席を湧かす。ラジオの陽太は、ふざけて、ボケを拾って、場を回す。華やかな活躍ぶりだ。
でも、目の前の陽太は全くの別人だった。ただ、石を一個ずつ積むように、静かに真剣に練習を繰り返している。
これで九年間、誰でもいいと思われていると思い込んだ状態で弾いていたのだから、陽太の奏多への情熱はとてつもない。
「……見てんなら、入れよ」
どうやら気づいていたらしい。背中を向けたまま、そう言われた。
「いつから気づいてたの?」
「扉が開いたら、空気が動くだろ。あと、お前の足音は、右だけ半拍重い」
「そんなことまで聞いてるの」
「ギター弾きは耳が命なんで」
そう言うと陽太は振り向いて、にっと笑った。目の下に隈がある。寝ていないのだ。
「何しに来たんだ?こんな時間に」
「キックの練習。二番の頭のところがね……」
「あー、あそこな。一番をずっと待ってから踏むやつ」
「うん。納得のいく重さが決まらなくて」
「そっか。……難しいこと考えるよな、お前らは」
お前ら、というのは、かなと私のことらしい。
陽太は足もとの袋を探って、何かを放ってきた。私は慌ててそれを受け取る。重い。
手のひらを開けて中身を見ると、それはおにぎりだった。
でかい。私のこぶし二つ分はある。形は、三角とも丸ともつかない。海苔が力まかせに巻いてあった。
「何これ」
「朝めし。俺が握った」
「陽太が?」
「お前、最近、人の分ばっか握ってんだろ。奏多に毎日。そのくせに、自分は昼抜いてんの、知ってんだぞ」
誰に聞いたんだろう、と思ったが、たぶん澄人さんである。うちの男三人組の連絡網は、私の食事に関してだけ軍隊並みなのだった。
「だから、お前の分は俺が握ることにした。今日から。アリーナまで」
「え、毎日?」
「毎日」
私は驚きつつ、受け取ったおにぎりを一口かじった。
口の中が一瞬でしょっぱくなる。米はぎゅうぎゅうで、具は大きな梅が丸ごと入っていた。
「……種」
「あ」
陽太が大きく口を開けた。
「取んの忘れたー! 悪い!出せ、ここに出せ!」
両手をおわんの形にして、差し出してくる。そこに種を出せ、という意味らしい。
私は思わず笑ってしまった。おにぎりを持ったまま、しゃがみ込んで笑った。
「笑うなよ!初めて握ったんだぞ!」
「ごめん。おいしい。おいしいよ、ほんとに」
「嘘つけ、しょっぱいだろ」
「しょっぱい。でも、おいしい」
本当だった。澄人さんが置いていってくれるおにぎりは、いつも店で売っているみたいに、きれいな三角をしている。陽太のこれは、大きくて、力まかせで、種を取り忘れている不器用なものだ。
陽太は、まだ手をおわんにしたまま、困った顔をしていた。
「種は、自分で捨てるから。手、しまって大丈夫」
「……おう」
手を引っこめて、ズボンで拭いた。照れたときの、この人の癖だ。
食べ終わるまで、陽太は弾かずに待っていた。待っている間、足もとのノートを足でそっと椅子の下に押しこんだ。見られたくないものを隠すとき、この男はだいたい足を使う。
「それ、何のノート?」
「……練習の記録」
「見せて」
「やだ」
「なんで?」
「……隠してる。中身は言わねえ」
便利な言い訳をされてしまった。こうなっては聞くに聞けない。
「何冊目?」
「四十一」
「四十一!?」
「中二から毎日、何を何回やって、どこでこけたか書いてる。書かねえと、自分がどこまで来たかわかんなくなるから」
かなが天性の才能を持つとしたら、陽太は努力の天才だ。この人は四十一冊分も、自分の課題と向き合ってきた。
「陽太」
「ん」
「私も、つけてる。メトロノームの記録。高一から」
「知ってる。お前のは緑の表紙だろ」
「……なんで知って」
「同じ文房具屋で買ってんだよ。駅前の。お前が緑を取るから、俺は青にした」
知らなかった。十二年間、同じ店で、同じノートを買っていた。
普通の人間が天才の後ろに座るには、人の倍やるしかない。そう思って、一人でやってきたつもりだった。
一人では、なかったらしい。
「で、さっきのとこ」
陽太はギターを構え直した。
「何度やっても、三小節目で止まる。指は届いてんだけど、入るとこがわかんねえ。メトロノームだと合うのに、曲になると迷うんだ」
「……数えようか」
「あ?」
「四つ。私が」
陽太の手が止まった。
「いや、お前、自分の練習しに来たんだろ」
「いいよ。おにぎりのお礼」
私はそう言うと、陽太の正面の床に腰をおろす。スティックを二本、膝の上で構えた。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
声と一緒に、膝を叩いた。
ギターが入ってくる。一小節目。二小節目と順調に進んでいった。
三小節目、指が開く。あの、毎回止まっていたところ。私は息を呑んで見守った。
陽太の指は止まらなかった。四小節目まで、一息に駆け抜けて、最後の音がアンプから伸びる。
陽太は、自分の左手を見ていた。信じられない、という顔で。
「……ほらな」
声が、かすれていた。
「三時から二時間やって、全然通んなかったんだぞ。なのに、お前が数えたら一発だ」
「たまたまでしょ」
「たまたまじゃねぇ。十四んときから、ずっとこう」
顔を上げて、こっちを見た。笑っていなかった。ラジオで、うどん派さんのメールを読んだときと、同じ顔だった。
「お前さ。自分のこと、普通だって言うだろ」
「うん」
「俺のギター、お前のカウントがねぇと半分しか鳴んねぇんだよ。その普通のやつがいねぇと、俺は二時間かけても四小節が弾けねぇ。それ、普通って言うのか」
答えられなかった。
「言わねぇよ。俺は、言わせねぇ」
そう言い切って、陽太は急に目を逸らした。
「……くそ。朝からなに言ってんだ、俺は」
ピックを口にくわえて、ペグをいじりはじめる。合っている弦を、わざわざ締め直していた。
胸のあたりが、そわそわと落ち着かなくなった。床が冷たいせいだと思うことにする。
「なあ」
ピックをくわえたまま、陽太が言った。
「お礼、もう一個もらっていいか」
「……何?」
「弾いてみろ。これ」
ギターを、差し出された。
「私が?」
「お前、十二年間バンドやってて、ギター触ったことねぇだろ」
「ないよ。壊したら大変だし」
「壊れねぇよ。ほら」
押しつけられた。
受け取ったギターは重かった。思っていたより、ずっと。これを肩から提げて、陽太は二時間半、走り回っているのか。
「左手はここ。人差し指を、全部の弦に寝かせる」
「全部?」
「全部。F、っていうやつ。ギター始めたやつが、最初にこけるとこ」
私は弦を押さえて弾いた。べち、と鈍い音が鳴る。
「……鳴らない」
「そんなもんだ、最初は。俺は三週間かかった」
陽太が椅子から下りた。私の前に片膝をつくと、こちらに手を伸ばす。
「指を立てて。あと、親指はネックの裏」
石みたいに硬い指先が、私の指を一本ずつ直していく。中指を少し手前に。薬指をもっと立てて。小指は力を抜く。
陽太の頭が、私の顎のすぐ下にあった。髪から、洗剤と、徹夜明けの汗のにおいがする。嫌な匂いではなかった。
「人差し指は腹じゃなくて、ちょっと横で押さえる。骨の硬いとこ」
私の人差し指を上からくるむようにして、角度を変えた。
手が大きい。中学のときは、同じくらいだったのに。
「これで、弾いてみ」
私は陽太の指示どおり、ギターを弾いた。
はじめて六本の弦が、きれいに鳴った。
「わ」
感動で声が出た。
「鳴った!陽太、鳴ったよ!」
「おう。鳴ったな」
「すごい。これがF?」
「そう。それがF」
私は、もう一回弾いた。鳴るのがうれしくて、三回弾いた。
顔を上げたら、陽太が片膝をついたまま、こっちを見ていた。口が半分開いている。
「……どうしたの?」
「いや」
「変な顔してるよ」
「してねぇ」
「してる」
「お前がそんな顔すっからだろ」
「え、どんな顔?」
「どんなって――」
陽太は、片手で自分の顔を覆った。指の間から、ぼそぼそ声がした。
「十四のとき、俺が初めてF鳴らしたとき。お前、河川敷で、今とおんなじ顔して手ぇ叩いたんだよ。鳴った、陽太、鳴ったよって」
覚えていなかった。
「あれ見て、俺、ギターを一生やるって決めたんだ。お前は覚えてねぇだろうけど」
手が顔から下りた。
窓のない部屋なのに、陽太の顔は朝焼けに当たったみたいな色をしていた。
「……ずりいよな、お前。十四年たって、同じ顔すんの」
――何がずるいのだろう。
わからなかった。わからなかったが、ギターを抱えた腕が少し熱かった。
「じゃあ、次、Cな」
陽太は、わざと大きな声を出して、私の指を取り直した。その指が、さっきより少しだけ震えている。
自分の練習は結局、七時からになった。
でも、二番の頭の一発を踏んだら、今度はしっくりきた。隣で、ギターが鳴っていたからかもしれないなと思うのだった。
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