幕間 三好千秋の業務メモ その六
十一月二十七日(金) 二十一時
楽屋の廊下で、自分は声を押し殺しながら、泣いていた。
園原さんが一人で行ってしまったので、慌てて追いかけたら、楽屋から怒鳴り声が聞こえた。柏木さん、久遠さん、雨宮さん、園原さん、いつも穏やかな
四人がはじめて怒鳴っているのを聞いた。
――解散するかもしれない。そんな不安が脳裏をよぎる。
中学二年生の頃から十一年間、追いかけてきた。念願のコルレオのマネージャーになり、彼らの活動を間近で見れて、ますます好きになったし、これからの未来にワクワクしていた。それが、一瞬にして終わるかもしれないという現実に、足が震えた。
今すぐにでも喧嘩を止めに行きたいと思ったが、自分が出ていっても解決することはできない。その不甲斐なさに拳を握りながら、繰り広げられる喧嘩の行く末をただ黙って見守った。
手に汗握る瞬間は何度かあったが、最終的には怒鳴り声が笑い声に変わっていった。
「四人で喧嘩したの、初めてじゃない?」
「十二年もやってて?」
「だっせぇ」
その会話を聞いたとき、足の力が抜けてその場にしゃがみこんでしまった。
十一年間、客席から見てきた四人。雑誌も、ラジオも、映像も、全部追った。四人はいつも仲が良かったし、一度も揉めたことがない、理想のバンドだと思っていた。
でも、身近にいるようになって、四人の間にある空虚な違和感に、どことなく不安定さを感じ、危惧していた部分があった。
それが今、初めて埋まった気がする。
言葉にしきれない安堵と喜びが、全身を伝っていった。
※
同日 二十二時
園原さんに雑誌を投げた方は、まだ警備室にいた。
三十四歳。会社員。ファンクラブの会員番号は三桁だった。学生で入会金が払えず、四桁になった自分より、ずっと若い番号である。
「あんな顔、初めて見たんです」
涙でメイクをボロボロにしながら、何度もそう言う女性。久遠さんのことを相当に推しているファンのようだ。
「あの女のせいで、奏多は苦しむんだと思ったんです。活動休止したのも、あの人のせいだって。……でもさっき、奏多が前に立ったとき」
女性は顔を歪ませながら、手に持っているハンカチをぐちゃぐちゃに握りしめる。
「震えてたんです、背中が。それでも動かなかった。……ああ、この人はずっと、こうやって立ってたんだって。笑ってたんじゃなくて、笑って立ってたんだって。私、何を見てたんだろう……」
自分には、返す言葉がなかった。
自分も、同じものを見ていなかった一人だからだ。
※
十一月二十八日(土) 六時半
始発で出勤したら、会議室の電気が点いていた。
久遠さんだ。床で倒れたように寝ていて、本気で倒れているのかと思い一瞬慌てた。
どうやら、鍵盤の前の椅子から落ちたようで、ヘッドホンを首に掛けたまま、丸くなっている。
周りには、五線紙が二十枚くらい散らばっていて、作曲している間に寝落ちしたのだと理解した。
起こさないように気をつけつつ、毛布を取ってきて久遠さんの身体にそれを掛けた。
一枚だけ、久遠さんの顔の横に、歌詞を書いた紙が落ちていた。見るつもりはなかったが、毛布を掛けるときに目に入ってしまった。
いちばん上に、題らさき文字が書いてあった。
『いとへ』
それが二本線で消してあって、横に書き直してあった。
『獅子の心臓』
自分は紙を裏返して、そっと置いた。
……ずっと、コルレオの心臓は久遠さんだと思っていた。ボーカルとして天才で、作曲家としてもカリスマ性を持つ彼が、コルレオというバンドの中核なのだと。
でも、それは違うのかもしれない。――そこまで考えて、自分は考えを放棄した。
これ以上は、マネージャーである自分の管轄外だ。
※
同日 十時
ファンが起こした事件の対応を、雨宮さんがまとめていた。
被害届や出入り禁止の共有。ファンクラブの除名。法的には、全部できるそうだ。書類は昨夜のうちに整っていた。
雨宮さんはそれを持って、作業部屋へ行った。
自分で決めなかった。
「糸音ちゃんが関わる件だから、糸音ちゃんが決めて。私の意見も要るなら言う」
「……澄人さんは、どうしたいですか」
「全部やりたい」
即答だった。園原さんが少し笑った。
「正直ですね」
「うん。大切な人を傷つける人を、許すことなんてできないからね」
雨宮さんから受け取った書類を、園原さんは一枚ずつ見た。一つずつ丁寧に、時間をかけて読み込んでいく。
「被害届は出さないでください。結果的に、私には当たってないので……。かなには当たってるので、かなが出すと言うなら別ですけど」
「奏多は君に任せるって」
「じゃあ、出しません。注意と謝罪の文書だけ……」
「出入り禁止は」
「……あの人、アリーナのチケット、持ってますか?」
雨宮さんがこっちを見た。自分はすぐに名簿を確かめる。
「お持ちです。アリーナ席の、前から四列目」
「なら、来てもらってください」
雨宮さんの眉がわずかに上がった。
「いいの?」
「十年間、聴いてくれてた人なんでしょう?……なら、聴いてから決めてほしいんです。私がいるコルレオを、もう聴きたくないと思ったら、そのときは関わりを避けていただこうかと」
雨宮さんは持っていた書類を、黙って破った。
「君がそう言うなら仕方がないね」
「……すみません」
「いや。君のそういうところを」
そこで雨宮さんの言葉が止まった。
「……尊敬している、と言おうとした」
絶対に違う言葉を言おうとしていた。自分は廊下で、手帳に顔を埋めた。
※
出待ちの様子を、誰かが撮っていた。
四十秒の動画である。雑誌が飛び、久遠さんが前に立ち、糸音さんを庇ったあの瞬間の映像。笑っていない顔が、正面から映っている。
夜までに、二百万回見られていた。
自分は最悪を覚悟して、反応を追った。
でも、反応はいい意味で予想を外した。
『これ、奏多?』
『こんな顔するんだ』
『守ったっていうか、並んだって感じがする』
『震えてるの見て泣いた』
記事のときとは、流れが逆だ。久遠さんが隠していた人間らしさが、かえって高い評価になっていた。
さらに、例の『獅子座観測所』も投稿をしていた。
『―十二年前、高円寺の裏口で、彼は彼女の前にしゃがんでいた。でも今日は、彼女の前に立った。それだけのことを見るのに、十二年かかった』
※
十一月二十九日(日) スタジオの廊下
録音の合間。三人が自販機の前にいた。
今月の自分は、本当に立ち聞きばかりしている。
「言っちまった……」
柏木さんが悶えるように頭を抱えた。
「隠してることがあるって。アリーナ終わったらって。期限切っちまった」
「陽太のせい」
「お前もスタンドの陰に隠れてないで、何か言ってくれればよかっただろ!」
「……隠れてない。立ってた」
「完全に隠れてたわ!」
「二人とも」
雨宮さんが、缶コーヒーを三本買って配った。
「期限ができたのは、よかったのかもしれない。約束を、作り直さないか」
「作り直す?」
「前のは、もう三人とも守れていないから」
二人が黙った。
「アリーナが終わるまでは、あのことは言わない。あの子が叩くことに集中できるように。でも、終わったら――」
雨宮さんは、パシュッと缶のプルタブを持ち上げた。
「三人とも、自分の口で言おう。誰が先でも、恨まない。結果がどうなっても、バンドは続ける。そこに私情は持ち込まない」
「……恨みっこなし、か」
「できるかどうかは、別だけれど」
「できねえよ。絶対恨むわ、俺」
柏木さんは笑った。口ではそう言うが、納得はしてるみたいな笑い方だった。
「完全に振り切れるまでは時間かかるかもしんねぇけど、何があってもギターは弾く。それでいいか」
「十分だ」
「奏多」
「何」
「お前は曲で言うなよ。ずりいから。口で言え」
久遠さんは缶を両手で持って、長いこと黙っていた。
「……うん。口で、言う」
「言えんのかよ」
「練習する。風呂で」
「一体、何の練習だよ!」
雨宮さんが、噴き出した。この人が噴き出すのを、自分は初めて見た。
三つの缶が、軽くぶつかった。
※
十一月三十日(月) 二十三時五十分
『心拍』を提出した後、社長を探しに部屋を出た。
階段の踊り場で、煙草を吸っている社長を見つけた。目が赤い。煙のせいだと言われたので、そういうことにしておく。
「三好」
「はい」
「チケット、今いくつだ」
「今夜の時点で、七割九分が完売です。土曜から、三分動きました」
動画のあとだ。
「そうか」
社長は、煙を吐いた。
「……八割五分には、届かねえかもしれねぇな」
「……はい」
「まぁ、届かなくてもいい」
意外な言葉だった。
「さっきの音、聴いたろ。あいつらが本番であれを出せりゃ、俺の勝ちだ。ビルがなくなろうが、契約が切れようが。親父のときは、あれを出す前に全部終わった」
社長は吸っていた煙草を、空き缶に落とした。
「今度は、鳴らしてから終わる。それなら、負けじゃねぇ」
終わらせません、と言いたかった。
いつもお読みいただきありがとうございます!
いいね、評価もありがとうございます!
いよいよ物語も終盤へ!
引き続きお楽しみください!




