第13話 陽太の深夜ラジオにて
十月三十日、金曜日。夜の十一時に、とつぜん電話が鳴った。
『糸音!起きてる?……起きてるな?すまん、頼みがある!』
陽太だ。あまりの声の大きさに、私はスマホを耳から十センチ離した。
「……起きてるけど、何?」
『今日の生放送、ゲストが熱出したんだ。二時間後なのに、代わりが見つからない!頼む糸音、代わりに出てくれ!』
「無理」
『即答すんな!』
「……だって、私、喋るの苦手なの知ってるでしょ?ラジオは四人のだけで精一杯だって」
『それは知ってる。けど、大丈夫だって!お前は座ってるだけでいい。俺が全部拾うから!』
電話の向こうで、紙をめくる音がした。台本を直しているのだろう。この男は、頼みごとをしながら、もう次の段取りを組んでいる。
『……とにかく!今、三好に迎えへ行かせてる。あと、十五分くらいで着くはずだ。上着、厚いの着てこいよ!局のブース、冷えるから』
――電話が切れた。
引き受けるとは一言も言ってないのだが、どうやら私の出演は決定事項らしい。
十五分後、私は本当に三好さんの車に乗っていた。
『柏木陽太のミッドナイト・レグルス』は、金曜の深夜一時から一時間の生放送だ。
陽太がパーソナリティーとして、一人で六年間やっている。休止中の二年間も、これだけは一度も休まなかった。四人のラジオ番組が止まって、テレビも止まって、バンドの名前が世の中から消えかけていたあいだ、毎週金曜の夜にだけ、コルレオの人間の声が電波に乗っていたことになる。
家で聴いたことは、何度もあるが、ブースを訪れるのは初めてだった。
想像以上に年季の入った狭いスタジオだ。古い吸音材の匂いと、誰かが淹れたコーヒーの匂いがする。机の上に、マイクが二本と、紙の束と、のど飴の缶。
陽太は、入ってくるなり、部屋中の人に声をかけて回った。
「おつかれっす! 木村さん、腰どうすか。あ、湿布のにおいする。貼ってんすね、えらい」
音声の卓に座っている年配の男の人が、苦笑いして手を振る。
「佐伯ちゃん、こないだの差し入れのやつ、うまかった!あれ、どこの?……え、妹さんの店?まじで!?今度買いに行くわ」
若い女のスタッフさんが、うれしそうに店の名前をメモして渡している。
「先生!今日もよろしくお願いします!」
最後に構成作家さんに向かって、きっちり頭を下げることも忘れない。六年やっていて、毎回ちゃんとやっているらしい。
そういえば、かなが現場での対応の仕方は陽太を真似ていると言っていた気がする。現場の人の名前を覚え、しっかりと会話を記憶し、コミュニケーションを取る。それができるだけで、仕事の依頼も圧倒的に増えるのだと言っていた。
だから、かなは仕事終わりに必ず現場でのやり取りや、関わった人についてメモを取っている。そして、毎晩、翌日に関わる予定の人のメモを見て、思い出した状態で来るのだ。
ただ、陽太の場合はかなのように覚えてはいない。
覚えようとしなくても、頭に入っているのだ。人の腰の具合とか、妹さんの店とか、そういうことが。
同じことをしているのに、要領がまるで違う。十年以上一緒にいて、今さらそんなことに気がついた。
「糸音、ここ座って。マイクはこの距離。喋るとき、ちょっとだけ前に出ると音が入りやすい」
陽太が引いてくれた椅子に座ると、ひざ掛けが膝にかけられた。
「……冷えるって言ったろ。あと水。蓋、開けてある」
見た目はどちらかというと、気にしなそうというか大雑把そうなのに、実はコルレオで一番気が利くのが陽太だったりする。
「……もしかして糸音、緊張してる?」
「そりゃあね。……言ったじゃん、喋るの苦手って」
「あー、だよな!」
宙に浮いた自分の手を頭の裏に回しながら、陽太はにっと笑った。
「大丈夫。俺、お前が喋りやすい球しか投げねえから。困ったら、黙って俺を見て合図をくれ。三秒以内に拾うから」
「うん、分かった」
いよいよ、赤いランプが点いた。
「こんばんは!金曜の深夜一時、柏木陽太のミッドナイト・レグルス! 今週も夜ふかしのみなさん、おつかれさまです。受験生は、あと五分聴いたら寝ろ。いや、嘘。最後まで聴いて!」
――声が、変わった。
大きくなったのではない。近くなったのだ。ブースの向かいに座っている私ではなく、どこかの暗い部屋で、布団の中でイヤホンをしている誰か一人に向かって喋っている。
「さて、今日はゲストが来ています!本当は別の人だったんだけど、体調を崩しちゃったみたいで……。なんとかしなきゃと思った結果、この人しかいないと思って、俺が二時間前に電話で叩き起こしました。どうぞ~!」
マイク越しに陽太と目が合った。喋れという合図らしい。
「……えっと、起きてました。起こされてないです。Cor Leonisのドラム、園原糸音です。よろしくお願いします」
「はい、固い! 固いよ~、糸音! ここ俺んちみたいなもんだから!靴脱いでいいぞ~!」
「いや、脱がないよ」
「脱がないって。聞きました、みなさん?うちのドラムはツレないですね~」
ガラスの向こうで、作家さんが笑っている。
不思議だ。陽太と話していると会話のテンポが自然と良くなる。
恐らく質問は、どれも答えが一言で済むように考えてくれたのだろう。「昨日の晩ごはんは何?」「スティックは何本持ってる?」「奏多の寝癖でいちばんひどかったのは?」……など、私が一言答えると、陽太がそれを三倍にふくらませて、笑いにして、次の球を投げてくれた。
しかも、私が答えに詰まると、本当に三秒で拾いにくる。
そして、拾い方がうまい。助けられた、と引け目を感じさせない。私が言いよどんだこと自体を、おもしろい形に変えてしまう。
この感じ、何かに似ているなと考えて、私は「ああそうか」と納得した。
陽太はギターでも、常に同じことをしている。
私のスネアのすぐ後ろに、陽太は音を置く。私がもたついたら、もたついたことがわからないように、そこへ寄り添って弾き、カバーしてくれていた。十年以上、そうやって支えてくれているのだ。
「じゃ、メールいきます」
陽太が紙の束を取った。一枚目を見て、すっと脇にどける。同じく、二枚目も。三枚目になって、ようやく読みはじめた。
「ラジオネーム、夜食はうどん派さん。十七歳。『陽太さんこんばんは。部活でレギュラーを外されました。顧問に、お前の代わりはいくらでもいると言われました。もう辞めたいです』」
陽太は、紙を置いて、少しの間、黙った。
生放送の沈黙は、長く感じる。作家さんが、ガラスの向こうで身を乗り出した。
「……そっか」
声が、低くなっていた。
「それ……言われると、きついよなぁ」
マイク越しの陽太の顔が、わずかに歪む。
「俺もさ、昔、似たようなこと言われたことあんだよ。お前じゃなくてもいい、って。……直接じゃなくて、たまたま目に入っただけなんだけど。……あれ、抜けねえんだよな。何年たっても、ふとしたときに蘇ってくる……」
――初めて聞く話だった。
「で、うどん派。これは、俺の話な。お前の答えに、なんねえかもしれねえけど……」
陽太は、マイクに少し近づいた。
「代わりがいるかどうかは、多分、言ったやつが決めることじゃねえんだよ。俺はそう思ってる。俺の代わりにギター弾けるやつは、もしかしたら世の中に山ほどいるかもしんない。俺より上手いやつだって、たくさん居るしな。……でも、俺がここで弾きてえって気持ちの代わりは、どこにもいねえ。その想いだけは、誰にも負けねぇ自信がある」
そう言いながら陽太は、自分の左手を見ていた。指先の、硬くなったところを。
「辞めたいなら、辞めていい。逃げていい。それはお前が決めろ。ただ、その顧問の一言で決めんのだけは、やめとけ。そんなもんに、お前の大事な三年間を決めさせんな」
一拍おいて、いつもの声に戻った。
「以上! 柏木先生のお悩み相談でした! ちなみに先生は、高校のとき数学で八点取ってます!」
「八点……」
せっかくの良い話が一瞬で、台無しになった。あまりの点数に、思わず復唱してしまう。
「百点満点で?」
「おう。百点満点で」
「それ、名前を書いたら五点もらえるやつでしょ」
「残りの三点は実力だよ!」
ブースの外で、全員が笑っている。
私は笑いながら、陽太の顔を見ていた。
いつもの陽太は、ふざけるのがうまい陽気なやつだ。それはバンド内でも同じで、いつも雰囲気を盛り上げてくれるひょうきんキャラだった。だから、あんな風に痛みを嚙み締めるような表情を見たのは初めてかもしれない。
番組の終わり近くに、もう一通、私宛てのメールが読まれた。
「ラジオネーム、ハイハットの裏さん。『陽太さんにとって、糸音さんはどんな存在ですか』。……うわ、来たよ」
「来たって何?」
「いや、本人の前でこれ答えんの、きついって」
陽太は頭をかいた。耳のうしろを、指でがしがしと。
「三週間前に言っただろ、ここで。糸音は俺らの心臓だって」
「それ、聴いてた」
「え!お前も聴いてたのかよ!」
「うん、家で。寝る前に」
「マジかよ!先に言えよ。恥ずいだろ!」
ガッと陽太は、勢いよく机に突っ伏した。マイクにおでこが当たって、ごん、という音が全国に流れる。
「……あのな」
突っ伏したまま、言った。
「こいつが最初に四つ数えるだろ。ワン、ツー、スリー、フォーって。あれが聞こえた瞬間、俺、世界でいちばん安心してギター弾けんの。次にどこへ指を置けばいいか、考えなくてもわかる。十四のときから、ずっとそう」
顔が上がった。
まっすぐこっちを見ていた。
「だから、どんな存在かって訊かれたら。――俺が、俺でいられる場所」
ブースの中が、静かになった。空調の音だけがしている。
私は何か返さなければ、と思った。ここはラジオだ。黙ったら事故になる。……だけど、面と向かってそういうことを言われると、むずがゆくて、言葉が上手く出てこない。
「……数学八点の人に、そんなちゃんとしたこと言われると思わなかった」
「そこかよ!」
陽太が吠えて、空気が戻った。
助かった、と思った。
胸のあたりが、妙に落ち着かない。さっきまで冷えていた空調が熱いような気がしてくる。
放送は午前二時に終了した。
関係者への挨拶を終えて、陽太と一緒にラジオ局を出る、吐いた息が白かった。
三好さんが車を取りに行っている間、通用口の横にある自販機で飲み物を買う。
「何か飲む?」
「あったかいのがいいな」
「だよな」
陽太は小銭を入れて、少し迷って、コーンスープのボタンを押した。
出てきた缶を、開ける前に振りはじめる。かなり真剣に。
「何してるの」
「こういうのって、底にコーンが残るだろ?あれ、嫌じゃん。最後に缶をのぞいたら、粒が三つくらい貼りついてんの」
「……まぁ、たしかに嫌だけど」
「だから先に振っとく。で、飲み口の下を、ちょっとへこませる」
親指で、缶の縁の下を押した。ぺこ、と音がした。
「こうすると、粒が引っかかんねえで出てくる」
「へぇ、そうなんだ。誰に教わったの?」
「自分で研究した。高一の冬。お前が毎回、缶の底のぞいて悔しそうな顔してたから」
はいっと、陽太に缶を渡された。
私は黙ってそれを受け取り、両手で持つ。熱い。指の先まで、じんとする。
飲んでみると、粒がちゃんと出てきた。
「……ほんとだ」
「だろ?」
得意そうな顔である。数学八点の男だが、コーンスープの缶については十二年の研究のすえ、博士になったようだ。
二人で、通用口の段に座る。
陽太は何も買わなかった。両手を上着のポケットに入れて、かかとを浮かせたり沈めたりしている。
「……さっきの」
私の言葉に、陽太がこっちへ視線を向ける。
「お前じゃなくてもいいって言われた話。……誰に?」
「……昔の話」
「うどん派さんには話したのに」
「あいつは、顔が見えねえから……」
陽太は空を見上げた。星はほとんど見えない。ビルの上にひとつだけ、明るいのが出ていた。
「顔が見えるやつに言うのは、むずいんだよ。心配すんだろ、お前」
「するよ」
「だから言わねえ」
そう言って陽太が浮かべたのは、胸がギュッとなる方の笑顔。何かを閉めるときの音がする、ほうの笑い方だった。
「陽太」
「ん」
「今日、助けてくれてありがとう」
「は? 助けてもらったの俺だろ。ゲストの穴あけるところだったんだし」
「あんなに喋れたの、陽太が拾ってくれたからだよ。私、ラジオで笑ったの初めてかもしれない」
陽太のかかとが止まった。
「……そっか」
小さい声だった。
「なら、よかった」
陽太はそれきり黙って、空をじっと眺めていた。
私はコーンスープの缶にそっと口をつける。
飲んだ一口はさっきよりも甘かった。
しばらくして、あくびが出た。午前二時である。気が抜けたら、急にまぶたが重くなってきた。
力が入らなくなった体が右に傾く。
何かに当たった。陽太の肩だった。
「お、おい」
「ごめん。眠い」
「寝んな!こんなとこで寝たら風邪ひく。三好、もうすぐ来っから!」
「うん……」
返事はしたのだが、頭が持ち上がらなかった。
肩は思っていたより高いところにあって、思っていたより固かった。ギターを毎日担いでいる人の肩だ。上着から、洗剤と、弦の金属の匂いがする。
陽太は動かなかった。普段は落ち着きのない男が、かかとも、指も、ぴたりと止めている。息までひそめているのがわかった。
「……あのさ」
頭の上で、声がした。
「俺、今、すげえ頑張って動かねえようにしてんだけど」
「うん」
「あと何分くらい、頑張ればいい」
「三好さんが来るまで」
「……死ぬかもしんねえ」
「なんで」
「なんでもねえ」
少し早い鼓動の音が心地よいBGMに感じる。もうほとんど意識が飛んでいて、陽太の表情は見えていなかった。
車のライトが角を曲がってきたとき、陽太は、ものすごく長い息を吐いた。
「助かった……」
「……ん?何から?」
「いろいろだよ!」
陽太は投げやりに叫ぶと、立ち上がって、手を差し出してくれた。
つかんだ手は、私よりも熱い。何も飲んでいないのに。
車の中で、空になった缶をのぞいた。底に、粒はひとつも残っていなかった。
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