第23話 獅子の尾
「おう。どうした」
十一月二十三日、月曜日の祝日。
事務所には、私と社長しかいなかった。祝日のビルは静かで、一階のクリーニング屋も閉まっている。私は作業部屋で群青色の衣装の袖を縫い、社長は奥の部屋で帳簿をつけていた。パチパチと電卓を叩く音が、ドアの隙間から聞こえてくる。朝からずっと、ときどき止まっては長いため息に変わり、また弾ける音が響いてくるのが繰り返されていた。
時計の針が12時を上回ったころ、私はようやく針を置いた。呼吸をしなさ過ぎて酸欠になっていたことに気づき、深く息を吐いてから、新鮮な空気を肺に送り込む。
クリアになった頭で社長の作業が落ち着いていることを確認すると、白い封筒を手に取り、社長の部屋の扉を叩いた。
社長は老眼鏡を額に上げた。机の上に通帳が三冊と、赤い字の多い紙が広がっている。私が許可をもらい部屋に入ると、社長はさりげなく新聞をかぶせた。
「これ、読んでもらえますか」
渡した便箋を黙って受け取った社長は、額の眼鏡を再び下ろすと、手紙を読みはじめる。そして、差出人の名前のところで目を止めた。
「……沙織か」
「ご存じなんですか?」
「……昔な」
社長は意味ありげにそう呟くと、そのまま最後までゆっくりと読んだ。そして、読み終えた便箋を机に置くと、缶コーヒーを手に取る。そのまま口はつけず、ただ握った。
「話は理解した。それで?お前はどう思ったんだ」
「移籍金、って書いてありました。相応の額、って……」
「ああ、書いてあるな」
「――うちの借金、いくらあるんですか」
社長の眉が動いた。
「……誰に聞いた」
「スタジオの廊下で、電話してるのを……。すみません、聞くつもりはなかったんですけど」
「……そうか」
「十三日が返済の節目なんですよね。チケットはまだ完売してないし、今のままだと満席にはならないし……。だったら――」
息を吸った。
「私がこれを受ければ、社長の借金が……」
「ふざけんな」
缶が机に叩きつけられた。中身が飛んで、通帳の上に茶色い点が散る。その衝撃に、私は目をこれ以上なく大きく見開いた。
低い声だった。社長が怒鳴るところは、何度か見たことはある。陽太が衣装で焼肉に行ったときも、かなが三日連絡を絶ったときも、この人は廊下に響く声で怒鳴った。……でも、今のは違う。怒鳴れないくらい、怒っていた。
「お前、自分を売って、俺の借金を返す気か」
「売るとかじゃ……!」
「同じだ!」
社長は立ち上がった。椅子が後ろの棚にぶつかって、何かが落ちる。
「そんな金で残った事務所に、何の意味がある。俺が何のために、このボロいビルにしがみついてると思ってんだ!」
――答えられなかった。考えたことがなかったのだ。
事務所は最初からここにあって、社長は最初から社長だった。なぜここにあるのかなんて、訊いたこともない。
社長は、肩で息をしていた。それから、左手で前髪を後ろに持ち上げるような仕草をし、ふうっと息を吐いた後、落ちたものを拾った。
写真立てである。裏返しで棚に置いてあったらしく、埃をかぶっている。社長はしばらくそれを見て、黙って私のほうへ向けた。
古い集合写真だった。今と同じビルの前に、四十人くらいが並んでいる。派手な衣装の人、ギターを抱えた人、着物の人。真ん中に、社長によく似た、もっと年を取った男の人が座っていた。
「――親父だ。この事務所を作った」
「……こんなに、いたんですか」
「ああ、十四組ほどな。小さいが、面倒見のいい事務所だった。親父は売り方は下手だったが、人を見る目だけはあった」
社長の指が写真の端をすうっとなぞる。
「俺は、親父の作るこの事務所が好きだった。あったかくて家族みたいで、いいことばかりじゃないこの業界で、馬鹿みたいに笑ったり、悔しくて泣いたり。……だが、俺が継ぐタイミングでその家族は儚く散った。十三年前……たったの一年で、全員がいなくなった」
「……引き抜き、ですか」
「そんな行儀のいいもんじゃねぇ。週刊誌に妙な記事が出る。現場で変な噂が立つ。本人が居づらくなる環境がどんどん生まれていく。……最終的に全員がこう言うんだ。「迷惑をかけるから辞めます」ってな。そして、本人が泣いている所へ、たまたま、条件のいい話が届く」
社長の指が、後ろの列の端で止まった。針山を手首に付けた、若い女の人が写っている。
「沙織だ。うちで一番腕のいいスタイリストだった。お前みたいに、舞台に立つやつの魅力を最大限に引き出せるな……」
窓から差し込む陽の光が、社長の瞳に黒い影を落とした。
「あいつも、自分から辞めるって言ったんだ。『私がいると、あの子たちの衣装まで悪く言われるから』って。親父は止めなかった。……いや、止められなかった。そのままあいつが辞めた次の月、あいつは向こうの会社にいた」
同じだった。私が三日間考えていたことと、一字も違わなかった。
「――全員が同じ形で辞めていき、親父はついに倒れた。俺は、この事務所をたたむつもりだったよ。もう誰もいねえんだから」
社長は写真立てを机に置いて、今度は引き出しを開けた。
今度は別の写真が一枚、机の上に置かれる。こっちは小さくて、色があせていた。ライブハウスのステージに、若い男が二人いる写真。一人は、ベースを抱えた目つきが悪く髪の長い男の人――。
「これ、社長?」
「ああ。二十四のときのな」
そして、もう一人はマイクの前でギターを持って、目を閉じて歌っていた。線の細い、きれいな顔の人だった。
「こいつは瀬尾ってんだ。曲は全部、こいつが書いてた。俺は弾けるだけで、何も作れなかった」
「……上手かったんですか?」
「天才だった。奏多を初めて見たとき、こいつを思い出したくらいにはな」
社長の声が、少しだけやわらかくなった。
「ある日、大手事務所から声がかかった。瀬尾だけに。俺は行けって言ったよ。お前の才能をこんなとこで腐らせんなって。それで、あいつはその事務所に行った」
「それで……?」
「――二年で、一曲も書けなくなった」
電卓の横の時計が、かちかち鳴っていた。
「あいつの曲は、売れる形に直されたんだ。歌詞を変えろ、サビを前に持ってこい、その癖のある歌い方はやめろ。あいつは素直だったから、全部聞いた。全部聞いて、最後に何も出てこなくなった。見失ったんだ、本当の自分を。――今は地元で配送の仕事をしてる。年賀状は毎年来る。生きているだけで、行幸ではあるんだがな……」
社長は写真の中の、目を閉じた顔を見ていた。
「俺が、行けって言ったんだ」
それきり、長いこと黙っていた。私は、何も言えなかった。
この人が苦しいときほど黙るのは、知っている。その黙り方に、二十年以上の重みがあるとは、知らなかった。
「で、十二年前だ」
社長は写真を引き出しに戻した。
「たたむと決めて、世話になったところに挨拶で回っていた。高円寺のあの店にも、世話になっていたから寄ったんだ。店長に頭下げて、帰ろうとしたら、ガキが四人、ステージに出てきた」
「――それって、初ライブの」
「ひでえもんだったぞ。ギターは途中で止まるし、鍵盤の兄ちゃんが拍手して、やり直して。ただ、曲がな」
社長はやれやれ、というように力なく笑った。
「曲が、とんでもなかった。十六歳のガキが書くもんじゃなかった。それと、ドラムだ。下手なんだよ。手数は少ねえし、フィルは怪しいし。なのに、全員があのドラムに乗っかってた。四つ数える声で、空気が変わる。ああ、このバンドの心臓はここだなって、五秒でわかった」
初めて聞く話に、私は雷に打たれたような衝撃が走った。
「終わってから、裏口で煙草を吸っていた。そしたら、そのときのボーカルが出てきてな」
社長は、窓の外を見た。眩しい陽の光に、わずかに目を細める。
「ステージじゃ、あんだけ笑ってたやつが。扉が閉まった瞬間、壁づたいにしゃがみ込んで、動かなくなった。膝が震えてた。……ああ、こいつは瀬尾と同じ種類だ、と思ったよ。人前に立つたびに、何か削ってるやつだ」
覚えている。あの日のかなは、終わってから吐きそうな顔をしていた。
「そこへ、ドラムの子が出てきた。そいつの側に座り込んだきり、何も言わねえんだ。大丈夫かとも、頑張ったねとも言わねえ。黙って前にしゃがみこんで、そいつの襟を直した。左右の高さを、きっちりそろえて」
社長は自分の襟を、指で二回つまんでみせた。
「そしたら、そいつがぱっと顔を上げた。十秒くらいで、魔法にかかったみたいに、ようやく息ができたみたいな表情を浮かべてな」
窓の外で、クリーニング屋の蒸気が上がっている。
「あれを見て、決めたんだ」
社長は、私に視線を移した。真っ直ぐな瞳に、なぜか私は目をそらせなかった。
「こいつを大手に入れたら、誰かがあの十秒を『無駄』って言う。メイクは専門の人間がやるし、衣装は会議で決める、ドラムはもっと上手いのを連れてくる。一個ずつ、正しい顔をした大人たちが、その本質となる魂を削っていく。そしたらこいつは、二度と立てなくなるって思っちまった」
「……」
「俺が残したかったのは、奏多一人じゃねえ。あの裏口の景色だ。お前が襟を直して、あいつが立つ。あれを丸ごと、誰にも触らせたくなかった。だから、俺はたたむはずだった会社を残した。看板も新しいのに掛け替えた」
「デネボラ、ですよね。獅子座の」
「尾だ」
社長は、ふっと息を吐くように笑った。
「奏多がバンドに獅子の心臓なんて名前を付けやがったから、俺は尻尾にした。尻尾ってのは、一番後ろだ。お前と同じ場所だよ。後ろがふらついてたら、獅子は走れねえ」
鼻の奥が、熱くなった。
「借金はな、俺の道楽だ。親父の分も、お前らのデビュー前の分も、二年前の会場の分も、全部、俺が好きで背負った。お前らに一円も持たせる気はねえ。このビルがなくなったら、あのワゴンが事務所だ。看板は屋根にでも載せればいい」
「でも――」
「でもじゃねえ」
社長は便箋を取って、私に突き返した。
一瞬、破るのかと思ったが、破らなかった。きちんと畳んで、私の手に戻した。
「これはお前宛ての手紙だ。俺が破るもんじゃねえ。行きたいなら行け。止めねえよ。昔出ていった連中にだって、それぞれの事情があった。沙織のことも、恨んじゃいねえ」
畳んだ紙の上から、大きな手が一回、私の手を叩いた。
「ただし、俺のために行くな。奏多のためにも、チケットのためにも行くな。それだけは許さねえ。お前がそれをやったら、俺が十二年間やってきたことは、全部、十三年前と同じになる」
「……私」
声が、うまく出なかった。
「私は、普通なので。抜けても、代わりはいくらでもいると思ってました」
その言葉に、社長はあきれた顔をした。
「普通のやつのために、五十過ぎのおっさんが家を担保に入れるか。馬鹿」
笑おうとしたら、涙のほうが先に出た。ましろちゃんの手紙のときに全部出したと思っていたのに、まだ残っていたらしい。
社長は困った顔で、机の上をあちこち探して、コーヒーのしみが付いたティッシュの箱を差し出した。
「泣くな。奏多に見つかったら、俺が殺される」
「殺されませんよ」
「いや、あいつはやる」
鼻をかんだ。
社長は通帳の上のコーヒーを拭きながら、ぶっきらぼうに言った。
「あさって、氷見が来る。……多分、ろくな話じゃねえ。何を言われても、今の話は忘れんな」
「はい」
「――それと、袖。縫いかけだろ。戻れ」
私は頷くと、作業部屋に戻って針を持った。群青の袖がさっきより少しだけ軽く感じたのは気のせいじゃないだろう。
事務所が、なぜここにあるのか。十二年ここにいて、初めて知った。誰かが私の十秒を、そんなふうに見ていたことも。
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