第20話 それぞれの葛藤
「先に帰ります」
リハーサル終了後、私はメンバーとマネージャーにそう伝えると、さっさと帰る準備をした。
陽太は何か言いかけてやめ、澄人さんは何も言わず俯いた。かなは少し離れたところで、私の袖のあたりを見ていた。つかみたいのを、我慢している目だった。
テレビ局を出ると、私は電車に乗った。帰る、と言ったのに、アパートの駅では降りなかった。そのまま四十分乗って、川を渡る手前で降りた。
そこは私にとって想い出が詰まった場所。私とかなと陽太が、育った町である。
駅から歩いて十五分。土手を上がると、枯れた芦と泥の匂いがして、川が見える。河川敷だ。
中学のとき、三人で毎日ここに来ていた。楽器の音を出しても怒られない場所が、ここしかなかったからだ。
陽太は買ったばかりのギターを抱えて、かなは鍵盤ハーモニカで、私は古雑誌を積んだのをドラム代わりにしてスティックで叩いていた。今思えば、ひどい編成である。
しばらく歩いて、私は土手の斜面に座った。十一月の川風は冷たい。朝、澄人さんに言われて持ってきた上着を、かばんから出して着た。
優雅に流れる川の流れを見つめながら、突き上げてくる憤りに似た感情を穏やかにしようとする。でも、上手くできなかった。
澄人さんが優しいのは、知っている。バンドのことを誰よりも考え、動いてくれているのも知っている。
休止中の二年間も、みんなの心がバラバラにならないように、色々と動いてくれていた。
だから私は、澄人さんを信頼しているし、尊敬している。
あの人が「大丈夫だよ」と言えば大丈夫なのだと、疑ったこともなかった。上着を持っておいでと言われて持っていったのは、あの人の言うことなら間違いないと、私が思っていたからだ。言いなりだったわけではない。
私が怒っているのは、あの仕事を断ったことではない。恐らく、やるかと訊かれていたら、たぶん自分で断っていた。
ここまで腹が立つ理由は、何も訊かれなかったことだ。うちは今まで、何でも四人で話して決めてきたのに。澄人さんは、私の意思を確認せず、勝手に私の代わりに返事をしていた。
知らない人にやられたのなら、ここまでにはならない。鳴海さんにいくら分析されても、記者にどう切り抜かれても、心は熱くはなるが、痛くはなかった。痛いのは、信じていた人にそれをされたからだ。
それからしばらく私は、じっとそこに座っていた。悶々とする心を、ただひたすら川を眺めて落ち着かせようとしていた。
日が傾いてきた頃、土手の上を誰かが走ってくる音が聞こえてきた。足音で誰なのかがわかる。中学の体育祭から変わらない、かかとから着く、うるさい走り方だ。
「……いた!」
陽太だった。肩で息をしている。額に汗が浮いて、前髪が貼りついていた。駅から走ってきたらしい。
「なんで、わかったの」
「お前、へこむと絶対ここ来るから。中二んときから」
「……へこんでない」
「そっか」
陽太はそれ以上言わずに、私の隣に座った。コンビニの袋から、一個の肉まんを取り出す。
「最後の一個だった」
陽太は言い訳みたいにそう言うと、半分に割った。そして、大きいほうをこっちによこす。湯気が川風に流れていった。
陽太は何も訊かなかった。あの落ち着きのない男が、土手に座って、川を見て、黙って肉まんを食べている。鳴海さんと何を話したのかも、なんで一人で帰ったのかも、怒っているのかも訊かない。
そうこう過ごしているうちに、向こう岸の工場の煙突に灯りが点いた。
「……陽太って、黙ってられるんだね」
「失礼な」
「三十分くらい黙ってるの、初めて見た気がする」
「うん。俺もびっくりしてる」
その答えに、思わず笑ってしまった。笑ったら、喉の奥で固まっていたものが少しゆるんだ。
「鳴海さんに言われた。三回、私に仕事の依頼をしたって。でも全部、私の名前で断わるメールが来てたって……」
「うん」
「……知ってた?」
「知ってた」
陽太は川から目を逸らさなかった。
「連絡を止めたのは澄人さん。でも俺も奏多も、知ってて、止めんなって言わなかった。だから三人とも同じ」
「……なんで」
陽太は肉まんの紙を小さく畳んだ。畳んで、また開いて、また畳んだ。
「この間、お前の前で落としたあの封筒さ」
「……あ、ギターケースの」
「そ。あれ、アストレアから。休止して一年くらいのとき。ソロで来ないかって、スカウトがあった。サポートでもいいし、新しいバンド組んでもいいって。正直、条件、めちゃくちゃよかったよ」
やっぱりと思った。封筒に印刷されていた社名の、頭の一文字だけは見えていたのだ。
「一晩、考えた。澄人さん家の居間で、封筒の前に座って。奏多は曲書けねえし、いつ戻れるかわかんねえし、俺のギターは誰が弾いてもいいって言われてたし」
「……それ、ラジオでも言ってたよね。一体、誰にそんなこと言われたの?」
「昔、ネットで。……俺も自分よりギターが上手いやつが山ほどいるのは知ってるし、そん時は俺がこのままメンバーでいていいのか、ちょっと悩んでた」
陽太の発言に、私は刺されたような衝撃を受けた。
「……まぁ、朝になって断ったけどな。理由は簡単でさ。向こうには、お前のカウントがねえから」
川風が陽太の前髪を持ち上げた。
「俺、お前のリズムが一番弾きやすいんだよ。中学んとき、ここで古雑誌叩いてた頃から。お前が四つ数えると、次にどこへ指を置けばいいか、体が勝手にわかる。他のドラマーとも何回かやったけど、だめだった。上手いやつはいくらでもいる。でも、お前のじゃねえと、俺は置き場所がわかんねえ」
その言葉に、先日の収録を思い出した。私が走ったとき、陽太のギターは、置き場所が見つからないという音を出していた。
「だからさ。お前にも向こうから話が来たって聞いたとき、わかったんだよ。お前は俺と違って、どこ行っても通用する。服でも、ドラムでも。……向こうの方がお前のスゴさだって、ちゃんと評価される」
「そんなこと……」
「あるよ。あるんだよ!」
陽太の声が少し大きくなった。
「行きたいなら行けって、俺は言うつもりだった。ずっとそう決めてた。お前が選ぶことだから。なのに澄人さんが断ったって聞いて、俺」
畳んだ紙が、手の中でつぶれた。
「ほっとした」
消えそうなくらい小さい声だった。
「最低だろ。お前の仕事なのに。お前が怒るってわかってたのに。行っちまうのが怖くて、その話が来てること言えなかった」
陽太はやっとこっちを見た。笑っていない。採寸の日、封筒をしまったあとと同じ顔だった。あれは、隠しているのが苦しい顔だったのだ。
「ごめん」
まっすぐそう言われて、私は困った。怒っているはずだった。
実際、怒っている。上着のことも、返事のことも、腹の底でまだ熱い。……なのに、陽太の「怖くて」は、怒りの置き場所を半分持っていってしまった。
「……陽太も、普通じゃないよ」
「は?」
「どこ行っても通用するのは、陽太のほう。かなは、陽太が弾ける一番先を書いてるんだって。陽太ができない曲は作らないって言ってた。信頼してるんだよ。陽太ならできるって」
陽太の目が、丸くなった。
「あいつが?そう言ったの?」
「うん。採寸のときにね。直接、口で言いなよって言ったら、曲で伝えてるって」
「……伝わるか、そんなもん」
陽太は顔を両手で覆った。耳の先まで赤い。今度は、部屋が暑いせいではないと、さすがの私にもわかった。川風が吹いているのだから。
泣いているのか笑っているのか、よくわからない声が、手の隙間から漏れた。
「あのバカ。俺、あいつは俺のせいで本当に書きたい曲が書けないんじゃないかって悩んでたんだぞ。九年も。毎回、俺が苦戦する曲を作ってくるから、俺がすぐに表現できないことに、もどかしい思いをしてるんじゃないかって……」
「……うちのバンド、大事なことほど口で言わないから」
「お前が言うな」
「私?」
「……なんでもねえ」
陽太は顔を上げて、鼻をすすった。
「帰るか。澄人さん、事務所で待ってる」
「……まだ怒ってるんだけど」
「怒っていい。つうか、俺にも怒れ。そんで――」
立ち上がって、土を払って、手を出した。
「次は自分で選べよ。俺らが選ばせなかった分まで、全部」
私は頷くと、差し出された手をつかんで立った。中学生のときは、同じくらいの大きさだったのに、今は私の手が半分隠れる。指先だけが、石みたいに硬かった。
事務所に着いたのは、九時を回った頃だった。
クリーニング屋はもう閉まっていて、階段の電気だけが点いている。陽太は一階で足を止めた。
「俺はここまで。こっから先は、二人で話せ」
私は了承すると、二階の扉を開けた。澄人さんは窓際に立った状態でこちらを振り向いていた。
一瞬、大きく目を見開いてから、戸惑いつつも、少しホッとしたように優しい表情を浮かべる。
「おかえり」
それだけだった。どこへ行っていたのかも、誰と何を話したのかも訊かない。
私は、返事をしなかった。
「ただいま」と言えば、いつもどおりになる。澄人さんは笑って、温かいものを出してくれて、冷えただろうと言って、明日の朝にはまた「おはよう」の連絡をくれるだろう。
でも、それはしたくなかった。
澄人さんは黙ったまま、私が口を開くのをただ待っていた。
「……私のためですか。あの返事を書いたの」
澄人さんは少しの間、目を閉じた。
「そう言うつもりだった。ずっと、自分にもそう言い聞かせていた」
そう言って開かれた目は、いつもの穏やかな色ではなかった。
「……でも違う。半分は俺のためだった」
澄人さんの拳がギュッと固く握られる。
「あの依頼を君に見せたら、君は向こうへ行くかもしれない。事実、今の状況なら君が本当に輝けるのは、向こうの環境なのだろうと思ったから……。俺は、それが怖かった。気づいたら、手が勝手に返事を書いていた。三回とも」
「……私、澄人さんのこと、信じてました」
言うつもりのなかった言葉が、先に出た。
「優しい人だって、知ってます。誰よりもこのバンドのことを考えてくれてるのも。だから、澄人さんが決めたことなら大丈夫なんだって、ずっと思ってました。尊敬してたんです。本当に」
澄人さんは、動かなかった。
「……だから、腹が立つんです。知らない人にされたんじゃなくて、澄人さんにされたから」
声が、少し揺れた。弱音を吐くのは得意ではない。でもこれは弱音ではなくて、ただの本当のことだった。
「私のためを思うのなら、ちゃんと聞いて欲しかった」
今度は、静かに言えた。
「仕事を受けたかったわけじゃないんです」
その言葉に澄人さんが、顔を上げる。
「たぶん、訊かれても断ってました。アリーナの前に、よそのツアーの衣装なんて作れません。向こうの事務所へ行きたいとも思わないです。澄人さんが書いた返事と、結論は同じだったと思います」
本当のことだった。九月の私に、あの依頼を受ける余裕はなかった。
「でも、それを決めるのは私です。うちは、ずっとそうだったじゃないですか。バンドの名前も、デビューするかどうかも、休むときも、戻るときも。四人で机を囲んで、全員がうんと言うまで話してきた。かなが黙り込んでも、陽太がふざけても、最後に澄人さんが『糸音ちゃんはどう思う?』って、必ず訊いてくれた」
だから私は、この人たちの後ろで、安心して叩いてこられたのだ。
「それをされたら、信じられなくなってしまいます。次に澄人さんが『大丈夫だよ』って言ったとき、私は、本当かなって思ってしまう。そうなるのが、一番いやなんです」
その時、澄人さんの顔から色が引いた。殴られたような顔だった。
「……最低だな、俺。よりによって、俺が一番嫌いなことを君に」
声がかすれていた。片手で目もとを押さえて、しばらく動かなかった。指先がわずかに震えているのが見える。
「……あなたのためを思って。俺がこの世で最も嫌いな言葉だ」
澄人さんは笑おうとした。でも、うまく笑えていなかった。
「昔、毎日、母に言われた言葉だよ」
その言葉を聞いて、以前澄人さんの携帯に表示された『母』の文字を思い出した。
「謝って済むことじゃない。これからは、君宛てのものは全部、開けずに君に渡す。断るのも受けるのも、君が決める。そう誓うよ」
言葉が切れた。
「……それで大事なものを失ったとしても、それは俺の問題だ」
悲痛な表情を浮かべる澄人さんに、私は何と声をかければいいのか分からなかった。
「……とりあえず、今日はもう帰ります」
「うん。車を」
「陽太が下にいます」
「……そう」
扉に手をかけた。背中で、澄人さんが動かないのがわかる。「おかえり」を、まだ受け取ってもらっていない人の立ち方だった。
昔、祖母がよく言っていた。腹が立っていても、挨拶だけは返しなさい。糸が切れたら、縫い直すのは大変だから。
「……ただいま」
振り向かずに言った。
「でも、まだ怒ってます」
後ろで、息を吸う音がした。
「うん」
声が震えていた。
「許さなくていい。いや、許さないで」
私は振り返ることはせず、そのまま階段を下りた。
陽太が、一階の壁にもたれて待っていた。何も訊かずに、並んで歩き出す。そのまま家に送ってもらった。
翌朝、いつもどおり澄人さんから、通知が届いていた。
『おはよう』
それだけだった。上着のことも、朝ごはんのことも、書かれていない。
私は画面を見て、十分ほど迷って、こう返した。
『おはようございます。今日は自分で決めて、上着を持っていきます』
返事はすぐに来た。
『うん』
たった二文字なのに、打った人の顔が見える気がした。
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