第15話 収録
『おはよう。今日は冷えるから、上に一枚持っておいで』
十一月二日、月曜日。
その日の朝も、澄人さんからの一件の通知で始まった。
休止に入ってすぐの頃から、澄人さんは毎朝毎晩、欠かさず連絡をくれる。
最初は驚いたけど、バンドがばらばらにならないように気を配ってくれているのだと分かってからは、ありがたく返事をしていた。
コルレオには明確な役割分担がないので、リーダーもいない。最年長として、こういうときにまとめてくれる澄人さんの存在は、グループの安定に必要不可欠だった。
『おはようございます。持っていきます』
返信をして、上着を一枚かばんに入れる。
今日は、コンペの曲を初めて五人で合わせる日だった。
五人なのは、サポートでベースを弾いてくれている宇佐美さんも一緒だからである。三十六歳、スタジオミュージシャン歴十八年。うちの低音を六年支えてくれている、口数の少ない職人だ。
コルレオのメンバーではないのだが、低音が必要なときに演奏を依頼している。
「園原ちゃん、今回クリックなしなんだって?」
「はい。かなのデモが揺れてるので」
「いいね。そういうのが一番楽しい」
宇佐美さんはそれだけ言って、チューニングに戻った。
深夜料金の安いこの部屋は、いつ来ても、古いカーペットと乾いた木の匂いがする。ドラムの椅子に座って高さを合わせ、スネアを一発叩き、ペダルを踏む。この三つをやると、大体のことは頭から出ていく。いい気晴らしになっていた。
「じゃ、頭から」
かなの声で、スティックを上げた。
タン、タン、タン、タン
カウントを4つ入れる。
イントロは鍵盤とドラムだけだ。澄人さんの和音の上に、私のキックが心臓みたいに入る。そこにかなの声が乗って、Aメロの後半から陽太のギターと宇佐美さんのベースが合わさった。
Bメロに入ったところで、陽太のギターが苦しげになる。弾けてはいるが、ただ、音の置き場所が見つからない、という弾き方だった。加えて、澄人さんの左手が半拍前に倒れる。
――かなが、歌うのをやめた。
「止めて」
音が止まる。
「いと。速い」
「え」
「走ってる。Aメロの終わりから、ずっと」
言われて初めて、手が勝手に前へ前へ行っていたことに気がついた。
走る、というのはドラマーが一番言われたくない言葉だ。テンポが前のめりに速くなっていくことである。デビューしてからの九年、私はこれを一度も言われたことがなかった。それだけは絶対にやるまいと、人の倍、メトロノームと暮らしてきたのだ。
「……ごめん。もう一回いい?」
再び、四つ数える。
また、走った。今度は自分でわかった。Bメロの頭で、胸の中の何かがせり上がってきて、それに手が引っぱられる。
この曲には、クリックがない。
叩いている人間の、体の中にあるリズムが軸となる。だから、自分の身体が落ち着いていないと、そのまま音になって出ていってしまう。
この曲の仮題は『心拍』だ。
誰の心拍なのか聞いたとき、かなは答えなかったけれど。もしかして、私のか?
「五分くらい、休憩にしようか」
澄人さんの言葉で、みんなが休憩に入った。
私は廊下に出ると、近くの自販機まで歩いた。蛍光灯が一本切れかけていて、床はワックスの匂いがする。小銭を入れようとしたところで、角の向こうから声が聞こえた。
「……ええ、ですから来月の分は、十三日が終われば必ず。はい。はい、利息だけでも今月中に」
社長だった。電話を切って、長く息を吐いている。壁に手をついた背中がいつもより小さく見えて、足が止まった。聞いてはいけないものを聞いた、と思った。
事務所にお金がないのは知っている。休止中の二年で、私たちはほとんど稼がなかった。事務所に所属するのは私たちだけなので、相当赤字だったはずだ。
それでも社長は誰の給料も止めなかったらしい。どうやって、とは誰も訊かなかった。
……十三日。アリーナの日だ。
社長はしばらくそのままでいて、それから顔を両手でこすって、鞄から封筒を出した。茶色い、見覚えのある封筒である。
「奏多」
いつの間にか、かなが廊下に出てきていた。
社長はかなに封筒を差し出す。かなは受け取って、中の紙を一枚出して、三秒ほど眺めて、封筒に戻した。
そして、そのまま社長に返した。
「今期も、同じで」
「……お前なあ」
「同じで、お願いします」
「いいのか、本当に……」
「はい」
社長は何か言いかけて、やめて、封筒を鞄に戻した。かなの頭に一回、乱暴に手を置いた。
私は自販機の陰で、お茶のボタンを押しそこねたまま立っていた。
何が「同じ」なのかは、わからない。
収録の日にも、同じ封筒を見た。あのときは、作っている人にだけ渡す明細なのだろうと思って、気にも留めなかった。
胸の中のモヤモヤが、また増えていく。
スタジオに戻ると、宇佐美さんがベースを膝に乗せたまま、こっちを見た。
「園原ちゃん」
「すみません、走ってばかりで」
「いや。珍しいもん聴いたなと思って」
低い、のんびりとした声だった。
「六年やってて、園原ちゃんが走ったの、初めて聴いた。逆に言うとね、六年間クリックなしでも一回も走らないドラマーって、俺は他に知らないよ」
「それは、練習してるだけで」
「練習で埋まる差じゃないんだけどなぁ」
宇佐美さんは優しいので、こういうことを言ってくれる。
「走るときってのは大体、言いたいことがあるときだよ。口で言えないと、手が先に言っちまう」
それだけ言って、弦をひとつ弾いた。
言いたいこと、と言われて、三人のほうを見た。陽太はギターを抱えて、笑わずに床を見ている。澄人さんは鍵盤の上に手を置いたまま、動かない。かなは、マイクの前でこっちを見ていた。袖をつかむときの目だった。
走ったのは私なのに、三人のほうが、怒られるのを待っている顔をしていた。
ああ、と思った。この人たちは、私がなぜ走ったのか、わかっているのだ。
「……もう一回、お願いします」
椅子に座り直して、今度は目を閉じた。
言いたいことなら、山ほどある。なんで隠すの。なんで私だけ知らないの。私はそんなに弱く見えるの。
でも、それをこの曲に乗せるのは違う。これはかなが私たちの契約と、社長の未来を背負って作った曲だ。私の機嫌を乗せていい曲ではない。
息を吐いて、四つ数えて、キックを踏んだ。
今度は、手が前に行かなかった。胸の中のものは、まだそこにある。ただ、せり上がってくるたびに、ペダルの下に踏んだ。一拍ずつ、床に沈めるみたいに。
澄人さんの和音が、ぴたりと重なった。
陽太のギターが入ってくる。さっきの苦しそうな音ではなかった。私のスネアのすぐ後ろに、指三本分の難しいフレーズが、嘘みたいにきれいに座る。
宇佐美さんのベースが、床を広げてくれる。
そして、かなの声がその上に立った。
叩いている間は、不思議なくらい全部わかる。
陽太が今、少しほっとしたこと。澄人さんが、息を止めずに弾いていること。かなの声が、二番からほんの少し甘くなったこと。
音は嘘をつかない。
口では何も教えてくれない人たちが、音の中では何も隠せない。だから私は、ここが好きなのだ。一番後ろの、全員の背中が見えるこの椅子が。
最後の音が消えても、しばらく誰も喋らなかった。
「……今の、録ってた?」
陽太が、かすれた声で言った。
「録ってました」
壁際で三好さんが、手帳を胸に押しつけて立っていた。目が赤い。なぜマネージャーが泣くのか。
宇佐美さんが、ベースを下ろしながら笑った。
「言いたいこと、踏んだな」
「……踏みました」
「いいドラマーだよ、やっぱり」
片づけのとき、宇佐美さんは思い出したように付け足した。
「金曜の生放送、VESPERも出るんだって? あそこの大河内、園原ちゃんのキックの話ばっかりしてるぞ。同業者にはちゃんと聴こえてんだよ。覚えときな」
VESPER。
また、あの名前だ。
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