第25話 初めての喧嘩
「コル・レオニスの」
「部室ー!」
「……部室」
十一月二十七日、金曜日。今日は『コルレオの部室』の公開生放送だった。
年に一度、ラジオ局のホールにお客さんを三百人ほど呼んで、公開生放送としてイベントを開催している。昔からコルレオを応援してくれているコアなファンが多く、記事が出た後だというのに、それほど空席は目立たなかった。
いつものごとく、かなだけコールが半拍遅れる。客席から小さな笑いが起きた。
「違うんですよ、カウントが」と頭をかくかなに、陽太が「言い訳すんな」と突っこんで、澄人さんが「来週こそ背中を叩きます」と言った。
イベントは三十分、順調に台本どおりに進んだ。
かなは三十分間、一度もこっちを見なかった。あえて視線を合わせないようにしているのが、私にはわかった。
「一番後ろから、園原糸音でしたー!」
イベントはあっという間に終わり、最後の挨拶で拍手が起きた。客席の三分の一くらいが、立った状態で拍手をしてくれている。こんな状態でも、応援してくれるファンの人たちがいることに、私は温かい気持ちになった。
イベント終了後、私たちがラジオ局の通用口を出ると、柵の向こうに人だかりができていた。出待ちである。ざっと百人くらいはいた。
「奏多くーん!」
「陽太ー!ラジオ聴いてるよー!」
「澄人さん、こっち向いてー!」
ファンたちの声に、三人は手を振って応え、会釈をしてからワゴンの方へ歩く。私はその後ろを、スティックケースを抱えてついていった。
「糸音ちゃーん!負けないでー!」
誰かがそう叫んでくれた。私は緩みそうになる涙腺をなんとかこらえながら、声のする方を振り向いて、頭を下げた。
そのときだった。
「辞めろ!」
柵のいちばん前で、女の人が叫んでいた。
三十代くらいの、きちんとした身なりの人だった。コートの襟にレグルスの星のピンを付けている。古いファンの印であった。
「あんたがいるから、奏多が壊れたのよ! 二年も待たされて、戻ってきたらあんな曲で! 全部、あんたのせいよ!」
周りの人が、ざっと引いた。
「返して!!私たちの奏多を、返してよ!」
その人の手から、何かが飛んだ。丸めた雑誌だった。
当たる、と思い私は咄嗟に目を閉じ、衝撃に備えた。しかし、いつまで経っても予想していた衝撃がこない。不思議に思って目を開けると、私の前に背中があった。
――群青の上着。私と十センチしか変わらない、薄い肩。かなだった。
雑誌はかなの胸に当たって、足もとに落ちた。その雑誌は先日の週刊誌のようで、開いた頁にあの写真が見えた。
かなは、何も言わなかった。背中越しで彼の表情は見えない。でも、ただならぬ雰囲気が漂っていた。
叫んでいた女の人は、かなの姿を見て、口を開けたまま止まった。まるで、初めて見るものを見たかのような顔をしている。
かなの背中が細かく震えていた。怒っているようにも、怯えているようにも見えた。
「今、投げたの誰だ」
陽太が今までに聞いたことのないドスの聞いた声を出した。目が般若のように据わっている。柵に向かって歩き出したのを、三好さんが後ろから両腕でつかんだ。
「か、柏木さん、だめです!」
「離せ」
「だめです!」
三好さんは必死で陽太を止めた。そこに澄人さんが現れ、落ち着けと言わんばかりに陽太の肩に手を置く。
「警備の方、あちらのお客様をお願いいたします。お名前とご連絡先を伺ってください。弊社として、然るべき手続きを取らせていただきます」
その目は笑っていなかった。静かで、冷たくて、怖いくらい丁寧な言葉で澄人さんは声を発した。
「皆様、お騒がせして申し訳ございません。本日はお越しいただき、誠にありがとうございました」
一礼して、私のそばによると、澄人さんはそっと肩に手を添えてリードするように軽く押した。
「行こう」
服越しに伝わってくる澄人さんの手は、氷みたいに冷たかった。
ワゴンに乗ったのは、私と三好さんだけだった。
「三人は?」
「ラジオ局の方と、警備の件でお話を。すぐ来られます」
五分、十分と待ったが、三人が来る気配がない。痺れを切らした私は、席を立った。
「見てきます」
「そ、園原さん、自分が……!」
「私が行きます。三好さんは待っててください」
私は三好さんの返事を聞かず、そのまま車を降りると、通用口から戻って楽屋の廊下を歩いた。
楽屋の扉の前まで来て、足が止まった。中から声が聞こえたからだ。
「なんで黙って立ってんだよ!」
陽太だった。珍しく怒鳴っている。
「言い返せよ!違うって!あいつのせいじゃねえって、お前の口で言えよ!」
「……違わないから」
続けて小さく聞こえてきたのは、かなの声だった。
「は?」
「僕が壊れたのは、本当だから」
手が、扉の取っ手の上で止まった。
「いとのせいじゃない。でも、いとに関係がないわけでもない。二年前、見たんだ。いとが何て書かれてるか。僕が前に立って歌うたびに、後ろのいとに石が飛んでた。僕の曲が売れるほど、いとが叩かれてた」
私は息をころして、会話に耳をすます。
「そう思ったら、一音も出なくなった。僕が書くと、いとが傷つく。だから書けなかった。あの人の言ったこと、半分は合ってる」
――半分は合ってる。会議室で聞いた言葉の意味が、やっとつながった。
休止の理由は、本当に私だった。
「知ってるよ、それは!」
陽太の声が割れた。
「俺も澄人さんも、とっくに知ってる!知らねえのはあいつだけだ!お前が二年間も黙ってっから、あいつは今、自分が抜ければ筋が通るとか言ってんだぞ!」
「言ったら、いとは自分を責める」
「もう責めてんだよ!」
何かを蹴る音がした。
「二人とも。声が外に」
「澄人さんもだよ!」
陽太が矛先を澄人さんに変えた。
「あんたが全部止めてたから、あいつは何も知らねえまま、いきなり全部食らったんだ。記事も、依頼も、数字も。少しずつ知ってりゃ、あんな顔させずに済んだ」
「……すまない」
机を叩く音。
「なんでそこで、言い返さないんだよ!怒れよ!俺、今めちゃくちゃ失礼なこと言ってんだぞ。なんで謝んだよ。あんた、俺らに怒ったこと一回もねえだろ。十二年間、一回も!」
長い沈黙が走る。しばらくして、ようやく澄人さんの低くかすれた声が聞こえてきた。
「怒ったら……壊れると、思っていた」
「何が」
「全部が。俺の育った家では、誰かが声を荒らげると、そのあと何日も、誰も口をきかなかった。食卓では、箸の音しかしないんだ。だから、ここでは絶対にそうしないと決めていた。俺が怒らなければ、ここは静かにならない。そう思って」
「……」
「初めて手に入れた家族なんだ。失くしたくなかった」
陽太が黙った。
「壊れねえよ」
しばらくして、陽太のぼそっとした声が聞こえてくる。
「怒鳴ったくらいで壊れるんなら、うちはとっくに壊れてる。俺なんか、衣装で焼肉行ってんだぞ」
「あれは、怒るべきだったね」
「だろ」
笑いかけた声が、すぐに消えた。
「陽太だって、言ってない」
次に怒ったのは、かなだった。
「あの封筒」
「……糸音には言った」
「僕には言ってない。僕が書けなかった二年間、陽太によそから話が来てたの、僕は先週まで知らなかった」
「言えるかよ」
「なんで」
「お前、あんとき、息してるだけで精一杯だっただろ。そこに『俺、よそから誘われてんだ』って言えるか。お前、絶対『行って』って言うだろ」
「……言う」
「ほらな」
「行けばよかったのに。陽太は、どこでも弾ける」
椅子が倒れる音がした。
「お前がそれ言うな!」
今日いちばん大きい声だった。
「お前の曲が弾きたくてギター買ったんだよ、俺は!中二の小遣い全部はたいて! どこでも弾けるとか、そういう話じゃねえんだよ!俺はここで弾きてえの!」
「……」
「九年間、俺は必死だったんだぞ!お前からしたら、俺じゃなくてもいいんだろうし、本当は俺より上手いやつの方がいいんだろうなって。毎回、すげぇ難しい曲ばっか作ってくるし……。それでも俺は俺意外のやつにこのポジションを渡したくなくて、死ぬ気でくらいついてきたんだっつうの!」
「僕は陽太が弾ける曲しか作ってない」
「あ?」
「陽太なら三日で仕上げられるだろうなっていう曲を、いつも作ってる。陽太が弾くことしか、想定してない」
「……みたいだな。この間、それ糸音から聞いたわ。自分で直接言えよ、そういうのは!」
「今、言った」
「遅えんだよ……!」
陽太の声が、途中で詰まった。泣いているのだと思った。
私は、扉の前で動けなかった。知らなかったことばかりで、身体が動かずにいた。
このバンドのことは誰よりも知っていると思っていた。メンバーのこともきちんと理解できていると思っていた。
でも、違った。私は、何も見えていなかった。
「なぁ、あの約束、覚えてるか」
陽太が鼻をすすって言った。
「俺が言い出したやつ」
「……覚えているよ」
「もう守れてねえよな。三人とも」
「……ああ」
「どうすんだよ、これ」
誰も答えなかった。
約束、というのが何のことか、私にはわからなかった。わからなかったが、もう、扉の外に立っているのは無理だった。取手を握った手にグッと力を込めて、私は扉を押した。
三人が一斉に振り向く。
陽太は目が真っ赤で、澄人さんは上着を握りしめていて、かなは部屋のいちばん奥の壁に、背中をつけて立っていた。
「……いと」
「休止の理由、私だったの」
かなの顔から、血の気が引いた。
「違う。いとのせいじゃ」
「同じでしょ!」
思ったより声が出た。自分の喉から、こんな音が出るとは思わなかった。
「二年だよ。私、かなが書けないのは、かなの中の問題だと思ってた。だから訊かなかった。待ってた。それが一番いいと思って、何も言わないで、ずっと」
「いと」
「……私が原因だったなら、言ってよ!そしたら、私」
――何ができた、というのだろう。わからない。わからないが、少なくとも、知らずに隣で笑っていることはしなかった。
「三人とも、私のこと何だと思ってるの。ガラス細工?隠して、止めて、黙って、代わりに返事して……。私、後ろから全部見えてるつもりでいたんだよ。馬鹿みたいじゃない。何も見えてなかった!」
「そうは思ってねえよ!」
陽太が怒鳴った。
「じゃあ何!」
「お前が割れねえのは知ってる! 四人の中で一番頑丈なのも知ってる!それでも、お前が傷がつくのを見んのが嫌だったんだよ、俺らが!」
「それは、私が決めることでしょ!」
「わかってるよ!わかってても、できなかったんだよ!」
お互いの怒鳴り声が部屋に響く。陽太と怒鳴りあったのは、中学以来、初めてだった。
「糸音ちゃん」
「澄人さんも!」
止まらなかった。
「怒ってください!陽太の言うとおりです。私にも、一回も怒ったことないですよね。水曜日、私があんなこと言ったのに、ありがとうって。ありがとうじゃないでしょう?腹が立ったなら、立ったって言ってください。じゃないと私、澄人さんが本当は何を思ってるのか、一生わからない」
澄人さんは立ったまま、私を見ていた。唇が震えていた。
「……怒っているよ」
絞り出すような声だった。
「君にじゃない。君に、あんなことを言わせた全部に。記事にも、数字にも、雑誌を投げた人にも。誰より、俺自身に」
澄人さんはギュッと自分の上着の裾を握りしめた。
「抜けるのが筋だなんて、言わないでくれ!」
今までに聞いたことのない、澄人さんの張り上げる声が響く。
「筋なんか通らなくていい。数字なんかどうだっていい。俺は――」
そこで、言葉が切れた。澄人さんは、自分の声の大きさに驚いたように、口を押さえた。
部屋が一瞬だけ静かになる。でも今度は、誰も黙り込まなかった。
「……それだよ」
陽太が泣き笑いの顔で言った。
「それ、十二年間も待ってた」
「すまない。大きな声を」
「謝んなって」
「俺だって言いてえよ」
陽太が、こっちを向いた。
「行くなって。河川敷じゃ格好つけて、自分で選べとか言ったけど。本当は行くなって言いてえ。お前のカウントがなくなるのは嫌だ。帰りに部屋の前まで送ることができなくなるのも嫌だ。全部嫌だ」
そう一息に言って、顔をしかめた。
「……くそ。今のなし。忘れろ」
「忘れないよ」
「忘れろよ……」
かなだけが、何も言っていなかった。壁に背中をつけたまま、両手を握って、床を見ている。
「かな」
私が名前を呼ぶと、かなの肩がびくりと動く。
「僕のせいで残らないで、って言ったよね」
「……うん」
「じゃあ、私のせいで書けなくなったのは、いいの?それは私に背負わせて、私がかなの何かを背負うのは、だめなの」
「それは」
「ずるいって言ったけど。黙ってるほうが、ずっとずるいよ」
かなが顔を上げた。目が濡れている。
「言ってよ。ずるくていいから」
長い、長い間があった。陽太も、澄人さんも、動かなかった。
「……いとが、いなくなったら」
声がかすれて、ほとんど聞こえなかった。
「息の仕方が、わからなくなる」
それだけ言って、かなは壁づたいに、ずるずるとしゃがみ込んだ。膝を抱えて、顔を埋めて、震えている。社長に聞いた、高円寺の裏口と同じ形だった。
私は何も言わずにかなの前まで歩いて、その前にしゃがんだ。
倒れていた襟に手を伸ばす、左右の高さを、きっちりそろえると、芯を親指でなぞった。
かなが顔を上げた。息をしていた。
「……怒ってる?」
「怒ってる。すごく」
「うん」
「三人に。あと、何も見えてなかった自分にも」
振り向くと、陽太は袖で顔を拭いていて、澄人さんは壁にもたれて天井を見ていた。目もとが光ってい
る。
誰も、何も解決していなかった。私が抜けるかどうかも、借金も、チケットの売れ残りも、何ひとつ。
なのに、十月からずっと胸に溜まっていた糸くずのようなものが、少し減っていた。全部ではない。でも、半分くらいは、今の怒鳴り声と一緒に出ていった。
「ねえ」
私は立ち上がって言った。
「四人で喧嘩したの、初めてじゃない?」
三人が顔を見合わせた。
「……初めてだな」
「初めてだね」
「初めて」
「十二年もやってて?」
「十二年もやってて」
陽太が鼻声で笑った。
「だっせえ」
本当にそうだと思った。何でも四人で話して決めてきた、と私は澄人さんに言った。嘘ではない。でも、話していなかったことが、こんなにあった。
全員が全員のために黙って、同じ曲を弾いているつもりで、四人とも別々の楽譜を見ていたのだ。音がずれるのも、当たり前である。
扉の外で、三好さんが泣いている気配がした。あの人は今月、立ち聞きばかりしている。
「帰ろう。今日は全員、頭を冷やす。私も」
「糸音」
「続きは、また後で言う。まだ半分残ってるから」
「まだあんのかよ」
「あるよ。山ほど」
かなが、しゃがんだまま、私の袖をつかんだ。久しぶりだった。私はそれを振りほどかなかった。
いつもお読みくださりありがとうございます!
いいね、評価もありがとうございます!
引き続き物語をお楽しみください◎




