第16話 不穏な影
十一月六日、金曜日。今日は生放送の音楽番組に出演する。
収録と生放送は、同じテレビでもまるで違う。収録は間違えたら撮り直せるが、生放送は間違えたら取り返しがつかない。
カメラの上の赤いランプが点いたら、もう誰にも止められないのだ。
楽屋での準備は、いつもと同じ。陽太の裾、澄人さんの袖、かなの襟。
「よし、できた。行ってらっしゃい」
「……うん」
かなの背筋が伸び、顔が切り替わる。何度見ても、見事なものだと思う。
自分のメイクを直しに、共用のメイク室へ行った。
うちは私がヘアメイクを兼ねているので、自分の顔はいつも最後に行う。ささっと五分くらいで済ませる簡単なものだ。
共用スペースには、ヘアスプレーと焦げたコテの匂いが漂っていた。どうやら先客がいるらしい。
目に入ってきたのは、人形みたいな人だった。銀に近い灰色の髪を、一本の乱れもなく結い上げている。
黒いレースの衣装は、たぶん私の年収くらいするだろう。後ろにスタッフが三人立っていて、一人が髪を、一人が襟元を、一人がタブレットで何かを確かめていた。
榊冬華さん。VESPERのベーシストだ。
軽く挨拶をして、端の席に座った。向こうは大手の看板。こっちは鏡の隅を借りるまでである。
筆を出して、目の下にラインを叩く。
「それ」
声をかけられて、手が止まった。
スタッフの三人が、いつの間にかいなくなっていた。鏡越しに、冬華さんがこっちを見ている。
「その服。自分で選んだの?」
「あ、はい。というか、作りました」
今日の私は、緋色の差し色が入った黒のシャツに、動きやすい細身のパンツだ。袖は叩くときに邪魔にならないよう、肘の上で留められるようにしてある。
「作った……」
冬華さんは、その言葉を口の中で転がすみたいに繰り返した。
「いいな」
「え」
「私、今日着るものを、今朝知ったの。髪の色は去年、会議で決まった。来年の色も、もう決まってるらしいわ」
天気の話でもするみたいな、淡々とした言い方だった。
「あなた、叩かれてるんでしょう」
筆を落としそうになった。
「……みたいですね。見てないので、詳しくは知りませんが」
「え、見てないの?」
「見たら叩けなくなるので」
冬華さんは、初めて少しだけ表情を動かした。笑ったのだと思う。
「賢いわね。私は見てるわよ。全部」
「全部」
「でも、私のことは誰も叩かないの。叩かれるようなことを、何もさせてもらえないから。……自分で選んだ服で、自分で決めた音を出して叩かれるのと、何も選ばずに誰にも叩かれないのと――」
灰色の目が、鏡の中で私を見た。
「どっちがましなのかしらね」
答えられなかった。
男ばかりのバンドに、女が一人。それくらいしか共通点のない相手である。なのに、その一言はずいぶん深いところまで入ってきた。鏡の中に並んだ二つの顔が、妙に似て見えた。
「ひとつだけ」
冬華さんは立ち上がって、レースの裾を払った。
「朔が、あなたに会いたがってる。気をつけて」
「気をつけて、というのは……」
「悪い人じゃないの。ただ、欲しいと思ったものを諦めたことがない人だから」
扉のところで、スタッフが呼んでいる。冬華さんは人形の顔に戻って、振り返らずに出ていった。
その「朔」とは、意外にも早い形で会った。
スタジオへ向かう廊下の向こうから、黒い服の一団が歩いてくる。真ん中の人が、こちらに気づいて足を止めた。
背は陽太と同じくらい。切れ長の目に、薄い笑み。雑誌で見るより、ずっと静かな人だった。
――鳴海朔。
「鳴海さん! 今日はよろしくお願いします!」
最初に動いたのは、かなだった。
明るい声で、ぱっと笑って、一歩前に出る。その一歩で、私は自然にかなの背中の後ろになった。
「久遠さん。こちらこそ」
鳴海さんは丁寧に頭を下げた。
「ドラマの件、楽しみにしています。久遠さんがクリックなしで書いてきたと聞いて、うちは慌てて全部作り直しました」
「えー、誰から聞いたんですか。こわいなあ」
「耳がいいもので」
二人とも笑っている。笑っているのに、廊下の温度が二度くらい下がった気がした。
陽太が半歩、私の右に寄った。澄人さんは、いつのまにか左にいる。
三方を囲まれ、かなの背中で隠れた状態の私には、鳴海さんの額だけしか見えなかった。
でも突然、鳴海さんが身体をちょっとずらし、こちらをのぞいてくる。そして、目が合った。
「園原さん」
「……はい」
「襟、今日も綺麗ですね」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。襟。かなの襟のことだ。私がさっき直していたやつである。
「久遠さんの襟は、いつも左右がぴったり同じ角度で立っている。あれは既製品をそのまま着たのでは出ません。芯を入れ替えているでしょう。それと、三人の裾の長さが、立ち位置から見たカメラの高さで揃えてある」
全部、当たっていた。誰にも言ったことのない工夫である。メンバーにすら。
「園原さんの腕に、素晴らしいものを感じておりまして……いかがです?今度、ゆっくりお話でも」
「恐れ入ります」
澄人さんの声が、上からかぶさった。
「本番前ですので。失礼いたします」
「ええ。では、また」
鳴海さんはあっさり引いて、すれ違っていった。すれ違いざまに、もう一度だけ私を見た。職人が、よその職人の道具を見るときの目だった。
かなは自分の襟に手をやった。顔は笑ったままで、指先だけが白くなっている。
本番は、あっという間だった。
赤いランプが点く。
私が四つカウントし、曲がはじまった。
今回の曲は『Leonis』からの一曲で、打ち込みが多い。私の仕事は、機械の音に人間の重さを足すことだ。
二番のサビの前に、四小節だけドラムが前に出るところがある。
そこで、カメラがこっちに来ているのに気がついた。クレーンの先のレンズが、陽太の肩を越えて、澄人さんの鍵盤を越えて、まっすぐ私に向かって下りてくる。その上で、赤いランプが点いていた。
――映っている。
普段の収録のときは、ほとんど私は映らなかった。カメラ割りを決めるのは局の人で、私たちには口が出せない。そういうものだと思っていた。
誰かが頼んだのだ。たぶん、窓口の人が。
四小節を叩ききる。スティックが一番高く上がったところで、レンズに目を合わせた。
上手く笑えたかどうかは、わからない。
袖に戻ったとき、最初に目に入ったのは、三好さんの真っ白な顔だった。手の中のタブレットを、胸に伏せている。隠すのが下手な人だ。
そのすぐ横に、モニターがあった。放送中の画面がそのまま映っていて、下の端を、視聴者の投稿が右から左へ流れていく。生放送の番組ではよくある仕掛けである。
流れが、やけに速かった。読もうとした、その前に、モニターが見えなくなった。
「おつかれー!いやー、今日のキックやばかったな!俺ちょっと泣きそうになったもん!」
陽太の背中だった。
両手を広げて、わざとらしいくらい大きく伸びをしている。身長百七十八センチが、ちょうど画面を全部ふさいでいた。
「いと。スマホ、充電しとく」
右から、かなの手が出てきた。
「すみません、テロップの件で少々よろしいでしょうか」
左では澄人さんが、番組のスタッフさんを廊下のほうへ連れていった。
三人同時だった。打ち合わせた様子はない。目も合わせていない。それなのに、一人は画面をふさぎ、一人は電話を取り上げ、一人は元を止めに行った。呼吸の合い方が、演奏のときと同じである。
何年、これをやってきたんだろう。今までの私は、これを見て「なんで」としか思わなかった。蓋の開いたペットボトルと、同じ棚に入れていた。
今日は、見えた。こうやって、私は守られていたのだ。
陽太の脇の下から、モニターの端が五センチだけ覗いていた。そこを、一行だけ流れていった。
『#ドラム映すな』
読めたのは、それだけだった。
次の瞬間、流れていた文字がまとめて消えた。澄人さんが止めたのだろう。
「糸音?」
陽太が、笑ったまま私の顔をのぞき込んだ。目は笑っていなかった。見えたかどうかを、確かめる目だった。
「……キック、よかった?」
私は訊いた。
「え?」
「今日の。走ってなかった?」
「走ってねえよ。完璧だった」
「かなは」
「よかった」
即答だった。
「一番よかった」
「じゃあ、いい」
私はスマホを、かなの手のひらに置いた。
取り上げられるのではなく、自分で渡したのは、たぶん初めてだ。演奏のためにも、見ないと約束した。だから渡す。
でも、知らないままでいる、とは約束していない。
かなは手の中のスマホを見て、それから私を見た。何か言いたそうに口が開いて、閉じた。
帰りの車は、珍しく私とかなと社長の三人だった。
陽太は金曜の深夜のラジオで、テレビ局からそのまま別のスタジオへ行く。澄人さんは番組の人と話があると言って残った。
社長の運転するワゴンで、かなと私だけが後ろに座った。
かなは外向きの顔を使い果たして、窓にもたれて動かない。衣装のシャツの上に、群青のパーカーを一枚羽織っているだけだった。
アパートの前で降りると、かなも降りてきた。
「すぐそこだよ」
「うん。でも送る。部屋の前まで」
「いつも陽太がやるやつ、別に真似しなくても」
「……陽太がいないときは僕がやるって決めてる」
律儀なことだ。
外階段を二階まで上がって、鍵を開ける。振り返ったら、かなが廊下の蛍光灯の下に立っていた。十一月の夜気で、吐く息がうっすら白い。
パーカーの下で、シャツの襟が片方だけ倒れていた。
車で寝ていたせいだ。
手が勝手に動いた。さっとかなの襟元に手を伸ばすと、芯を指でなぞる。左右が同じ角度になったことを目で確かめた。
「……あの人、気づいてた」
かながぽつりとそう言った。
「鳴海さん?」
「僕は気づいてなかった。いとが襟芯を替えてたの」
「言ってないもん。わざわざ言う必要もないし……」
「十年以上、毎回やってもらってたのに」
底のほうが抜けたみたいな、低い声だった。
「あの人は、一回見ただけでわかった」
「まぁ、衣装に詳しい人なら、同じことをするから気づくのかも……。スタイリストでもない人が気づいたことには、ビックリしたけど。かなが知らないのは当たり前だし、気にしなくて大丈夫だよ」
「よくない」
かなは採寸のときと同じように、額を私の肩に落とした。
「……よくない」
夜の廊下で、私は襟に手を置いたまま、しばらく動けなかった。
何がそんなによくないのか、わからなかった。わからなかったけれど、肩が少し湿ってきたので、黙っていた。
通りの向こうに、車が一台停まっていた。ライトは消えていて、エンジンだけがかかっている。
こんな時間に、と思っただけで、そのときは気にも留めなかった。
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