第18話 回りはじめた歯車
『おはよう。迎えに行くまで、絶対に家から出ないで』
十一月十二日、木曜日。
朝の澄人さんからの通知は、いつもと少し違った。
「上に一枚持っておいで」とか「朝ごはんは食べた?」とか、そういうふわっとしたものではない。
理由は分からないが、きっと何か訳があるのだろうと察し、私は迎えを待つことにした。
四十分後、呼び鈴が鳴る。扉の前に三好さんが立っていて、その後ろに澄人さんがいた。
アパートの前には、社長のワゴンではなく、窓の黒いタクシーが停まっている。
「おはよう、糸音ちゃん。帽子をかぶって。それから、これを」
差し出されたのは、澄人さんの大きなマフラーだった。顔が半分隠れる。
「……何があったんですか?」
「事務所で話すよ」
澄人さんの声はいつものやわらかいものだったけれど、視界に入った彼の手の甲に筋が浮いていたのが印象的だった。
事務所の会議室には、社長と陽太がいた。
「昨日の十一時に、向こうの記者から電話が一本あった。明日出します、ってな。こっちの言い分を聞く気は、最初からねえんだよ」
社長の声は、がらがらに枯れていた。寝ていないのだ。
長机の真ん中に週刊誌が一冊、開いて置いてある。
見開きの写真だった。
夜のアパートの外廊下。蛍光灯の下に、二人立っている。パーカーの男が、女の肩に額を乗せている。女の手は、男の襟にかかっている。
私とかなだった。あの時だと一瞬で分かった。
――通りの向こうに合ったライトを消した車。あれだったのか。
『コルレオ久遠奏多 紅一点ドラマーと深夜の「襟直し愛」』
白抜きの太い字で、そう書かれていた。
「読んでいい?」
「糸音……」
陽太が遮るように私の名を呼ぶ。でも私は、あえてそれを無視した。
「これは読む。私のことが書いてあるんでしょ?……ネットは見ないって約束したけど、紙は約束してない」
記事は、思ったより長かった。
幼稚園からの幼なじみ。バンド唯一の女性。衣装を一手に引き受ける「実質的な演出家」。十月の深夜にも、二人きりで住宅街を歩く姿が目撃されている。
そんなことが書かれている。
スタジオの帰り、かなが送ってくれたあの夜。まさか、それを見ている人がいるなんて思わなかった。
『二年前の突然の活動休止についても、関係者の間では「二人の関係が原因ではないか」とささやかれている。再始動後の路線変更については、彼女自身が音楽誌の取材に「衣装は私の趣味です。三人にはわがままを聞いてもらいました」と語っていた。古くからのファンの心は離れつつある。事実、十二月のアリーナ公演のチケットは、いまだ完売していない』
そして、最後の段。
『ある大手事務所の関係者は語る。「あのバンドは、紅一点の扱いに苦慮しているように見えますね。才能のある方なので、環境さえ変われば、双方にとって良い形があると思うのですが」』
読み終えて、私は思わず関心の息をもらした。
「……随分とうまく切り取ったね」
音楽誌には、私のあの一言のすぐ後に、かなの「わがままなんかじゃないです、僕は今の衣装が一番好きなので」という台詞も書いてあったはずだ。
写真もそうだ。額が肩に乗っていたのも一瞬だったはず。
一番それらしく見える一秒だけを抜いて、太い字を載せる。
身体が熱い。怒っているのだ、と気づくまでに少しかかった。普段あまり使わない感情なので、感覚を忘れていた。
私のことはいい。派手好きでも、演出家気取りでも、好きに書けばいい。
でも、かなを巻き込んだことは許せない。そして、応援してくれているファンの人たちを混乱させ、不安にさせるような行為をしたのがさらに許せなかった。
「糸音」
陽太の声で、キツく自分の手を握りしめていたことに気づく。指を一本ずつ開いて、雑誌を机に戻した。
「……大手事務所の関係者、ね」
社長が、低い声で唸る。机を叩く指の音の、リズムが変わった。
「変わんねえな。やり口が、十三年前とおんなじだ」
「十三年前?」
「……昔の話だ」
社長はそれきり黙って、缶コーヒーを握りつぶした。まだ中身が入っていた。
「……そういえば、かなは?」
当事者であるかなは、なぜか会議室に居なかった。
「連絡がつかないんです……」
三好さんが、手帳を握りしめて答えた。
「ご自宅にはいらっしゃるみたいです。柏木さんが今朝、部屋の前まで行って確認してくださいました」
「インターホンに出ないから、開けろって叫んだら、『今は無理』って連絡がきた。それだけ」
陽太の話を聞き、私はスマホを出した。
『かな、大丈夫?』
既読はすぐについた。だが、返事が来ない。
「……既読は、ついたんだけど」
自分の声が、思ったより小さかった。
かなに連絡して返事がなかったことはない。
曲を書いている最中でも、寝起きでも、「ん」の一文字であっても返ってくる。
「いつもは俺が部屋の前まで送ってんのに……」
「陽太のせいじゃないでしょ」
「分かってる」
陽太は写真の中の、私の肩に乗ったかなの額を見て、不器用な笑を浮かべていた。口の端が上がりきっていない。
「公式のコメントを出します」
澄人さんが紙を一枚、机に置いた。
「明日の正午に。文面はこれで考えています」
短い文章だった。
『一部週刊誌の報道について。久遠奏多と園原糸音は、幼少期からの友人であり、バンドのメンバーです。報道にあるような交際の事実や、メンバー同士の恋愛はございません。また、活動休止の理由および音楽性の変化について、事実と異なる記述がございます。メンバーへの誹謗中傷に対しては、厳正に対処いたします』
――交際の事実はございません。
「糸音ちゃんは、これでいい?」
澄人さんが、私に訊いた。
「……はい。合ってます」
「ありがとう。あとは、奏多の了承だけだ」
かなが事務所に来たのは、日が落ちてからだった。
扉が開いて見せた姿に、誰も声が出なかった。
ひどい顔だった。目の下が真っ黒で、髪は寝癖のまま、襟も乱れている。外向きの顔のかけらもない。
かなは誰とも目を合わせずに、長机の端に座った。私のほうは、一度も見なかった。
澄人さんが、文面の紙を前に置く。かなはそれを読んだ。
やけに沈黙が長かった。五行しかない文章を、五分かけて読んでいた。目が同じところを何度も行き来している。
「……これで」
やがて、かなはかすれた声で了承した。
「これで、いいです」
「奏多」
陽太が何か言いたげな視線を送った。
「……いいのか」
「事実だから」
かなは紙から目を上げなかった。
「事実はございませんで、合ってる」
変な言い方だった。
澄人さんが黙ってペンを差し出した。かなは受け取って、自分の名前を書いた。小さい、右上がりの字だった。書き終えたペン先が、紙の上でしばらく止まっていた。
「ひとつだけ」
かなが言った。
「休止の理由。『事実と異なる』って書いてあるけど……半分は、合ってる」
会議室の空気が、止まった。
「奏多」
澄人さんの声が、一段低くなった。
「それは、今ここで言うことではないよ」
かなは口を閉じた。
私は二年前の会議室を思い出していた。
同じ部屋の、同じ長机だった。アリーナの一か月前。かなは今日と同じ席に座って、同じように誰の顔も見ずに言ったのだ。
――少しだけ、休ませてください。書けないんです、と。
理由は言わなかった。訊いても、首を振るだけだった。あの日もかなは、私のほうを一度も見なかった。
――半分は合ってる。
……どういう意味だ。私たちの間に、原因になるような「関係」なんて、何もないのに。
「かな」
帰り際、廊下で呼び止めた。
かなは立ち止まった。背中を向けたままだった。
「返事、待ってたんだけど……」
「ごめん」
「怒ってるんじゃなくて。心配したの」
かなの肩が、少し動いた。
「なんて返せばいいか、わからなかった」
「大丈夫、とか、大丈夫じゃない、とか」
「どっちも、嘘になる」
振り返らなかった。
「いとに、嘘はつけない……」
それだけ言って、かなは階段を下りていった。
私は無意識に止めようと伸ばした手を、途中で下ろした。
翌日の正午、コメントは予定どおりに出た。
どうファンにそれが受け取られたのかは、知らない。約束なので、SNSは見ていない。三好さんの顔色と、鳴りやまない事務所の電話と、陽太がラジオの台本を三回書き直していたことから、何となくの見当はついた。
夜、部屋に帰ってスマホを見た。
澄人さんから『おやすみ。今日はよく眠って』。いつもの、ふわっとした文面に戻っていた。
陽太からは、声のメッセージが一件。再生すると、「えー、柏木です。特に用はないです。以上」と言って、三秒黙って、「……ちゃんと飯食えよ」で切れた。
かなからは、何もなかった。
その日の夜、布団に入っても眠れなかった。
祖母のミシンの上に、アリーナの衣装の型紙が積んである。群青の布は、まだ裁っていない。
午前二時を過ぎて、スマホが一度だけ震えた。
かなだった。文字はない。音のファイルが、ひとつだけ届いていた。
『20261106』
十一月六日。あの写真の夜だ。
再生した。
ピアノが鳴った。八小節だけ。その上で、かなが言葉のない声で歌っている。途中で一回、息を吸う音が震えた。
後ろで、とん、とん、と何かを叩く音がしていた。二本の指で、机を叩く音だ。
私の癖と、同じ速さの。
八小節は、三十秒で終わった。
もう一回聴いた。そして、もう一回。
この人は昔から、大事なことほど口で言えない。残りの半分は、いつも曲になってから届く。
ただ、この八小節が何と言っているのかは、何度聞いても分からなかった。
分からないけど、何だかギュッと切ない感じが、かなの言葉にならない声から伝わってきて、涙が溢れた。
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