第14話 雨の日のクリームソーダ
採寸の日から五日が経った十一月一日、日曜日。その日は朝から雨だった。
『おはよう。今日の打ち合わせ、事務所ではなく外でもいいかな。暖房の調子が悪いらしい』
澄人さんからである。
アリーナの衣装の予算を、今日のうちに詰めることになっていた。布の値段と私がやりたいことと、うちの通帳の中身。その三つの間に橋を架けるのが、澄人さんの仕事だ。
正直、あの「俺が見せたくないんだ」という言葉は、まだ胸のどこかに引っかかっている。だから澄人さんに対していつもどおりの自分で接せる自信はなかった。でも、仕事は仕事だ。無理やり気持ちを切り替えて、私はメッセージを送った。
『わかりました。どこですか』
『駅の裏の喫茶店。迎えに行くから、家で待っていて』
歩いて七分の場所だ。
迎えは要りません、と打ちかけてやめた。言っても来る人である。
呼び鈴が鳴って扉を開けたら、大きな傘が立っていた。
紺色で柄の長い、古い傘だ。骨が十六本ある。その下に澄人さんがいた。
「おはよう。寒くない?」
「おはようございます。大丈夫です。……あ、私、傘あります」
「うん。でも、こっちのほうが大きいから」
理由になっていないのだが、気がついたら、その傘の下に入っていた。
歩き出したとき、澄人さんは何も言わずに車道の側へ回る。
傘も、私の方に傾いていた。
おかげで、こっちには一滴も落ちてこない。かわりに、澄人さんの左の肩が、傘の外に出ていた。コートの色が、濡れて濃くなっていく。
「澄人さん。肩」
「うん?」
「濡れてます」
「ああ。本当だ」
今気づいた、という顔をした。
嘘である。この人が、自分の肩が濡れているのに気づかないはずがない。体型を一ミリも変えないように暮らしている人だ。
「もっとそっちに寄せてください」
「これ以上寄せると、糸音ちゃんが濡れる」
「じゃあ、私がそっちに寄ります」
私はそう言って、半歩、詰めた。
肘がコートに触れる。
澄人さんの足が、一瞬、止まった。
「……これなら、二人とも入りますね」
「そう、だね」
声がいつもより少し高かった。
そこから喫茶店までの五分、澄人さんは一言も喋らなかった。傘の柄を持つ手が、やけにまっすぐだったのが不思議だった。
到着したお店は、想像以上に年季の入った所だった。
駅裏の細い道の、角から二軒目。看板の字が半分消えかかっていて、扉を押すと同時に、店内へ鈴の音が響き渡る。コーヒーと焦がしたバターと、古い木の香りが鼻孔をくすぐった。
どうやらお客さんは、私たちだけのようだ。
カウンターの奥で、白髪のご主人が新聞から顔を上げる。
「いらっしゃい。雨宮くん、久しぶり」
「ご無沙汰しています。奥の席、いいですか」
「おう。好きなとこ座んな」
窓際の一番奥。二人がけの小さな机だった。
壁側にアップライトのピアノが一台、蓋を閉めて置いてある。
「ステキなお店ですね。よく来るんですか?」
「学生の頃にね。スタジオのバイトの帰りに、ここで譜面を読んでいた」
澄人さんは濡れたコートを脱いで、きちんと畳んで隣の椅子に置いた。
水を運んできた店主から品書きを受け取ると、慣れた手つきでそれを開く。
「糸音ちゃんは、紅茶かな?ミルクなしで、砂糖はひとつ」
「よく分かりましたね?」
「十二年も見ていれば、なんとなくね」
さらりと言われた。流石、澄人さん。観察力と一人ひとりへの理解度が高い。
「澄人さんは何を頼むんですか?」
「私は……」
品書きをじっと見たまま、そのまましばらく黙り込んでいた。
この人が何かを決めるのに、こんなに時間をかけるのを、初めて見た気がする。いつもはメンバーの中で、一番早く答えを出すのに。
「……クリームソーダを」
久々に聞く懐かしい単語に、一瞬、聞き間違いかと思った。
「クリームソーダ」
「うん」
「……あの緑色の?」
「うん。緑色の」
頷く澄人さんの表情は、真顔である。
百八十三センチ、三十一歳のスマートな大人が、真顔でクリームソーダを頼んでいる。なんだか、新しいものを見た気がした。
「……好きなんですか?クリームソーダ」
「好きというか……」
澄人さんは、少し困った顔をした。
「子どもの頃、飲ませてもらえなかったんだ。色のついた飲み物は、体に悪いからと。……それで、家を出てから、この店で初めてクリームソーダを頼んだ。二十二のときだったかな」
「へぇ、そんなことが……」
「初めて飲んで衝撃だったよ。こんな美味しいものが世の中にあったのかと思った」
長年一緒にバンドをしてきたが、初めて聞いたエピソードだ。なまじ、いつも音楽や仕事の話ばかりしてしまうので、意外とお互いのプライベートを知る機会は少ない。
「それ以来、ここに来るとこれを頼みたくなっちゃうんだよね。恥ずかしいから、これは二人だけの秘密ね?陽太にバレたりしたら、一年はからかわれそうだし……」
「ふふ、いいエピソードだと思いますけどね。でもまぁ、陽太は嬉々としてネタにしそう。秘密にしておきますね」
「うん。ありがとう」
本気でほっとした顔をする澄人さんに、私は思わず笑ってしまう。
二十二歳で、初めてクリームソーダを飲んだとき、この人はどんな顔でこれを飲んだのだろう。普段はクールで文学系の渋みがある大人って感じの雰囲気なので、少年味のある澄人さんはギャップかもしれない。
「すみません」
私はカウンターに向かって、手を挙げた。
「クリームソーダを、二つお願いします」
「糸音ちゃん? 紅茶は……?」
「やめました。私も澄人さんの思い出の味、飲んでみようかなと思って」
澄人さんが、動かなくなった。
品書きを持った手が、宙で止まっている。まばたきも、していない。
「……紅茶のほうが、好きでしょう」
「好きですけど……。今日は、こっちがいいです」
「無理に合わせなくても」
「合わせてません。飲みたいんです」
本当のことだった。色のついた飲み物を禁じられていた子どもが、大人になって初めて頼んだもの。澄人さんが感動した味がどんなものなのか、何となく知りたかった。
澄人さんは、品書きを持ち上げて、顔の下半分を隠した。
「……そう」
声が品書きに反響してくぐもる。
「それは、その。うれしい、な」
品書きの上からでた目が、行き場をなくしたみたいに泳いでいた。
カウンターの奥で、ご主人が新聞の陰からにやにやしているのが見える。
しばらくして、テーブルにクリームソーダが二つ並んだ。白くて丸いアイスが緑色の液体に浮かび、てっぺんにさくらんぼがのせられた絵に描いたようなやつだ。
澄人さんは、それを大切そうに自分のもとへ引き寄せると、ものすごく丁寧に飲んだ。
柄の長いスプーンで、アイスの縁を少しだけ削り、ソーダに溶けて白く濁ったところを、ストローで吸う。それから、また削り飲む。順番が決まっているらしい。さくらんぼには手を付けていなかった。
私も、真似をして飲んでみた。
しゅわっとした液体が口の中に広がる。正直、この季節にこの冷たさはちょっとツンとくるが、あとに来るアイスの味が、なんだか懐かしい。小さい頃、祖母に連れていってもらった百貨店の食堂の味を思い出した。
「おいしいです」
「ふふ。でしょう」
澄人さんはうれしそうに笑った。
「それ、最後に食べるんですか」
アイスの上にちょこんとのった、さくらんぼ。落とさないよう器用に食べている澄人さんに、私はたずねる。
「うん。楽しみは、とっておくほうなんだ」
「そうなんですね。私は、もう食べちゃいました」
「知ってる。おにぎりも、糸音ちゃんは具から食べるでしょう」
本当によく見ているな、この人。
もはや私よりも、澄人さんの方が私について詳しいのかもしれないと思う今日この頃だった。
※※※
予算の話はあっという間にまとまり、三十分で終わった。
澄人さんは、私が出した衣装用の布の一覧に、一つも「高い」と言わなかった。かわりに、どこを削ればそれが買えるかを、別の紙に書いて見せてくれた。照明の色数や運搬の回数、弁当の等級など。
「群青の布は、これでいい。一番いいのを買おう」
「でも、ここだけで予算の3割を占めちゃいますけど……」
「そこを削ったら、君が作る意味がなくなるよ。私のほうで調整するから大丈夫」
自分の衣装の欄に、線を引いた。水色の布を、一段下の値段のものに。
「澄人さんのを下げるんですか?」
「私は後ろの端にいるから。照明もほとんど当たらない」
「だめです」
思ったより、強い声が出た。
「澄人さんの袖は、手首の骨がぎりぎり隠れる丈にするんです。鍵盤に置いたとき、指がいちばん長く見えるように。そのためには、落ちる布じゃないとだめです。安いのは張りが強くて、指に影ができるから……」
私の言葉に澄人さんが目を丸くする。
「……そんなことまで、考えていたの」
「当たり前です。みんなを魅力的に魅せるのが、私の役目ですから」
すると澄人さんは、しばらく黙ったあと、引いた線を丁寧に消した。
「なら、弁当の等級をもう一段下げる方でいこう」
「陽太が泣きますね」
「……泣かせておこう」
二人で少し笑った。
採寸の日から引っかかっていたものが、ほんの少し緩んだ気がした。
モヤモヤしているのは変わらないし、何かを隠されているのも変わらない。
でも、この人が私の仕事を大事に扱ってくれることも、十二年間、変わっていないのだった。
「雨宮くん」
カウンターから、ご主人が声をかけた。
「客もいないし、久しぶりに弾いてくかい。調律、先月入れたばっかりだよ」
壁際のピアノのことだ。
澄人さんの手が止まった。スプーンを持ったまま、動かない。
「いえ、私は……」
「あんた、学生の頃は閉店までずっと弾いてたじゃないか。客が帰ったあとに」
「あれは、誰もいなかったので」
「今も、ほとんど誰もいないよ」
ご主人はにっと笑って、新聞に戻った。澄人さんは、ピアノを見ている。
採寸の日に聞いた話を思い出した。十七歳のとき、発表会で手が止まって、六百人のホールが静かになった話。
よくよく考えれば、澄人さんにとって今もトラウマなのかもしれない。バンドでキーボードは弾いているが、こういうクラシックなピアノを弾いている姿は見たことがなかった。
「無理しなくていいですよ」
私は言った。
「うん」
澄人さんは、うなずいた。
「……一曲だけ」
そう言うと澄人さんはピアノに近づき、蓋を開けた。
椅子の高さを直して、座る。背筋が伸びた。
膝の上に置いた両手を握ったり、開いたりしている。
冷えているのだ。きっと、氷みたいに。
それを見た私は、ピアノの横まで行くと両手を差し出した。
「何を」
「手、貸してください。弾く前に温めます。私、手だけは年中あったかいんです。ドラマーなので」
澄人さんは私の手を見て、私の顔を見た。
それから、おそるおそる自分の両手を乗せる。
大きな手だ。私の両手では、とても包みきれない。そして、氷みたいに冷たかった。
指の付け根から先へ、ゆっくりさすった。冷えた布を、手のひらでならすのと同じ要領である。深い意味はない。ただ、この手が冷たいままピアノの前に座っているのが、いやだった。
「……あたたかいね」
「でしょう」
「うん」
十秒ほど、そうしていた。
手が離れるとき、澄人さんの表情がほんの少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいかもしれない。
澄人さんは、鍵盤に指を置いた。
最初の一音は、小さかった。雨の音に、消されそうなくらいに。
――知らない曲だ。
ゆっくりで、音の数が少なくて、同じ形が少しずつ変わりながら繰り返される。バンドで弾くときの、全体を下から支える弾き方ではない。一音ずつが、はっきり前に出てくる。
きれいだった。
それ以外の言葉が、出てこない。
鍵盤を滑る長い指を眺めながら、この人は本当は、こんな音を持っていたのか、と思う。
途中で一度だけ、澄人さんの指が止まりかけた。背中が固くなったのが、目で分かる。
私は考えるより先に、机を叩いていた。
人差し指と、中指で。リズムに合わせるようにゆっくりと。
澄人さんの肩から、力が抜けた。指が、次の音へ進んだ。
そこから先は止まらなかった。
最後の和音が、雨の音の中に溶けていく。静かになった。
カウンターで、ご主人が新聞をめくる音がした。それから、ぱち、ぱち、と、ゆっくり二回、手が鳴った。
澄人さんは鍵盤に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
「……弾けた」
小さい声だった。
「十四年ぶりだ。人のいるところで、最後まで」
振りむいた澄人さんの表情は、泣きそうに笑っていて、ずっと若く見えた。二十二歳で初めてクリームソーダを飲んだときも、きっとこんな顔をしていたのだろう。
「君のリズムが途中で支えてくれたから」
「そんな。叩いただけですよ」
「それでも」
澄人さんは立ち上がって、ピアノの蓋を閉めた。
閉めた蓋の上に、手のひらを置いた。ありがとう、と言うみたいに。
「聴いてほしいって、心から思えたから……」
目が合った。真っ直ぐな視線に、首のうしろが少し熱くなる。
「……いい曲でした。何ていう曲ですか?」
「名前はないんだ。学生の頃に、ここで自分で作った」
「え?澄人さん、曲を書くんですか?」
「この一曲だけね。奏多のを聴いてから、やめた。あれには敵わないと思って」
「もったいないです、それ」
「そうかな」
「そうです。私は、今の好きです」
言ってから、何か恥ずかしくなった。曲が好きだという話をしているだけなのに、妙に気恥ずかしさが勝つ。
澄人さんは、何も言わなかった。
席に戻って、溶けかけたクリームソーダのグラスを取ると、スプーンで最後まで残していたさくらんぼをすくった。
そして、そのさくらんぼを私の氷だけになったグラスの中にそっと置く。
「え」
「あげる」
「いや、澄人さん、楽しみにしてたんじゃ……」
「うん。取っておいた」
澄人さんは、空になったグラスを見ていた。
「一番いいものは、一番渡したい人に渡すために、取っておくんだと思う。今、わかった」
何と返せばいいのか、わからなかった。
返しても戻されそうなので、私はもらったさくらんぼを、食べることにした。
口に入れたさくらんぼは、ほんのり甘くて、少しだけソーダの味がする。
帰り道、雨はまだ止んでいなかった。
行きと同じように、傘はやっぱり私のほうに傾いていた。
今度は何も言わずに、最初から半歩詰めた。
澄人さんの足がまた一瞬止まって、それからゆっくり歩きだした。
左の肩は、もう濡れていなかった。
さくらんぼの種はなぜか捨てられなくて、紙ナプキンに包んで持って帰った。
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