第19話 隠された真実
十一月十八日、水曜日。
今日は年末特番の合同リハーサルの日であった。
テレビ局の一番大きなスタジオに、出演するバンドが八組集まっている。機材の山と、スタッフの声と、あちこちで鳴るチューニングの音。革のケースと整髪料と、ケータリングのコーヒーの匂いが混ざり合うこの感じ、普段ならわくわくする景色だ。
しかし、今日は突き刺さる視線が痛い。記事が出て六日目、まだまだあの話題は新鮮な状態だった。
私たちが部屋に入った瞬間、みんなの会話が一拍止まった。すぐに会話は再開したけれど、すごく意識されているのは空気で分かる。
私はそれに気づかないふりをしようと、表情筋に力を入れる。
かなは、私の一メートル左にいた。いつもなら、半歩くらいの距離なのだが、当面、人前では距離を取りましょうと澄人さんが言ったのだ。かなは何も言わずにうなずいて、それから六日間、律儀に一メートルくらいの距離感を守っていた。
「おっ。園原さん?」
野太い声がして、振り向いた。
――熊がいた。正確には、熊みたいに大きい男の人だった。百九十近い背に、丸太みたいな腕。スティックケースを持っているので、同業者だとわかる。
「VESPERの大河内です。ドラムの。いやー、やっと会えた!」
「あ、どうも。園原です」
「生放送、観ましたよ。二番の前の四小節。あれ、左足どうなってんですか。ハイハット踏みながら、キックの裏にゴースト入れてるでしょ。録画、コマ送りで見ても、わかんなくて」
その言葉に思わず、笑ってしまう。記事のことでも、衣装のことでもない。同じドラマーとして、敬意を持って見てくれてるのだということが、うれしかった。
「あれは……踏んでるんじゃなくて、かかとを浮かせたまま足首だけで」
「あー!かかとか! だから音が丸いんだ」
「……大河内さんの、サビ前のフィルのほうがすごいですよ。あのタムの回し方、どうやっても真似できなくて」
「ありがとうございます!でも、あれは腕が長いだけなんで――」
その後もドラムの話で盛り上がった。自分の周りにドラマーがあまりいないので、こういう話をするのは新鮮だ。
「うちのボスはね、面倒な人ですけど」
大河内さんは、機材を担ぎ直しながら言った。
「耳だけは、確かなんで。その人が園原さんの話ばっかりするから、俺も聴き直したんですよ。そしたら、ほんとにすごくて」
笑顔に、裏はなさそうだった。
「……っと、そろそろ行かないと。また、本番で!」
大河内さんは手を振って、自分のバンドのほうへ戻っていった。
「久遠さん、立ち位置の確認お願いしまーす」
ちょうどその時、かなが番組のスタッフさんに呼ばれた。かなは椅子から腰をあげ、スタッフのもとへ歩いていく。
「ギターの方、搬入口でアンプの確認を――」
次に別のスタッフが陽太を呼びにきた。アンプの確認という言葉に、陽太は不思議そうに首をひねる。だが、呼ばれたら行かないわけにもいかないので、スタッフの方へ移動していった。
「雨宮さん。プロデューサーが、例の記事の件で少しお話を」
さらに別のスタッフが澄人さんを呼びに来る。澄人さんは一瞬だけ私を見た。でも、三好さんが私の隣にいるので大丈夫だろうと思ったのか、スタッフに了承して後をついて行った。
それから間もないうちに、三好さんの電話が鳴った。
「す、すみません!社長からで……すぐ戻ります」
とても綺麗なタイミングで4人全員がいなくなった。
「園原さん」
突然、紙コップが目の前に差し出される。湯気の向こうに、切れ長の目があった。
「紅茶でよかったですか。コーヒーは飲まれないと聞いたので」
――鳴海朔だ。
誰から聞いたのか、とは訊かない。だが、自分のことを嗅ぎ回っているという噂を聞いていたので、内心穏やかではなかった。
「……どうも」
カップを下げる気配がないので、私はそれをしぶしぶ受け取った。断る理由を探すより、早く用件を聞いたほうがいい。
「五分だけ、お時間をください。彼らが戻るまでに、それくらいはあるはずなので」
「あるはず、なんですね」
「ええ」
なるほど、隠す気もないらしい。
鳴海さんは、私の隣の機材ケースに腰を下ろした。自分に向けられる視線に、私はかたく背筋を伸ばす。
「九月九日。十月二日。十月十六日」
「……何の日付ですか?」
「私があなたに、仕事をお願いした日付です。うちの来年のツアー衣装を、園原さんに作っていただきたい。そういう依頼を、三度、事務所宛てにお送りしました」
――初耳だ。そんな依頼が来ていたことを私は知らない。
「三度とも、お断りのお返事をいただいています」
そう言うと、鳴海さんは携帯を出して、画面をこちらに向けた。その時のメールのようだ。
『このたびはお声がけいただき、誠にありがとうございます。大変光栄なお話ではございますが、現在はバンド活動に専念しておりますため、外部のご依頼はお受けいたしかねます。何卒ご容赦くださいませ。園原糸音』
同じ文面が、三通。日付だけが違う。最後に、私の名前が付いていた。
打った覚えのない自分の名前が、人の携帯の中に三つ並んでいる。知らないうちに撮られた写真を見せられるのと、同じ種類の気持ち悪さだった。
送り元は、事務所の窓口のアドレスのようだ。あそこから私の名前で文章を出せる人は、一人しかいない。
最後の一通は、十月十六日の夜。ライターさんが鳴海さんの名前を出して、澄人さんが割って入った、あの日だ。
「あなたの言葉では、ありませんよね」
鳴海さんの声は、静かだった。
「署名はあなたでも、書いたのは別の方だ」
――何か来ているのだろう、とは思っていた。採寸の日に、澄人さんは「気にするようなものは来ていない」と言っていたし、三好さんは「答えられません」と言った。二人とも私のために動いてくれていることは知っているし、信頼してたから任せていた。けど――
甘かった。
メールが止められていただけなら、まだいい。でも、私の名前で勝手にメールを送り、勝手に判断して断るのは違うと思った。
「一通目から、初耳です」
「……でしょうね」
「それを今、ここで私に教えるのは、親切ですか?」
「いいえ」
鳴海さんは、あっさり言った。
「営業です」
正直な人だった。腹の立つほどに。
「記事のこと、お気の毒でした」
「……『環境さえ変われば』」
私は紅茶に目を落としたまま言った。
「あれ、いい言葉ですよね。誰が言ったか、ご存じですか」
一拍、間があった。
「さあ」
薄い笑みが、少しも動かなかった。
「ただ、的は外していないと思います」
やっぱり知っているんだ。いつかの冬華さんの「気をつけて」という言葉が脳裏に蘇ってきた。
「園原さん。私は曲を、計算で書きます」
鳴海さんは、リハーサル室の向こうを見ていた。かなが番組の人に囲まれて、明るく笑っている。
「久遠さんのようには書けない。あの人は、心臓から直接、音を出してくる。私は、どの音をどこに置けば人が泣くかを、一つずつ計算して置く。……だから、わかるんです。あなたが何をしているのか」
「何を、って」
「襟の芯。裾の長さ。照明が当たったときに一番きれいに見える色。それから、彼が歌いやすいように、半拍だけ後ろに置くキック」
息が止まった。
「あなたもでしょう?あのバンドで、あなただけが――」
鳴海さんは、こっちを見た。
「あなたは自分を、普通だと思っているのかもしれない。天才三人の後ろにいる自分は、普通の人だと」
「……思ってますけど」
「私もそうです。だからこそ言えます。それは普通ではなくて、別の種類の才能です。そして、あなたがあそこにいる限り、誰もその才能に名前を付けてはくれない」
紅茶が、冷めはじめていた。
「彼らは、あなたを守ります」
紙コップの縁を、指でひと撫でした。
「届く手紙を選び、見せる画面を選び、あなたの代わりに返事をする。大事にされているのは、本当でしょう。ただ……それは誰のためなんでしょうね。あなたが傷つくのが怖いのか、あなたがいなくなるのが怖いのか」
初日の楽屋で、三好さんが私たちを見ていた目を思い出した。あの人も、同じことを訊きたそうにしていた。
「私だったら、あなたを守りません」
鳴海さんは立ち上がった。
「使います。名前を出して、仕事として正当な対価を払って。……その代償に叩かれることもあるでしょう。でも、そのときはあなたが自分で読んで、自分で怒ればいい。あなたは、それができる人だ。違いますか?」
違わない。六日前、雑誌を握りつぶしたときの手の熱さを、まだ覚えている。あれは、誰かに代わりに怒ってもらったのでは、手に入らないものだった。
「……よく私のことをご存知ですね」
「見ていれば私のような人間には分かります」
初めて、鳴海さんは声を出さずに笑った。
「近いうちに、正式な書面をお送りします。あなたの将来にとって、本当にいいのはどちらか、よくよく考えてみてください。……今度は、あなたの手に届くといいのですが」
そう言うと鳴海さんは一礼して、去っていった。紙コップだけが、手の中に残る。時計を見るとちょうど五分だった。
「……だから、言ったのに」
通りすがりに、小さな声がした。
灰色の髪の人が、足を止めずに横を過ぎていく。今日はレースではなく、黒いジャージだった。それすら誰かが選んだのだろう。
「ごめんなさいね。うちの人が」
冬華さんはそれだけ言って、振り返らなかった。眉間に深いしわが寄っていたのが印象的だった。
最初に戻ってきたのは、澄人さんだ。
早足だった。私の手の紙コップを見て、リハーサル室の向こうの黒い背中を見て、もう一度、私の顔を見る。何かあったことは、それでわかったらしい。
「糸音ちゃん」
「……鳴海さんに、メールを見せてもらいました」
自分でも驚くくらい、抑揚のない声が出た。
「衣装の依頼への、お断りの返事です。三通ありました。全て最後に、私の名前が書いてあった」
澄人さんの目が、わずかに開いた。
「私、あんなメール、返した覚えがないんですけど」
澄人さんの口が閉じた。
言い訳をすることもなく黙っている姿勢が、かえって私の心に影を落とした。
続いて陽太が走って戻ってくる。私たちの空気を見て足を止めた。かなはまだリハーサル中で、向こうで笑っている。でも、笑いながら、目だけがこっちを向いていた。
「リハ、うちの出番は一時間後ですよね」
私は紙コップを、機材ケースの上に置いた。中身は、半分残っていた。
「少し、外の空気を吸ってきます」
「糸音、俺も」
「一人で」
陽太の足が、止まった。
「一人で、行かせて」
その後は誰も、私を追ってこなかった。追ってこられないように言ったのは私なのに、廊下に出たら、胸が締め付けられるような寂しさを感じた。
考えてみれば、仕事中に一人で建物の外へ出るのは、いつ以来だろう。
思い出せなかった。
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