第27話 一番後ろの景色
「……わあ」
十二月三日、木曜日。
誰もいないアリーナは、音がしなかった。一万二千の椅子が、すり鉢の形に並んでいる。天井は高すぎて、照明の骨組みがかすんで見えた。床のワックスと埃の匂いがして、空調の低いうなりだけが、ずっと鳴っている。
三好さんが取ってくれた下見の時間は、一時間。私は一人で階段を上った。
スタンドの一番上の一番うしろの列。上りきる頃には息が切れるくらいステージから離れている。
私は端の席に座って、ステージを見下ろした。
本当に豆つぶだった。ましろちゃんの書いたとおりだ。親指と人差し指でつまめそうな大きさの舞台に、もっと小さい点が三つ、動いている。
橙色の点が、両手を振って跳ねた。
「いーとーねぇええー!!見えるかぁああー!」
声が、遅れて届いた。口の動きより、ほんの少しあとに。
「見えなーい!」
叫び返した。私の声も、遅れて向こうに着いたらしい。少し間があってから、橙色の点が腹を抱えた。
この距離だと、顔の表情や指の動きは見えない。でも、誰が誰なのかはわかる。
落ち着きなく動き回っている橙色が陽太。背が高くて、ほとんど動かない水色が澄人さん。小さくて、舞台の真ん中から一歩も動かずにこっちを見上げている群青色がかなだ。
色と動き。ここまで届くのは、その二つだけだった。
私は鞄から採寸帳を出して、気づいたことをメモしていく。
襟の芯は、ここからは見えない。裾の一センチも見えない。十二年やってきた細かい工夫は、前から二十列目くらいまでしか届いていなかったのだ。
もちろん、それはそれでやる。前の席の人のために。そのうえで後ろの席には、別のものを届けなければいけない。
色はもう決めてある。群青、橙、水色、それから緋色。それがメンバーカラーだから。そのうえで、四色とも濁りのない、いちばん遠くまで映える色にしようと誓った。
あとは、動きだ。私はドラムの位置を見た。舞台の一番奥。太鼓とシンバルの山があって、その向こうに椅子がある。ここから見ると、椅子に座った人間は、機材に埋もれて完全に消える。緋色を着たところで、見えなければ同じだ。
なら、台を上げようか。六十センチ……いや、八十センチか。シンバルは顔にかからない高さまで下げて、角度を寝かせる。スティックを振り上げたときに、手が頭の上まで出るように、椅子も少し高くする。
書いているうちに、ふと思いついて手を二回叩いてみた。
ぱん、ぱん。
音がすり鉢の底まで下りていって、向こうの壁に当たって、帰ってきた。行って帰るまでに、一拍くらいかかった。
ここに座っている人には、私の音が少し遅れて届くのだ。
舞台で私がスティックを上げる。その光が先に着いて、音は三分の一秒くらいあとから追いかけてくる。
それに気づいた私は、思わず笑ってしまった。なんで今まで気づかなかったんだろう。
この席の人はずっと、半拍遅れた私たちを聴いてきたのだ。それでも、お年玉の残りでチケットを買って来てくれる。
「いと」
いきなり横で声がして、私は飛び上がった。
声がする方を見ると、かなが階段を上りきったところで、手すりにつかまっている。肩で息をしていた。ボーカルのくせに、私より息が上がっている。
「なんで来たの」
「見たかった。ここから」
かなはそう言うと、私の二つ隣に座った。と、思ったら、少し考えて一つ隣に詰めた。
一メートルの決まりは、あの喧嘩の日になくなった。誰も、なくすと言ったわけではない。倒れた襟を直した時点でなくなっていた。
二人でステージを見下ろした。橙と水色の点がこっちに手を振っている。
「……いとが、見えない」
「今は座ってないもん」
「座っても見えない。機材で」
「そうだね。……だから、台を上げようと思う。八十センチ」
「足りない」
「足りるよ。計算した」
「足りない」
かなは豆つぶの舞台をにらんでいた。制作者の顔だった。
「最後の曲。演出を変えたい」
「……それはどんな風に?」
「秘密」
「え?」
「隠してる。って言えば、中身は言わなくていいんでしょ」
「……私の決まりを、便利に使わないで」
「使う」
真顔で言うかなに、そう言えばこの人はこういう人だったと思い出す。一度覚えた決まりを、律儀に最後まで使い倒すのだ。小学生のとき、「廊下は走らない」を守りすぎて、かなが火災訓練で逃げ遅れた事も、私と陽太の間で密かに伝説になっている。
「危ないことじゃないよね?」
「危なくない」
「……社長と澄人さんは知ってるの?」
「知ってる。陽太も。照明さんも」
――私以外、全員ではないか。
「……わかった。なら、聞かない」
「ありがとう。……それと」
かなは、膝の上で手を握った。
「隠してることが、もうひとつある。あの曲のこと」
「『獅子の心臓』?」
「うん」
「……えーと、それは収録のとき、陽太が言ったのとは別?」
「……根っこは同じ。でも、僕の秘密は……あの曲に入ってる」
私は曲を思い出すも、一体どこに隠し事があったのか、さっぱりわからない。
「アリーナが終わったら、自分の口で言う」
「口で言えるの?」
「練習してる」
「どこで」
「風呂」
取材の答えを風呂で考える人だとは知っていたが、練習もしていたのか……。
「じゃあ、私からもひとつ」
私は採寸帳をめくる。
「あの曲のドラム、考えたよ」
かなの背筋がすっと伸びる。
「一番は、叩かないことにする」
「……え」
「頭から一番の終わりまで、ドラムは入れない。私の音は、最初に四つ数える音だけ。スティックも鳴らさない。声で、ワン、ツー、スリー、フォー。そこにかなのピアノと歌が乗る。歌詞がそうなってるから。『四つ数える声がする』って」
かなは、目を丸くして私を見ていた。
「二番の頭から、キックだけ入る。サビで全部。最後のサビの前に、もう一回、声で四つ。一万二千人の前で、マイクなしで届くかどうかは、わからないけど……」
「……なんで」
声が、かすれていた。
「なんで、わかったの。そうしたかった。でも、ドラマーに叩くなって言うのは、失礼だと思って……言えなかった」
「なんだ。言ってよ、そういうことは」
「言えばよかった」
「うちのバンド、ほんとにそればっかり」
かなが小さく笑った。外向きの笑顔でも、ブースの中の雑な笑顔でもない。二十四時のスタジオで、一発で音が合ったときの、あの顔だった。泣きぼくろが、少し上に動いた。
「あの曲、バンドの歌だよね」
ふと思って、訊いた。
「十二年分の、四人が詰まった」
かなの笑顔が止まった。目が泳いで、それから、ものすごく小さい声で言った。
「……それも、隠してる」
「え、何を?」
「隠してる」
耳が赤かった。ここは一万二千人入る建物で、暖房はほとんど届いていない。暑いはずがなかった。
恥ずかしがるような要素がどこにあったのか、謎だ。
「おーい! 二人でいちゃついてねえで降りてこーい!あと二十分しかねえぞー!」
陽太の叫び声が、下から聞こえてきた。
私は声を張って答える。
「いちゃついてなーい!」
「いちゃついてない」
かなも珍しく声を張った。でも、陽太には届かなかったと思う。
階段を下りる途中で、澄人さんが上ってきた。
「糸音ちゃん。少し、相談してもいいかな?」
「もちろん、大丈夫ですよ。どうしました?」
「鍵盤の位置のことで……」
澄人さんは、舞台を振り返った。
「今までは、上手の奥に置いていた。誰の邪魔にもならない場所に。それを今回は、半歩、前に出そうかと思っている。ただ、そうすると陽太の動ける幅が狭くなるし、照明の当たり方も変わる。衣装の見え方にも響くだろう?」
そこまで言って、澄人さんは言葉を止める。そして、息を吸った。
「糸音ちゃんは、どう思う?」
その質問に、私の心は温かくなる。ちゃんと、私の意見を訊いてくれたのがうれしかった。だから、私も訊くことにした。
「澄人さんは、どうしたいですか?」
澄人さんの目が大きく開いた。まばたきを忘れたように、私を見つめている。何か、変なことを言っただろうか。
「……二度目だ」
「え?」
「君にそれを訊かれるのは、二度目なんだ。休止前の、最初の冬に。覚えていないだろうね」
その言葉通り、私は全く覚えていなかった。あの頃は、誰に何を言ったか、あまり覚えていない。四人ともばらばらで、私は毎日、言うべき言葉を探して、たいてい見つからなかった。
「あのとき、私は答えられなかった。どうしたいかを訊かれたのが、生まれて初めてだったから。答え方を知らなかった」
澄人さんは、舞台の上の鍵盤を置く場所を見た。
「でも、今は答えられるよ」
その声は、少し震えていた。
「前に出たい。半歩でいい。十二年間、誰の邪魔もしない場所で弾いてきた。それが自分の役目だと思っていた。でも、録音のとき、初めて半歩出てみて――」
言葉を探すように、少し黙った。
「気持ちがよかったんだ。俺の音が、三人の音に、ちゃんと触っているのが」
そう言う澄人さんの目は、光が反射してキラキラしていた。
「じゃあ、出ましょう。半歩と言わず、一歩」
「え……それだと、陽太の幅が」
「陽太は狭くても走りますよ。衣装は、私が合わせるので大丈夫です。前に出るなら、袖の丈を五ミリ詰めますね。照明が強くなる分、指の動きが飛ばないように」
澄人さんは、しばらく私の顔を見ていた。それから、採寸の日にボタンを押さえたのと同じ手つきで、自分の胸のあたりを押さえた。
「ありがとう。……あたたかいね」
「ここ、暖房効いてませんよ」
「うん。そうじゃなくて」
そうじゃなくて、の続きは、今回もなかった。
澄人さんは、人に世話を焼くのは得意なのに、焼かれるのには慣れていない人なのだと思う。袖の五ミリで、こんな顔をするのだから。
下に降りると、陽太が客席の前から四列目に座っていた。両足を前の席に投げ出して、舞台を見上げている。
「何してるの」
「……ここ。あの人の席」
雑誌を投げた人のことだ。
「ここから見たら、俺ら、どう見えんのかなって」
隣に座った。近かった。舞台の縁がすぐそこにある。この距離なら、襟の芯まで見える。
「十年、ここらへんで見てたんだよな、あの人。笑ってる奏多を」
「うん」
「来るかな」
「来るといいね」
陽太は、横目で私を見た。
「お前、ほんと頑丈だな……」
「陽太が言ったんでしょ。四人の中で一番って」
「そうだった」
腹から笑って、陽太は立ち上がった。
「よし。じゃあ俺、この席のやつを泣かす。ギターで」
「どうやって」
「三日分先を、二日で弾けるようにする」
「……ちゃんと、寝なさいよ」
「お前に言われたくねぇよ。目の下のクマ、気づいてないとでも思ってんの?」
陽太の指摘に私は視線を逸らす。……緋色の衣装は、まだ身頃しかできていない。あと十日で仕上げるためには、睡眠を削るのもいたしかたがなかった。
私はごまかすように体の向きを変えると、空っぽのアリーナをもう一度見上げる。一番うしろの列は、ここからだと、天井に近い暗がりの中に溶けている。
――あそこまで、届けるんだ。色と動きと、半拍遅れの音を。
いつもお読みいただきありがとうございます!
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引き続き物語をお楽しみください◎




