第17話 ミシンの音
生放送から二日経った、十一月八日の日曜日。
この日は事務所は休みであったが、私は一人で作業部屋にこもって、アリーナの衣装の型紙を引いていた。
休みの日の事務所は静かで、一階のクリーニング屋の機械の音が、床からかすかに伝わってくる。
適当な端切れを一枚手に取ると、試しにミシンにかけた。
だだだだ、と針が走る。止める。向きを変えて、また走らせる。
三本目を縫い終えたところで、背中に視線を感じた。
振り向いたら、扉のところに、かなが立っていた。
「うわっ」
「……」
「……いつからいたの?」
「さっき」
「ノックしてよ」
「……した」
絶対していないな、これは。
この人のノックは、扉に指先が触れるだけなので、音がしないのだ。ノックの意味を理解していない。
というか、今日のかなは寝癖がひどかった。右の後ろが、鳥の巣みたいに立っている。上は、首の伸びた灰色のトレーナー。外向きの顔のかけらもない。オフの日のかなは、大体こうである。
そんな本人は、手にコンビニの袋を提げていた。
「何しに来たの?今日、休みだよ」
「ミシン……」
「ミシン?」
「音、聴きに来た」
意味がわからない。
わからないが、この人の言うことの半分はいつもわからないので、気にしないことにした。
「邪魔しないなら、いていいよ」
「しない」
かなは部屋に入ってきて、少し迷ってから、裁ち台の下にもぐりこんだ。
椅子はあるのだが、なぜかかなは床に座った。それも台の下。布の箱と箱の間の、人ひとりがやっと入れる隙間に、膝を抱えて収まった。
「……そこ、埃っぽいよ?」
「ここがいい」
「猫か」
「にゃあ」
真顔で言った。
不意打ちだったので、三秒ほど固まってしまった。
世間の人は、久遠奏多が真顔で「にゃあ」と言うところを知らない。……知らないほうがいいと思う。
コンビニの袋から、炭酸の缶が二本出てきた。一本が台の下から、にゅっと差し出される。
「いとのぶん」
「ありがとう。……かなのごはんは?」
「これ」
「それは飲み物」
「知ってる」
知っているなら飯を食べろ。
内心ツッコミながらも、私は鞄から、朝握ったおにぎりを一個出して、台の下に転がした。採寸の日から、毎日一個多く握っている。
かなはそれを両手で受け取って、もそもそ食べはじめた。
「……梅」
「文句言わない約束」
「言ってない。梅だって言っただけ」
「種、取ってあるから」
「……知ってる」
少しだけ、声がやわらかくなった。
私はミシンに手を戻すと、再び布を縫い始める。
――だだだだ。止める。だだだだだだ。止める。
型紙を当てて、印を付けて、また縫う。集中すると、まわりの音が聞こえなくなる。かながそこにいることも、半分忘れていた。
三十分くらい、たっただろうか。
台の下から、小さな音がした。
とん、とん、とん。
下を見ると、かなが床を指で叩いている。
私の癖と同じ叩き方だ。ただ、速さが違う。私が考えているときの速さではない。ミシンの速さだった。
私が針を走らせると、とん、とん、とん、とん、と四つ。ミシンを止めると、かなの指も止まる。また走らせると、今度は少し跳ねたリズムで入ってくる。
そして、鼻歌が乗った。
低くて、言葉のない声。
ミシンの音の上に、するすると旋律が伸びていく。行って、戻って、少し高いところへ上がって、ほどける。
手が止まった。
「……今の、何」
「わかんない。今、出た」
台の下をのぞきこんだ。
かなは膝を抱えたまま、目を閉じていた。まつげが長い。
「いとのミシン、三拍子と四拍子が混ざってる。布を回すとき、一拍、間があく」
「そんなの、数えたことがなかった……」
「うん。だから、いい」
かなの目が開いた。
暗い台の下で、目だけが光っている。曲が出てくるときの顔だ。二十年以上見ているのに、これを見るたびに、ちょっと息が止まる。
この人は、こうやって作るのだ。
世間の人は、久遠奏多を天才だと言うが、本当にそのとおりだと思う。
みんなが聞き流している音を、聞き流さず、何もないところから音を生み出す。
クリーニング屋の機械の音。椅子のきしみ。私のミシンの、布を回すときの一拍。
「書くもの、ある?」
かながそう聞いてきた。
「型紙の余りなら」
「それでいい」
私はそこら辺に放置していた紙と鉛筆を手に取ると、かなに渡した。
かなは床に腹ばいになって、五本の線を、定規もなしにまっすぐ引く。そして、手書きの五線譜に黒い点を置いていった。
速い。迷いがない。
さっきまで寝癖で梅おにぎりを食べていた人間と、同じ生き物とは思えなかった。
私は、再びミシンを踏んだ。
音を聴きに来た、と言ったのだ。なら、鳴らしてやるのが一番いい。
だだだだ。とん、とん。だだだだだだ。
窓の外で、日が傾いていった。
かなの手元の紙が四枚になった頃。
「いと」
「何」
「前髪、切って」
――唐突だった。
顔を上げると、かなが台の下から這い出して、床に座っていた。前髪が目にかかって、鉛筆を持つ手で何度も払っている。
「見えない」
「え、今?」
「今」
「アリーナの前に、ちゃんと切るつもりだったんだけど……」
「今、邪魔」
……仕方がない。
私は道具箱から、髪用のはさみと、櫛を出した。うちは私がヘアメイクも兼ねている。三人の髪は、デビューの前からずっと私が切ってきた。独学だが、それなりに経験を重ねたので、腕は悪くないと思う。
「椅子に座って」
「床がいい」
「床だと私の腰が死ぬ」
「……椅子」
かなはしぶしぶ椅子に座った。
姿見には、布が掛けたままだ。かなは、それをちらりと確かめて、肩を下ろした。
首にタオルを巻いて、正面に立つ。
櫛で前髪を下ろした。
「目、閉じて」
「うん」
かなは言われるがままに目を閉じた。
――近い。
前髪を切るには、どうしても顔のすぐ前に立つことになる。指で毛束をはさんで、長さを決めて、刃を入れる。その度に、かなのまつげが小さく震えた。
左目の下の泣きぼくろ。
小さい頃は、これが嫌いだと言っていた。泣き虫の印みたいだから、と。
「かな、じっとして」
「してる」
「息も、ちょっと止めて。髪が動く」
「……むり」
「なんで」
「いとの手、いい匂いがする」
手が止まった。
「……布の糊だよ。さっきまで触ってたから」
「うん。それ」
「糊のにおいが好きなの?」
「好き」
目を閉じたまま、言った。
「幼稚園のときから、ずっとする。いとのおばあちゃんちの、ミシンの部屋のにおい。あそこに行くと、怖いのがなくなった」
――覚えている。
祖母の家の、北向きの四畳半。足踏みのミシンがあって、壁中に布が積んであった。かなは、うちに遊びに来ると、必ずあの部屋のミシンの下にもぐりこんだ。
そうか。だから、台の下なのか。
二十七になった今でも――。
何か言おうとしたのだが、喉のあたりがつかえて、出てこなかった。かわりに、はさみを動かした。
しゃき。しゃき。
切った毛が、タオルの上に落ちていく。
「いと」
「喋ると口に入るよ」
「……僕の顔、変じゃない?」
小さい声だった。
「昨日、ネットで見た。生放送のみんなの感想。……ボーカルの顔が地味って書いてあった」
「……ネット見たんだ」
「うん」
私は手に持っていた鋏を下ろした。
「かな。目、開けて」
かなの瞼が持ち上がり、青みがかった黒い瞳と目が合う。
「地味じゃないよ」
「……」
「というか、私が地味にさせない。何年、かなの顔を見てきたと思ってるの?どこをどうしたら一番いいか、全部知ってる。前髪はここ。襟はこの高さ。ライトは左から。そうやって、毎回、最高の魅力を引き出すようにしてる」
櫛で切ったばかりの前髪を整えた。
「私の仕事を、信じてないの」
「信じてる」
即答だった。
「いとのことは、全部信じてる」
全部、と言われると、それはそれで歯痒い。
「じゃあ、顔のことも信じて。変じゃない。私が保証する」
かなは、しばらく私を見ていた。それから、ふっと笑った。
目尻が下がって、泣きぼくろが上がる。
「……いとが言うなら、信じる」
この顔を、カメラの前でも出せたら。
そう思ったことは何度もある。これが出せたら、かなが地味だなんて誰も言わない。
「はい、おしまい。前、見えるようになったでしょ?」
「うん。よく見える」
「タオル外すから、動かないで」
私はかなの首の後ろに手を回した。結び目に指をかける。
「いと」
「何?」
「まつげに、糸」
「え?」
「糸がついてる。白いの」
かなの手が伸びてきた。指先が私の目のすぐ下に触れる。
やわらかい指がまつげの先をそっとなぞり、離れた。
「……取れた」
かなの言葉にハッと我に返った私は、かなの指先に視線をやった。短くて白い糸くずが、かなの指先に乗っている。
「……ありがとう」
「うん」
二人とも、動かなかった。
かなの首の後ろに手を回したまま、かなの手が私の顔のすぐ横にある状態で、金縛りにあったみたいに動けなかった。
「……暑いね、この部屋」
「うん」
「窓開けようか」
「うん」
かなの耳が赤い。
でも、私の顔も多分、同じ色をしているので指摘できなかった。
タオルの結び目をほどき、切った毛を払って、櫛をしまって、はさみを拭く。手を動かしていると、徐々に気持ちも落ち着いてくる。
振り向いたときには、かなはまた台の下にもぐっていた。
「まだいるの?」
「うん。続き、書く」
「……晩ごはんは?」
「いらない」
「いらなくない。成人男性の一日に必要なエネルギー、絶対摂れてないでしょ?あとで何か買ってくる」
「……梅がいい」
「さっき梅だって、言ったくせに」
「梅が、いい」
わがままである。
私はミシンに戻り、再び作業に戻った。
ダダダダ。トン、トン、トン。
日が落ち部屋が暗くなる。蛍光灯を点け、部屋を明るくした。
ようやく型紙一枚分ができあがって、顔を上げたら、台の下が静かになっていた。
気になって覗き込むと、かなは五線を引いた紙の上に頬をつけて、眠っていた。
鉛筆を握ったままだ。切ったばかりの前髪が、額にかかっている。その寝顔は、十歳のころから変わっていなかった。
毛布を掛けようとして、かなの左手が何かをつかんでいることに気づく。私のエプロンの、ひもの端だった。
床まで垂れていたのを、いつのまにか握っていたらしい。
そういえば、小学二年生の夏の頃、私が引っ越すかもしれないと聞いて、かながランドセルのひもを三日離さなかったことがあった。
ひっぱれば取れる力の弱さだけど、当時も今も、なぜかそれを引っ張ることはできない。
動ける範囲も限られているので、暇になった私は裁ちばさみの手入れをすることにした。
――静かだった。
かなの寝息だけが、ときどき聞こえてくる。
かなの手元にある四枚の紙には、黒い点がびっしりと並んでいた。私は譜面が得意ではないので、どんなメロディーが書かれているのかは分からない。ただ、一枚目の隅に日付が書いてあった。
『20261108』
今日だ。
この人は、作った曲に名前を付けない。代わりに日付を付ける。名前を考えるのが面倒なのだろう。リリース直前に名前が決まることが大体だ。
ミシンの音を聴いて、前髪を切って、梅のおにぎりを食べただけの、何でもない一日が、曲のタイトルになっていると特別なものに感じられた。
かなの手は、未だにひもから離れない。結局、かなが起きるまで私はそのままにしてしまうのだった。
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