第21話 二通の手紙
「糸音ちゃん。少しいいかな」
十一月二十日、金曜日。この日は衣装を作るために、作業部屋でミシンを動かしていた。群青の布に型紙を当てていたら、扉が二回、叩かれた。
開かれた扉から顔を出したのは澄人さん。手には封筒を持っていて、それ見せるように持ち上げて揺らしていた。遠目から見ても、白くて、厚くて、紙の質がいいのが分かる。
「今朝、届いた。君宛てだ」
そう言って私の元にやってきた澄人さんは、裁ち台の端にそっと手紙を置いた。封は切られていない。角に銀の箔でアストレアの社名が押してあった。
「開けていない。約束だから」
澄人さんの指が、封筒から離れた。離れるまでに、少し時間がかかった気がする。
ふと、澄人さんの上着のポケットで携帯がバイブ音を鳴らし光った。画面が半分のぞいていたので、自然と通知が見える。
『母:いつまであんな低俗な音楽を』
澄人さんの手が画面を隠した。
「ごめん。関係のないものを」
「……いえ」
――低俗な音楽。その言葉が何を指しているのかが、澄人さんの表情から分かった。実の母親からもらうメッセージとしては、あまりにも悲痛な表現である。
「私は外にいるよ。読み終わっても、呼ばなくていい。どうするかを私に言う必要もないから……」
扉が静かに閉まった。
私は後ろ髪を引かれるような思いになりながらも、裁ちばさみを置いて、その封筒を取った。
自分宛ての仕事の手紙を、自分で開ける。当たり前のことなのに、指が少しもたついた。
中には便箋が三枚。差出人は、アストレアのクリエイティブ部長、早瀬沙織という人である。
内容は私へのスカウトだった。VESPERの来年のツアー衣装を皮切りに、アストレア所属アーティスト全体の衣装と見せ方を統括する立場を与えるから、こちらの事務所へ来ないかということらしい。
作品にはすべて、私の名前をクレジットする。専用のアトリエと、助手を二人。報酬は、今の私の年収のざっと四倍ほどを出すと記載されていた。
さらに、ドラマーとしての活動も、希望に応じてサポートし、今より活躍をできる環境を用意すると書かれている。
『なお、移籍に際しましては、現所属事務所様への移籍金として、相応の額をご用意する所存です。これにより、デネボラ様の今後の運営にも資するものと存じます。園原様、久遠様はじめメンバーの皆様、双方にとって良い形になることを、心より願っております』
うちの事務所の借金を肩代わりできる移籍金が手に入る。その内容に心がざわついた。
『お返事は、十二月十四日の午前中までにいただければ幸いです。大切な公演を終えられてから、ゆっくりお考えください』
私はふうっと息を漏らすと、便箋を裁ち台に置いた。
――気に入らないと思った。姑息なやり方で、私たちに揺さぶりをかけてくる姿勢に。
でも、それだけで片づけることができない現実に、むしゃくしゃした。
思い起こされるのは、あのとき廊下で聞いた社長の声。「来月の分は十三日が終われば必ず。利息だけでも今月中に」という会話の内容、壁に手をついた小さい背中……。
チケットは、まだ完売していない。正直、今の流れだと完売する見込みは薄い。
――移籍金で社長の借金が消えるかもしれない。それに、私がいなくなればコルレオが叩かれることも減るし、もっとファンも増える。
「お前はどこへ行っても通用する」という陽太の言葉が脳裏でこだまする。「あそこにいる限り、誰もそれに名前を付けてくれない」という鳴海さんの言葉が心臓を握りつぶした。
私が抜けて、それで三人と社長が助かるのならいいのではないか――
と、そこまで考えて、私は頭を振った。違う。これは向こうが私に考えさせたいことだ。型紙どおりに、ちょうどここへ針が落ちるように縫ってある。
「いと」
突然、背後から声が聞こえた。かなだった。隈は相変わらずだが、採寸のときよりは少しましな顔をしている。おにぎりを毎日食べさせている成果かもしれない。
かなは裁ち台の上の便箋を見た。
「それ……」
「うん。今、読んだ」
「……行くの」
「まだ、読んだだけ」
かなの両手が体の横でぎゅっと握られる。
「いとが行くなら……」
低い声でかなは言った。
「行くなら?」
「……ううん。……いとがいないところでも、書けるようにする。ちゃんとする。前みたいに止まらない」
「かな……」
「だから――」
握った手が震えていた。
「僕のせいで、残らないで」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
「僕が書けなくなるから、とか。襟が直せないから、とか。そういうので決めないで。いとは、いとの行きたいほうに行って」
一息で言って、かなは唇を噛んだ。
行かないで、と顔に書いてある。それなのに、口は反対のことを言っていた。この人が私の前でそんな器用なことをするのを初めて見た。
外向きの顔でも、覚えてきた言葉でもない。たぶん、あの夜からずっと考えてきて、自分で絞り出した言葉なのだろう。
「……休止の理由、半分は合ってるって言ったよね」
かなの肩が揺れた。
「あれ、どういう意味?」
「今は」
「言えない?」
「……言ったら、いとが残る」
かなは首を振った。
「それはずるいから……」
――分からない。この人の言うことは、いつも半分しか分からない。
「あの八小節は?」
私は訊いた。
「あれは、何て言ってたの?」
「……まだ、途中」
「続きがあるの……?」
「ある。あれは『心拍』の、まだ書けてなかったところ。締切までに書く」
かなは一歩下がって、扉に手をかけた。
「聴いてから、決めて。それだけ、お願い」
そう言うと、かなは部屋を出ていった。背中がいつもよりひとまわり小さく見えた。
あれだけ囲っていたくせに、手のひらをひっくり返されたような感じだ。陽太は自分で選べと言い、澄人さんはどうするか任せると言った。かなは僕のせいで残るなと言う。三人そろって、手を離すような言い方だった。
選べと言われて初めて、私は自分が選び方を知らないことに気がついた。
祖母のミシンを継ぐのも、かなについていくのも、ドラムを叩くのも、自分で選んだ覚えがない。目の前に来たものを、一つずつ丁寧にやってきただけだ。それで二十七年間、困らなかった。
夕方、もう一度、部屋の扉が叩かれた。今度はやけに小さい音だった。
「そ、園原さん。少しだけ、よろしいでしょうか」
三好さんである。
顔が白く、まばたきがいつもの倍くらい多い。緊張しているのが、全身から溢れていた。
「自分は、決まりを破りました」
「……決まり?」
「園原さん宛ての郵便は、すべて雨宮さんにお渡しすることになっていました。でも、一週間前に届いたものを一通だけ、自分が持っていたんです。すみません。雨宮さんには今朝お話しして、叱られる覚悟だったんですが――」
「叱られた?」
「いえ。『ありがとう。君が渡してあげて』と」
三好さんは、手帳の間から封筒を出した。
文房具屋で売られている普通の水色の封筒。宛名の字が丸くて、几帳面だった。
「安全の確認のために、中は拝見しました。申し訳ありません。でもこれは、園原さんが読むべきものだと思いました」
両手で差し出された。
私がそれを受け取ると、三好さんは部屋から出ていく。
封を開くと、中には便箋が三枚。罫線に小さな星の模様が入っている可愛らしい便箋だった。
『園原糸音さま
はじめてお手紙を書きます。ラジオネーム、ましろです。私は高校二年生で、吹奏楽部で打楽器をやっています。『コルレオの部室』、毎週楽しみに聴いています。
打楽器の女子は、わたし一人です。重いものが運べないとか、音が軽いとか、いろいろ言われて、今年で部活をやめようと思っていました。
先週、生放送で園原さんを見ました。テレビではいつもほとんど映らないので、叩いているところをちゃんと見たのは初めてでした。
一瞬だったけど、録画して、何十回も見ました。左足がどうなっているのか、まだ分かりません。
ネットで、いろんなことを言う人がいるのは知っています。わたしは、あの人たちが何を見ているのか理解ができません。
園原さんは一番後ろにいるのに、一番光って見えました。
後ろにいる人が光っていると、前の三人もキレイに見えるんだと、初めて知りました。
結局、部活は辞めないことにしました。スティックは、お店で十本握って選びました。勇気がいりましたが、自分に合うものにようやく出会えてうれしいです。
十二月のアリーナ、お年玉の残りでチケットを買いました。一番後ろの席です。ステージは豆つぶだと思います。でも、園原さんと同じ「一番後ろ」なので、ちょっとうれしいです。
園原さんのカウント、楽しみにしています。
ましろ』
――知っている名前だった。うちのラジオに、月に一度くらい、私宛てのメールをくれる子だ。ボタンの付け方とか、スティックの選び方とか、いつも小さな質問をひとつだけ書いてくる。やめようと思っていたなんて、一度も書いてこなかった。
読み終えた後、しばらく動けなかった。
便箋に、丸いしみがぽつぽつと落ちる。止まらなかった。
それまでの不安や焦躁はどこかに行ってしまって、純粋な光に包まれるような清々しい気持ちになった。
気づけば、空はゆっくりと夜の色に染まっていた。裁ち台の上には、封筒が二つ並んでいる。白くて厚い封筒と、水色の封筒。
私はその封筒の間で揺らいでいた。
裁ちばさみを取って、群青の布に刃を入れる。
かなの衣装だ。今までで一番いいのを作ると、鏡の前で約束した。行くにしても残るにしても、これだけは仕上げる。そう思って作業を再開した。
最後まで裁ち終えて、棚を見上げる。
一番上の段に、緋色の布が一反、巻いたまま置いてあった。再始動の前に、自分で買ったものだ。買ったきり、一度も広げていない。後ろにいる人間が着るには、派手すぎると思ったからだ。
『一番いいのは、いとが着て』
あのとき、かなに言われた言葉が脳裏に響く。私は踏み台を出すと、緋色の布に手を伸ばした。指が布の端に触れて、そこで止まる。
まだ、下ろせなかった。
十二月十四日の朝まで、あと二十四日だった。
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