第24話 今後の体制
「お時間をいただき、ありがとうございます。結論から申し上げます」
十一月二十五日、水曜日。氷見さんが事務所にやってきた。
紺のスーツに、銀縁の眼鏡。銀色の縁が蛍光灯に反射してキラリと光る。
永見さんは、鞄から薄いパソコンを取り出すと、会議室の壁に画面を映した。十年近い付き合いになるが、この人が雑談から入るのを見たことがない。
私は隣に座る社長とかなたち三人が、それぞれ緊張の面持ちで、その様子を見つめているのを横目に見る。
かなは、制作者の顔をしていて無表情で、ほとんど動かない。陽太は腕を組んでじっと座り、澄人さんは、背筋を伸ばして手を膝に置いていた。
永見さんが操作を終えると、パソコンの画面に棒グラフが現れる。
「アリーナ公演のチケットは、売上が本日時点で七割六分。損益分岐は八割五分です。このままでは赤字になります」
画面は次のスライドに映る。折れ線が右に向かって下がっていた。
「配信の再生数は、再始動直後を頂点に五か月連続で減少。記事のあと、一時的に話題にはなりましたが、新規の聴き手にはつながっていません」
次の画面は、円グラフだった。
「SNSでのバンドへの言及を、内容で分類したものです。全体の四割一分が、否定的な文脈。そのうち」
氷見さんの指が止まって、一瞬、こちらを見た。
「……そのうち七割が、園原さんに関するものです」
会議室が静かになった。私はぎゅっと拳に力を入れながら、円の中の赤い部分を見つめる。
見ない、と約束したものを、こういう形で見ることになるとは思わなかった。数字になると、文字よりも静かで、文字よりもぐっと迫ってくる。
「契約の更新は、今期の数字で判断されます。アリーナと、ドラマ主題歌のコンペ。この二つの結果が出なければ、私の力では上を説得できません」
「そうか」
社長は閉じていた目を開いて、探るような視線を永見さんに向けた。
「――で、何が言いてぇんだ」
氷見さんは眼鏡を一度押し上げ、口を開く。
「アリーナ公演をもって、園原さんにはライブでの演奏から離れていただきたいと思っています。ドラムには、別の者を立てます」
誰かが息を呑む音が、聞こえてきた。
「コルレオに関わるなとは言いません。希望するなら、園原さんにはクリエイティブディレクターという立場をご用意します。衣装、映像、舞台の見せ方の統括です。もちろん、クレジットにお名前は出しますし、報酬も出します」
聞いたことのある条件だった。先日の白い封筒の内容と、ほとんど同じだ。
「これは――」
氷見さんの視線が、俯きがちに少し泳ぐ。
「園原さんのためでもあるんです。矢面から下がっていただくための。……後ろでドラムを叩いているだけで叩かれる、という状況は、私から見ても理不尽です。であれば、園原さんは叩かれない場所に――」
「氷見さん」
陽太だった。腕を組んだまま、真っ直ぐ据わった瞳を永見さんに向ける。
「……俺らの音、聴いてます?」
「もちろんです。デビューの前から」
「じゃあ、わかるでしょ。あいつのカウントじゃねえと、俺、置き場所がねぇんすよ。サポートの上手い人が来たら、そりゃ形にはなるかもしんねぇけど……。でも、それ、コルレオじゃねぇっすよ」
「柏木さん。お気持ちは」
「気持ちの話じゃねぇ!音の話をしてんだ!」
陽太の怒鳴り声に、永見さんは開けた口を閉じた。
「――ドラムがいとじゃないなら」
しんとした空間の中に、かなの低くて平らな声が響く。
「僕は、書きません」
「……久遠さん。それは、契約上」
「書かないんじゃない。書けない。二年前に、それを経験してます」
再び沈黙が走る。そしてそれを、澄人さんが破った。
「ご提案の根拠になっている数字を、すべて書面でいただけますでしょうか。分類の基準、集計の期間、否定的と判定した条件。拝見したうえで、弊社として、後日改めてお返事を差し上げます。……本日この場で結論を出すことは、いたしかねます」
「……分かりました、お出しします」
「恐れ入ります」
澄人さんは、そこで言葉を切った。そして、私の方に顔を向け、こう聞いた。
「……糸音ちゃんは、どう思う?」
その言葉に、私は目を見開いた。
澄人さんの膝の上に置かれた手は、きつく握られ小刻みに震えている。訊くのが怖い、という心情を物語っていた。
今までなら、この人は訊くことをしなかっただろう。変わろうとしてくれていることに、場に似合わない喜びを感じた。
「氷見さん。数字の話として、聞きます」
「はい」
「私が叩くのをやめたら、チケットは売れますか?」
「……確約はできません」
「契約は、更新されますか」
「それも、確約はできません。ただ――」
氷見さんは、まっすぐ答えた。
「リスクは下がります。あなた達にとって一番最悪なのは、レーベルの契約を切られることのはずです。うち以外で、今のあなた達を引き受けようというレーベルは、そうなかなかいないでしょう。こちらとして、契約の懸念であるのは園原さんが炎上していることだけ。それを解決できるのであれば、上を説得する材料にはなります」
正直な人だ。十年間、見てきて思う。数字でしか話さない人だが、嘘をついたことは一度もない。
「……だったら」
口の中が、乾いていた。
「私が抜けるのが、一番、筋が通ってるじゃないんですか……」
言った。言ってしまった。ここ三日間、考えて、社長に怒られて、それでも胸の底に残っていたものが、言葉になって出た。
「いと」
かなが立ち上がった。ガチャンと、椅子が大きな音を立てて倒れる。
「は?」
陽太の声が裏返った。
澄人さんは固まっていた。顔から血の気が引き、白い肌がさらに青白くなっている。何か言いたそうな顔をして、それでも唇を引き結んで、私が続けるのを待っていた。
「決めたわけじゃ、ありません」
私は自分の手を見ていた。指先に、針の跡がいくつもある。
「でも、私が原因なら。私がコルレオから抜けることで解決するなら……社長の返済も、三人の契約も、助かるかもしれないなら……。それを考えないのは、不誠実だと思うんです。三人が私に隠してくれていたものを、私だけ見ないふりをするのは」
「糸音」
社長の声が、低く唸るように私の名を呼んだ。
「……あのとき、言ったろうが」
「もちろん、覚えてます。社長のためには、行きません」
私は顔を上げた。社長の瞳に自分の顔が映る。
「でも、私自身がどう思うかは、別です。私は、自分のせいで人が困っているのを、平気で見ていられるほど、強くないので」
弱音だった。人前で吐いたのは、多分、生まれて初めてだ。
かなは立ったまま、両手を握っていた。絶望の色に染まった瞳が、行かないでと叫んでいる。
陽太は机をただじっと見つめていた。奥歯を噛んでいるのが、顎の線でわかる。
「……今日は、ここまでにしよう」
社長が立った。
「氷見。書面は澄人に出せ。返事は、アリーナのあとだ」
「真柴さん、それでは判断が」
「あとだ」
氷見さんは諦めたように頷くと、黙ってパソコンを閉じた。
帰り際、氷見さんは足を止めて私の名を呼んだ。
「園原さん」
「はい」
「……私は、あなたのドラムが嫌いなわけではありません」
背中を向けたまま、そう呟かれる内容に、私は目を見張る。
「デビューの年から、全部聴いています。四年目の野外で、雨の中、機材が二つ落ちたとき。あなたのキックだけで三曲もたせたのを、私は袖で見ていました」
覚えていたのか、と思った。あれはかなり前の出来事だ。
「数字が、あなたを守ってくれない。ただ、それだけです。私には、数字しか武器がないので」
そう言うと、永見さんは一礼して出ていった。
会議室に、六人が残る。誰も、何も言わなかった。
しばらくして、私は倒れたかなの椅子を起こした。
「ごめん。変なこと言った」
「変じゃない」
澄人さんが、かすれた声で私の声を遮った。
「訊いたのは、私だ。答えてくれて、ありがとう」
ありがとう、という顔ではなかった。でも、目は逸らさなかった。
陽太が、ようやく顔を上げた。何か言おうとして、口を開けて、また閉じた。もう一度開けて、言ったのは一言だけだった。
「……あさって、公開生放送だな」
「うん」
「その顔で来んなよ」
「どんな顔」
「もう決めたみてえな顔」
決めていない、と言おうとして、言えなかった。自分がどんな顔をしているのか、わからなかったからだ。
作業部屋に戻って、鏡を見た。かなのために掛け直しておいた布を、めくって。
映っていたのは、いつもの私だった。巻尺を首に掛けて、針山を手首に付けた、普通の顔である。
ただ、目の下に、かなとおそろいの隈ができていた。
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