第26話 獅子の心臓と心拍
『おやすみ。今日は大きな声を出して、ごめんね。でも、言ったことは取り消さない』
その夜は、眠れなかった。
怒鳴ったせいで喉が痛い。人に向かって大きな声を出すと、体のあちこちが驚くらしい。普段使わない筋肉を使ったあとみたいに、胸の奥がずっと熱かった。
スマホには、二件の通知が届いていた。
まずは、澄人さん。取り消さない、という言葉が胸の中でこだまする。
そしてもう1件は陽太から。こっちはボイスメッセージだった。再生すると、十秒くらい無言で、鼻をすする音がして、「……今のなしって言ったやつ、やっぱありで」と言って切れた。
かなからは、何もなかった。でも、気にしない。あの人の返事は、言葉では来ない。
眠れないので、便箋を出した。ましろちゃんへの返事である。
左足は、かかとを浮かせて足首で踏むこと。スティックを十本握ったのは正解だということ。それから、少し迷って、こう書いた。
『後ろの席は全部見える特等席だと、ラジオで言いました。でも実は、見えているつもりで見えていないことがたくさんあると気づきました。十三日、一番うしろの席から、ちゃんと見えるように叩きます。楽しみにしていてください』
封をした頃、窓の外が白みはじめていた。
ふと、スマホが音を立てて震えた。午前五時十二分。かなからだった。トーク画面を開くと、音のファイルがひとつだけ送られてきていた。
『20261127』
今日の、いや、もう昨日の日付だ。
私は震える指で再生のボタンを押す。音声は、ピアノと声だけだった。
音声を聞いて、その旋律が聞き覚えのあるものだと気づく。
三週間前の日曜日、裁ち台の下でかなが鼻歌にしていたやつだ。私がミシンを踏むたびに、床を叩く指と一緒に伸びていった、あの節。布を回すときに一拍あく、あの間まで、そのまま入っていた。
型紙の余りに書いて、隅に『20261108』と日付を入れていた紙。あれが、これになったのか。
かなの歌詞は、いつも遠回りをする。花とか、天気とか、遠い町の話をして、何のことなのか三回聴かないとわからない。直接的に表現するのは、照れくさいのだろうと思う。
でも、この曲は遠回りをしていなかった。
『一番後ろで 四つ数える声がする それだけで 僕は 前を向ける』
私はその歌詞を聞いて、息を呑んだ。
『獅子の胸の 一番奥で 鳴り止まないものを 心臓と 呼ぶなら』
そこから先は、うまく聴けなかった。途中でかなの声が一度裏返って、歌い直さずにそのまま進んでい
た。一晩で書いて、一回で録ったのだとわかった。
ピアノの音が消えたあと、最後に小さな声が入っていた。
「……題は、『獅子の心臓』。アリーナの、最後にやりたい」
コル・レオニス。うちのバンド名だ。ああ、これはバンドの歌なのだ、と思った。
きっとこの曲には、私のミシンの音だけでなく、陽太や澄人さんの音も、どこかに入っているのだろう。あの人は、みんなが聞き流している音を、聞き流さない人だから。
四人でやってきた十二年間のことを、かなが初めて、まっすぐな言葉で書いた。昨日あれだけ怒鳴りあって、その夜のうちに、これが出てくるなんて――。
あの人は、口では「息の仕方がわからなくなる」としか言わなかったけど、きっとその言葉の奥には、もっと伝えたいことがたくさんあったんだろうなと、この曲を聴いて思った。
泣きはしなかった。もう今月分の涙は出しきった。だから、かわりにこう返した。
『聴いた。ドラム、考えとく。寝なさい』
三秒で返事が来た。
『ん』
二十年以上で、いちばん安心する一文字だった。
※※
翌日から二日間、スタジオにこもった。
コンペの締切は月曜だ。『心拍』を録って、仕上げて出す。
録る前に、私はみんなにどうしても言っておきたいことがあった。
「昨日の続き、言っていい?」
機材を組んでいた三人の手が止まった。
「……どうぞ」
澄人さんが緊張した面持ちで姿勢を正す。陽太はなぜか正座をした。かなはマイクスタンドの陰に半分隠れる。隅で、宇佐美さんがベースを抱えたまま目を丸くしていた。
「怒鳴りはしないから安心して。怒鳴るのはもう疲れたから。言いたいことは全部で三つ」
私は三本の指を前に出した。
「一つ。私宛てのものは、私に渡すこと。手紙も、連絡も、仕事の話も」
「うん、約束する」
「二つ。ネットは、これからも見ないようにする。ドラムが叩けなくなるのは困るから。でも、私が訊いたら、本当のことを教えてほしい。円グラフで人から見せられるのは、もう嫌だ」
「……わかった」
「三つ。どうしても隠したいことがあるなら、隠してるってことだけでも言って。中身は言わなくていいから。隠してる、だけでいい。こそこそとされるのが、一番こたえる」
すると、三人が顔を見合わせた。
陽太がおそるおそる手を挙げる。
「……あの。じゃあ、早速なんだけど」
「何?」
「隠してることが、一つある。三人とも」
澄人さんが頷くように目を閉じた。かなはスタンドの陰に、完全に隠れる。
「え、三人とも?……内容は?」
「今は言えねぇ。アリーナが終わるまで秘密にさせてほしい」
「――わかった。三人とも、同じ秘密?」
「……たぶん、同じ。いや、ちょっとずつ違うけど……根っこは同じ」
――わけがわからない。わからないが、そう言うならアリーナのライブが終わるまでお預けをくらうしかない。
「わかった。アリーナが終わったら聞く」
「……怒んねえの?」
「うん。でも、タイミングが来たら教えてくれる約束は守ってね」
陽太がほっとしたように大きく息を吐くと、ああと頷いた。澄人さんはなぜか、片手で顔を覆っている。耳が赤い。かなに至っては、スタンドの陰から出てこない。
……そんなに大変な隠しごとなのだろうか。
「私、これからはちゃんと弱音や悩みも、みんなに共有するようにする。あんまり得意じゃないけど……。でも、黙って一人で抱え込んで、一人で筋を通そうとするのは、三人が私にしたことと、たぶん同じだから……」
「……糸音」
「正直、ここを抜けるかどうかは、まだ決めてない。アリーナを叩いてから決めることにした。十四日の朝までに、自分で考えて答えを出したい。そのときは、誰のためでもなく、自分の意思で決める。だから三人も、誰のためでもなく、遠慮とかなく、自分の言いたいことをちゃんと言って」
私の言葉に三人は静かに頷いた。その真剣な眼差しに、ちゃんと言いたいことは伝わったんだろうと感じ取る。
「はい、言いたいことは終わり!録ろう!」
「……おう」
「うん」
「はい」
そんな私たちの様子に、隅で見守っていた宇佐美さんが安堵したように喉の奥で笑った。
「いいな、雨降って地固まるってやつだ。大事だよ、そういうの」
私は息を吐いて気持ちを切り替えると、ドラムの椅子に座った。高さを合わせて、スネアを一発叩き込む。ペダルを踏んで、心なしかいつもよりそれが軽く感じた。
「じゃあ、頭から」
私は視線を三人に送ると、四つカウントした。
キックが入ると、澄人さんの和音がそこに続く。軽やかな音だった。指がいつもより前に出ている。この人は今まで、誰の邪魔もしない場所で弾いていたのだと、初めてわかった。
続いて、陽太のギターが入った。三日間、練習していたフレーズが、迷わずに持ち場に座った。ここだ、と決めて置く音だった。
そしてBメロのあと、あの八小節が来た。全ての楽器の音が重なる。残るのは私のキックと、かなの声だけだ。
『一番後ろの 一等星
誰も 見上げない その光
鼓動の「鼓」は 君の音
僕は 背中で 聴いている
半拍 後ろで 待っていてくれる音
僕が 転ばないように 置いてある 石
走りすぎた夜も 息が切れた朝も
足元には いつも 君のリズム
振り向かなくても わかってる
君は そこで 待っている
一番後ろの 一等星
誰も 見上げない その光
鼓動の「鼓」は 君の音
僕は 背中で 聴いている』
かなは、マイクの前で目を閉じていた。外向きの顔でも、制作者の顔でもなかった。
八小節が終わって、全員が戻ってくる。最後のサビを、五人で駆け上がって、最後の一音が消えた。
誰も、すぐには喋らなかった。
「……知ってたの」
私は、スティックを握ったまま訊いた。
「半拍」
「……知ってた」
かなは、そっと目を開けた。
「高校一年生のとき、二回目のスタジオで歌ったときから、いとが後ろにいると歌が転ばないって気づいた。なんでだろうって考えていたら、半拍後ろで待ってくれているって知った」
「……言ってよ」
「言ったら、やめると思った。気づかれないようにやるのが仕事って、いと、言うから」
確かにそれは言った。だが、ずっと気づいていて言われなかった恥じらいは消えない。
「……襟の芯は、気づかなかった。鳴海さんに言われるまで」
そう言うかなの表情は、少し悔しそうに歪んでいる。
「でも、こっちは僕が先。あの人より、十二年も先」
負けず嫌いの顔だった。幼稚園のかけっこで、びりだったくせに泣かなかったときと、同じ顔をしている。
「……そういうことは、曲じゃなくて口で言いなさい」
「曲のほうが、ちゃんと言える」
ふと、陽太がギターを抱えたまま、天井を仰ぎ見て言った。
「なあ、今の録れてた?」
「うん、録れてる」
澄人さんがレコーダーを確認してを頷く。声が少し湿っていた。
「一回目で、これか」
宇佐美さんが涙をこらえるよう上を向きながら、持っていたベースを下ろした。
「いい喧嘩だったんだな」
結局、直しはほとんど要らなかった。
※※
十一月三十日、月曜日。午後十一時四十分。
事務所の会議室で、五人がかなのパソコンを囲んでいた。私たち四人と、社長である。三好さんは壁際で、手帳を握りしめていた。
画面には、送信の画面が開いている。宛先は、氷見さん。添付は一つ。題名の欄に、かなが文字を打った。
『心拍』
もう、仮の文字はついていなかった。
「これって誰の心拍?」
ひと月半前と、同じことを改めて訊いてみた。
かなは、少し考えてから言った。
「僕の」
今度は、答えた。
「僕の、生まれてから今までの。でも、数えてみたら、ほとんど全部、いとが隣にいた。だから、いとにしか叩けない心拍」
「……そう」
もしかして私のか、と思ったのは、半分だけ当たっていたらしい。
「送るよ」
「おう」
「どうぞ」
「押せ」
かなの指が、止まった。
「いと」
「何」
「カウント」
陽太が吹き出した。社長が「お前なあ」とあきれている。
仕方がないので、数えた。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
送信。
緊張した面持ちで、全員がパソコンの送信画面を見る。
そして、五分後、永見さんから返事が来た。
『受領しました。今までで一番いい曲だと思います。お疲れさまでした』
みんな、その言葉に嬉しそうな表情を浮かべた。社長は鼻をすすって、「煙草」と言って部屋の外へ出ていく。禁煙はどうしたのか。
その日の夜、私は一人で作業部屋に入った。
裁ち台の上に、仕上がった群青の衣装が置かれている。橙色と水色の衣装も、あとは袖を付けるだけだ。
私は棚の一番上の段を見上げた。そこに置かれているのは、巻いたままの緋色の布。
踏み台を出して、その布に手を伸ばした。指が布の端に触れる。今度は止まらなかった。
布を下ろして、裁ち台に広げる。蛍光灯の下で見たそれは、思っていたよりずっと鮮やかだった。後ろにいる人間には、派手すぎると思ってしまう。
でも、アリーナの一番うしろの席から、豆つぶみたいなステージを楽しみに見ている子がいる。そう思ったら、豆つぶでも見える色を着たかった。
気合いを入れて、私は裁ちばさみを手に取る。行くにしても、残るにしても、十三日のライブでは、一番いいのを着て、最高のドラムを叩くのだと決めていた。
アリーナまで、あと十三日だった。
いつもお読みいただきありがとうございます!
いいね、評価もありがとうございます!
引き続き物語をお楽しみください◎




