第22話 気づかなかった想い
「園原さん。来てくださったんですね」
十一月二十一日、土曜日。この日は憧れていた雑誌のインタビューを受けることになっていた。
記事が出てからというもの、私たちの仕事は一つ一つ減っていた。先ほども断りの電話が事務所に入り、社長は「そうですか」と電話を切って、缶を一つ握りつぶしていた。
もともと、数えるほどしかない予定だったとはいえ、こうも仕事が減るとスケジュールの空きが目立つ。今日の仕事は、貴重な残っている仕事の一つだ。
『ドラム手帖』というドラムの専門誌の取材。
月に一回出る雑誌で、楽器屋のレジの横によくひっそりと置かれている。読むのは、ドラムを叩く人間だけである。私は高校一年の春から、その雑誌を毎月買っていた。
そこに、「うしろの席から」という連載がある。
毎号、バンドのドラマーを一人だけ取り上げる。四分の一ページの小さな記事。写真は、顔ではなく手。有名な人も、そうでない人も、同じ大きさで載る。
その枠に、私が呼ばれた。
正直、行くかどうか、少し迷った。こんな時期に、のこのこ雑誌へ出ていいものか。でも、断るという選択はできなかった。あの連載に出るのは、私にとって高校一年生からの夢だったのだ。
取材の場所は、楽器屋の二階の小さな試奏室だった。
壁に、スネアが十台くらい並んでいる。金属と木と、新しい皮の匂い。この匂いをかぐと、どんなときでも少し落ち着く。
記者の人は、四十代の半ばくらいの、ひょろりとした男の人だった。名刺には『古賀』とある。指の付け根に、古いたこがあった。ドラムを叩いていた人の手だ。
「正直、お断りの連絡が来ると思っていました。こんな時期ですし、うちは部数も少ないので」
「そんな……。この雑誌のファンなので、お呼びいただけてうれしいです」
「それはありがたい」
古賀さんは、録音機を机に置いた。
付き添いは三好さんだけである。部屋の隅で、手帳を膝に乗せて、やけに背筋を伸ばしていた。
最初は機材の話からはじまった。スネアの口径と深さ。皮の張り具合。ペダルのばねの強さ。スティックの太さと先の形。
「……ペダルは、ばねをかなりゆるくしてあります。踏んだあと、少しだけ遅れて戻るように」
「珍しいですね。普通は、速く戻るようにしますが……」
「速く戻ると音が前に出るので。私は、後ろに音を置きたいんです」
「なるほど。後ろに……」
古賀さんは手帳に私の話を書き留めていく。
「では、園原さんご自身の持ち味はどこにあると思われますか?」
「……持ち味、ですか?」
「ええ」
「……うちは久遠の歌が中心なので。久遠の声を消さないように意識しています。あの人の声は、息を吸うところに色があるので、そこをかき消さないように」
「ほう」
「柏木のギターは、音の粒が細かいのでスネアは短く切ります。そうすると、粒がよく見えるので。雨宮の鍵盤は左手がすごく丁寧で、低いところを全部受け持ってくれるから、私はキックを少なく――」
古賀さんは黙って私の話を聞いていた。うなずきながら、書く手を止めることなく。
私の話が一息ついたところで、持っていたペンを机に置いた。
「よく分かりました」
「……すみません、長々と」
「いえ。色々と話していただいたおかげで、お三方のことがとてもよく理解できました」
穏やかな声だった。
「ただ、今日は園原さんの話を聞きに来たんです」
その言葉に私は思わず瞬きした。
「私の?」
「この連載は、うしろの席に座っている人の話を聞く場所なので。前の方々のことは、ほかの雑誌が書いてくれます」
――そっか。私、無意識でメンバーのことばかり喋っていた。
自分のことを、と思ったところで、私は困ってしまった。
自分の話というのを、普段することがほとんどないし、訊かれたこともない。取材で私に回ってくる質問は、衣装のことか、三人のことだ。私はそれに答えて、あとは三人の話を聞くことに徹している。目立つのはあの三人でいい。私の仕事は、彼らの魅力がちゃんと伝わるようにすることだから。
「私はその、普通なので。話すようなことが……」
「普通、ですか」
古賀さんは少し笑った。馬鹿にした笑い方ではない。
そのまま鞄へ手を伸ばすと、中から小さなパソコンを取り出した。
「では、こちらから伺います。これを聴いてください」
パソコンから音が流れた。
――私のドラムの音だった。
歌も、ギターも、鍵盤も入っていない。キックとスネアと、ハイハットだけが裸で鳴っている。
六日の生放送の、あの曲である。どうやったのか知らないが、ドラムの音だけを抜き出してある。
「音を分ける道具がありましてね。趣味で、気になったドラマーのを抜いて聴くんです」
自分の音を、こんなふうに聴いたのは初めてだった。
恥ずかしい。なんだか服を着ていないみたいな気分だ。
「ここです」
古賀さんが再生を止めた。
「サビの頭。普通はここでシンバルを一発、大きく鳴らします。ほとんどのドラマーがそうするでしょう。景気がいいですから」
「はい」
「でも、あなたは鳴らしていない」
そう言うと古賀さんは再生を巻き戻して、もう一度流した。
サビに入ると、キックが一発鳴る。でも、それだけ。シンバルは鳴らない。
「三回聴いて、全部のサビで鳴らしていないのを確かめました。偶然ではない。なぜですか?」
考えたことが、なかった。
考えたことはなかったのに、答えは、口から出た。
「……久遠が、息を吸うところなので」
「息を」
「サビの頭の半拍前で、あの人は大きく吸うんです。その音は歌の一部なので。シンバルを鳴らすと、消えてしまうから――」
古賀さんは、何も言わずに手帳に書いた。
「では、ここは」
さっきとは別のところを流れる。二番の前の四小節目。
「左足。踏みながら、何か足していますね。うちの編集部で、三人がかりで聴いても分からなかった」
「……そこは、かかとを浮かせて、足首だけで小さく」
「なぜ、そんな面倒なことを?」
「柏木のギターが、そこで一瞬、休むんです。指を広げ直すために。休んだところが空くと、曲が止まって聞こえるので、気づかれないくらいの音で埋めています」
「なるほど」
古賀さんはペンを置き、しばらく私の顔を見ていた。引き締まる空気感に、自然と両足に力が入る。
「園原さん」
「はい」
「それを、普通とは言いません」
静かな言い方だった。
鳴海さんにも、似たことを言われたことがある。あなたも、数えて音を置く人だ、と。あのときは、背中が冷たくなった。見抜かれた、と思ったからだ。
でも、古賀さんのは違った。
同じことを言われているのに、背筋が凍るような感覚はない。この人は、私から何も取ろうとしていない。ただ話を聴いて、分かったことを言っているだけだった。
「私は二十年間、いろんなドラマーの音を聴いてきました。手数の多い人、音の大きい人、速い人――上手い人はいくらでもいます」
古賀さんはそう言うと、パソコンの画面を指で軽く叩いた。
「でも、メンバーの息づかいにまで気を遣って、その隙間にそっと音を置いている人は、ほとんどいない。あなたのドラムは、三人の形をしているんです。型を取ったみたいに」
――型。
「確か、園原さんは衣装もご自身でお作りになるんでしたね」
「はい」
「それと同じことをしておられる。着る人の体に合わせて、布を裁つ。弾く人の息に合わせて、音を置く。あなたにとっては多分、それが一つの仕事なんでしょう」
考えたことがなかった。
ドラムと衣装は、別ものだと思っていた。片方は本業で、片方はできるからやっていること。
でも、同じだったのか。
「ドラムを始めたきっかけを、うかがってもいいですか?」
「……久遠が曲を作り始めて」
私は遠い記憶を呼び起こしながら答える。
「その曲に、合わせる音がほしくて。……中学生のとき、河川敷で古雑誌を積んで叩いていました。本物のドラムに触ったのは、高一になってからです」
「――遅いほうですね」
「はい。だから、人の倍やらないと、追いつかないと思って」
「追いつく、というのは誰に?」
「三人に」
古賀さんは、また少し笑った。
「叩いていて、いちばん好きな瞬間はどこですか?」
試奏室の壁のスネアの列が私の視界に映る。金属の胴に、蛍光灯が光っていた。
「……四つカウントしたあとです」
「カウントのあと」
「私が四つ数えると、三人が同時に息を吸うんです。音が出る、ほんの少し前に……。三人分の吸う音がする」
喋りながら、初めて気がついた。
「あれが聞こえるのは、世界で私だけなんです。お客さんには小さすぎて聞こえない。前を向いている三人も、お互いのは聞こえていないと思います。一番後ろに座っている私にだけ聞こえる――」
部屋の隅で三好さんがごそごそ動いた。鼻をかんでいるらしい。
「あの音が好きです。あれを聞くために、叩いているんだと思います」
言ってから、顔が熱くなった。
何をべらべらと……。
古賀さんは静かにうなずいた。
「最後に一つだけ質問を」
「はい」
「園原さんにとって、ドラムとは何ですか?毎回、全員に同じことを訊いています」
連載の、最後の一行になる質問だ。知っている。十二年、毎月読んできた。
自分ならどう答えるか、高校生の頃は布団の中でよく考えた。格好いい答えを、いくつも用意していた。
でも、今はひとつも出てこなかった。
「……昨日までなら、答えがありました」
「どんな」
「席料、です。普通の人間が、天才の三人の後ろに座らせてもらって、同じ景色を見るための。人の倍叩いて、一打も外さないことで、やっと払える……」
「今日は、違うんですか?」
「……分かりません」
正直に言った。
「昨日、いろいろあって。考えている最中なんです。でも――」
「さっき、自分の音を聴いて。恥ずかしかったんですけど……」
「はい」
「ドラムをやめたいと思ったことが一度もないことに気がつきました」
走ると言われた日も。記事が出た日も。サイン会に六人しか並ばなかった日も……。
腹が立ったり、情けなくなったりはしたことはあった。でも、この仕事をやめようと思ったことは、一度もなかった。
――何よりも、いやだ、と思った。三人の一番後ろで、三人の音を、息を、感じられなくなるのは。
初めてはっきり、そう思った。
「答えになっていなくて、すみません」
「いえ」
古賀さんは、録音機を止めた。
「いい答えでした。分からないと言える人は、案外少ないので」
その後、私は雑誌に載せる手の写真を撮った。スティックを握ったところと、開いたところの二種類を。
「――いい手ですね」
撮りながら、カメラマンの人がそう言った。
「針の跡とスティックのたこが、同じ指にある。初めて見ました」
左手の人差し指の横だ。針を押すところと、スティックが当たるところが、たまたま同じ場所なのだった。
二十七年間、自分の手をそんなふうに見たことはなかった。
全てが終わり、帰ろうとしたところで、古賀さんが封筒を一つ私に差し出した。
「これは記事とは関係なく。お見せしたかったので」
封筒を開けると、中に葉書が十枚ほど入っていた。
読者が編集部に送ってくるやつだ。次に取り上げてほしいドラマーを、書く欄がある。
そこに書かれていた文字に、私は目を見張った。
『Cor Leonisの園原糸音さん』
丸い字、角ばった字、鉛筆の字……ばらばらの字で、葉書の一枚一枚にそう書かれていた。
『女子でドラムやってます。園原さんみたいになりたいです』
『キックの置き方が好きです。どうやってるのか知りたいです』
『後ろにいるのに、いちばん目がいきます』
「毎月、来るんですよ。あなたの名前」
古賀さんは、唇をほころばせた。
「……知りませんでした」
「でしょうね。聞くところによると、ご自分の名前はお調べにならないそうで」
「よくご存知ですね」
「まぁ、業界は狭いので」
葉書を持つ手が少し震えた。
――見なかったのだ、私は。
悪い言葉を見ないために、全部、見ないことにした。それで叩けなくなるのを防いだ。正しかったと、今も思う。
でも、見ないことにした中に、これも入っていた。
三人が隠したのではない。私が、自分で閉めた扉の向こうに、ずっとあった。
「……一枚、いただいてもいいですか?」
「全部、どうぞ。あなた宛てですから」
帰りの電車で、三好さんはずっと窓のほうを向いていた。
肩がときどき揺れている。
「……三好さん。泣いてます?」
「な、泣いていません」
「鼻、赤いですよ」
「花粉です!」
十一月である。花粉はそれほど飛んでいない。
「……自分、あの連載、中学のときから読んでいまして」
窓を向いたまま、三好さんがぽつりと呟いた。
「いつか、園原さんが載ればいいのにと、ずっと。十一年間、思っていました……」
「……もしかして、葉書、出しました?」
三好さんの背中が、固まった。
「……三枚ほど」
「さっきの中に、あったりして」
「見ないでください」
慌てる三好さんに、私は思わず笑ってしまった。
笑ったら、昨日から胸の上に乗っていた重いものが、少しだけ軽くなった気がした。
白い封筒は、まだ裁ち台の上にある。社長の背中は小さいままだし、チケットの売上は赤字で止まっている。
やめたくない、という気持ちと、彼らのためになる選択をしたいという想いが複雑に絡みあう。
――社長に話してみよう。
一人で悩んでいても、答えは出そうにない。
膝の上で、葉書の束をそろえ直した。
角がぴったりそろう。
ここに書かれた想いに、今度こそしっかりと向き合おうと思った。
いつもお読みいただきありがとうございます!
果たして糸音はどんな決断をするのか……。
引き続き彼らの物語をお楽しみください◎
(いいね、評価ありがとうございます!励みになります!)




