幕間 三好千秋の業務メモ その四
――あとで何があったのか、正確に思い出せるように、ここに記録を残しておこうと思う。
『十一月十一日(水) 二十三時十分』
「悪い、今から来られるか」
突然、社長から電話があった。いつもより一段と低い声に、スッと背筋が伸びる。すぐに行きますと返事をした。理由は分からない。でも、何かあったのだと、声で分かった。
事務所に着くと、社長と柏木さんと雨宮さんと久遠さんがいた。みんなそれぞれが、机の上のものを神妙な面持ちで見つめている。
そこにあったのは一枚の写真。記者が社長の携帯に送ってきたものを印刷したのだという。
――真っ暗な中、アパートの外廊下で園原さんの肩に額を乗せる久遠さん。
久遠さんはその写真を、黙ってじっと見ていた。五分くらいだと思う。ずっと何かを考えこむように、足を組んだまま動かなかった。そして、突然スッと立ち上がって、誰にも何も言わずに部屋を出て行った。
柏木さんがそれを追いかけようとしたが、雨宮さんが腕をつかんで止めた。
「今は、行かせてあげよう」
それから、雨宮さんはずっと電話をしていた。
契約のある出版社。レーベルの氷見さん。テレビ局。ラジオ局。相手が変わるたびに声が丁寧になっていく。最後のほうは、自分でも聞いたことのない敬語が出てきた。
柏木さんは、写真の前から動かなかった。
「金曜なんだよな、これ」
独り言だった。
「俺がラジオでさ。『今週も最後まで聴いてくれてありがとう』とか言ってた時間」
笑おうとしていたが、うまく笑えていなかった。
「記者に腹立ってんじゃねえんだよ。いや、立ってるけど。それより――」
「……私情でバンド活動に影響を出さない。言い出したのは、あなたでしたね」
いつの間にか電話を終えて戻ってきた澄人さんが、柏木さんに釘を刺した。
「……そう。俺」
柏木さんは顔を両手でこすった。
「今いちばん破りそうなのも、俺だわ」
公式コメントの文面を、雨宮さんが書いた。
『交際の事実や、メンバー同士の恋愛はございません。』
柏木さんが、それを読んで言った。
「これ、奏多に判子つかせんの、酷だろ……」
「他に、何と書けばいいんですか」
雨宮さんは静かだった。静かすぎた。
「事実でしょう。交際も、恋愛も、していない。誰も」
「……そうだけど」
「否定しなければ、叩かれるのは彼女です。チケットは止まり、コンペは飛び、社長は――」
そこで雨宮さんの言葉が切れた。
「……俺だって」
雨宮さんらしからぬ、腹の底からついた声だった。
「俺だって、書きたくて書いてるわけじゃない」
柏木さんが顔を上げた。自分も手帳から目を上げてしまった。
雨宮さんは一度目を閉じて、開けたときには、いつもの顔に戻っていた。
「失礼。少し疲れているようです」
「いや」
柏木さんが、小さく笑った。今度は、ちゃんと笑えていた。
「澄人さんもそうなんだなって。……ちょっと安心した」
それから、雨宮さんと柏木さんは一旦、家に帰ってもらった。ここからしばらく、忙しくなるかもしれない。少しでも仮眠を取ってほしかった。
社長と二人きりになり、重たい沈黙が空間を染める。社長は窓を開けて、煙草を吸った。禁煙していると聞いていたが、耐えられなかったようだ。
「……三好。お前、うちの事務所の、昔の話は聞いてるか」
「……いえ」
「親父の代にな。所属タレントやアーティストが、十四組いたんだ」
初めて聞く話だった。
「だが、十三年前にたった一年で、全部いなくなった。引き抜かれた、ってのとはちょっと違う。週刊誌に妙な記事が出る。現場で変な噂が立つ。本人が居づらくなって、自分から辞めたいと言い出す。そこに、たまたま、本人のもとへいい条件の話が来る」
煙が、朝になりかけの空に流れていった。
「どこからとは言わねえ。証拠がねえからな……。ただ、記事の最後の段は、あんときと一字も変わってねえ。『環境さえ変われば』」
「……園原さんを、辞めさせるために?」
「……あいつは自分のことじゃ、折れねえよ。自分のことより、仲間のことを優先するやつだ。――だから向こうは、あいつのせいで三人が沈む、って風にもっていきたいんだろうな。優しいやつには、そっちのほうが効くんだ」
社長は煙草を、空き缶に押しつけた。
「親父はそれで倒れた。俺は、この事務所をたたむつもりだったよ。あの四人を見るまでは――」
それ以上のことは、社長は話さなかった。
その後、雨宮さんの指示で、久遠さんに食べ物を届けに行った。玄関の前に置いて帰ればいい、と言われていた。
食べ物を置いたとき、扉の向こうからピアノが聞こえてきた。
同じ八小節を、繰り返している。弾いては止まり、少し変えて、また弾く。そのあいだに、机を指で叩くような音が混じる。
ふと、音が止まり、扉が開いた。
「三好さん」
細いドアの隙間から、久遠さんの声が聞こえてくる。
「は、はい」
「いとは、読んだ?」
「はい。ご自分で、最後まで」
沈黙。
「……怒ってた?」
「怒っていらっしゃいました。記事に、です」
「僕には」
怯え交じりの声だった。怒られることよりも、もっと違う何かを恐れているような、そんな気がした。
「久遠さんのことを、心配していらっしゃいました。メッセージに既読が付いたのに返事がない、と」
「……そっか、ありがとう」
それだけ言うと、久遠さんはそのまま扉を閉めた。
階段を下りるとき、またピアノが鳴りはじめた。さっきより、少しだけ先まで進んでいた。
コメント公開後――
反応は、予想どおりに荒れた。安心する声もあれば、疑念の声もあったし、最初から記事などどうでもよく、ただ園原さんの名前を挙げる口実にしている人もいた。
その中でひとつだけ、流れの違う投稿があった。
『獅子座観測所』の投稿である。
十四連投で、とても丁寧に書かれた投稿。
『写真を拡大して、手の位置を分析していた。これは抱擁ではない。彼女の指は襟の芯に沿っている。インディーズ時代、高円寺の楽屋口で、自分は同じ光景を何度も見た。あれは彼が舞台に出る前の習慣である。記事は事実を曲げている』
ここまでなら、よかった。園原さんをかばう内容だったから。しかし、問題はそのあとの投稿である。
『あの三人が彼女をどれだけ大事にしているかは、十年間も見ていればわかる。三人の関係は、彼女を大事に思う気持ちがあって初めて成り立っている。ドラムも、衣装も、見せ方も、彼女がいなければこのバンドの形にはならなかった』
『三人に夢を見て、彼女に嫉妬するほうがおかしい。彼らが一番大切にしているものを憎んで、それでファンを名乗るのか』
『交際の事実はないのだろう。そんな言葉に収まる関係ではないからだ』
一字一句、間違ったことは言っていない。でも、コルレオの本質が、そのまま書いてあった。だから、まずかった。
公式が正午に「ございません」と言ったものを、古参が夕方に「ある」と言い直したのと同じである。しかも、嫉妬している人たちに向かって、おかしいのはそちらだと言い切った。
返信欄は、公式コメントの欄より燃えた。
古参ぶるな。結局できてるってことだろ。三人に愛されてる女、最高だな。
三人に大事にされている人、という絵が、否定ではなく肯定の形で広まっていく。記事が書きたかったことを、一番の味方が、愛情で仕上げてしまった。
この人は敵ではない。たぶん、誰よりも長くあの四人を見守ってきた人だ。
通報のしようもなかった。規約に触れる言葉は、ひとつも使っていないのだ。
事務所に届く郵便も多かった。封を切らなくても中身のわかるものが、大半だった。園原さん宛てのものは、決まりどおり全て雨宮さんの箱に入れる。
――ふと、手が止まった。
水色の封筒。丸い、几帳面な字。差出人の住所は県外で、名前の横に学校名と学年が書いてあった。高校二年生。
安全確認のために封を開く。
中には便箋が三枚。
吹奏楽部で打楽器をやっていること。女子は一人で、やめようと思っていたこと。先週の生放送で、一番後ろで叩いている人を見たこと。カメラが寄った四小節を、録画で何十回も見たこと。
『園原さんは、一番後ろにいるのに、一番光って見えました』
自分は便箋を、そっと封筒に戻した。
決まりでは、これも雨宮さんの箱に入れることになっている。雨宮さんはきっと、内容を確かめて、時期を見て渡すだろう。あの人は悪い人ではない。
でも、時期を見ているあいだに、園原さんは何を読むことになるのか。
先ほど見た返信欄を思い出して、早く園原さんにこの手紙を渡したくなった。水色の封筒を、雨宮さんの箱ではなく、自分の手帳に挟みこむ。
着任して一か月と四日。
初めて、決まりを破った。
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