幕間 三好千秋の業務メモ その三
自分の机は、作業部屋に続く廊下の入口にある。
つまりこの三日間、採寸を終えて出てくる人が全員見えた。
以下、手帳のメモである。
十月二十六日(月) 柏木さん
作業部屋から出てきて、扉を閉めて、三歩あるいて、廊下にしゃがみ込んだ。
両手で顔を覆って、小さい声で「無理」と言った。耳が遠目でもわかるくらい赤かった。
十秒ほどして顔を上げ、自分と目が合った。
「……見た?」
「見ていません」
「だよな。助かる」
柏木さんは立ち上がって、いつもの顔で笑って、ギターケースを担いで帰っていった。ラジオで聞く声と同じ、明るい声だった。
十月二十七日(火) 雨宮さん
作業部屋から出てきて、扉を閉めて、廊下の真ん中で立ち止まった。
そして、左の袖口のボタンを、親指で押さえ、そのまま一分間、動かなかった。
自分が声をかけるべきか迷っているうちに、雨宮さんは小さく息を吐いて、「お疲れさまです」といつもの笑顔で会釈して帰っていった。手の中で携帯が震えていたが、最後まで画面を見なかった。
十月二十八日(水) 久遠さん
作業部屋から出てきて、扉を閉めて、まっすぐ自分の机まで来た。
久遠さんに話しかけられたのは、着任してから初めてである。
「三好さん」
「は、はい」
「陽太、どこ」
「会議室に、雨宮さんといらっしゃいます」
「ありがと」
以上だった。
以上だったのだが、会議室の扉が半分開いていたので、そのあとの会話は聞こえてしまった。
「陽太」
「おー、採寸終わった? おつかれ」
「脈、130だったって」
何かを吹き出す音がした。お茶だと思う。
「な、なんでお前が知って」
「いとが言ってた。部屋が暑いのかなって」
「あいつ……!」
「130は、上がりすぎでしょ」
「うるせえな!お前はどうだったんだよ!」
沈黙。
「……窓、開けようかって言われた」
「お前もじゃねえか!」
「僕は110だって」
「20しか変わんねえよ!」
「二人とも、声が大きいですよ」
雨宮さんの声だった。穏やかだった。
「……澄人さんは?」
「私は測られていません」
「息止めてっからだろ! ずりい!」
「長年の工夫です」
自分は手帳を閉じて、三十秒ほど天井を見た。
中学二年から十一年間、自分はこの人たちを、手の届かない星だと思ってきた。
星は、好きな人に脈を測られて、廊下でしゃがみ込んでいた。
面接で言わなくてよかった、と思う。こんなものを見たあとで、ファンですと名乗る勇気はない。
ただ、笑ってばかりもいられなかった。
扉の隙間から、続きが聞こえたからだ。
「……いとに、訊かれた」
久遠さんの声が、低くなっていた。
「ネットで何か言われてるのかって。スマホを預かるのは充電のためじゃないよね、って」
会議室が静かになった。
「俺も訊かれた。封筒、見られて。何か隠してるでしょって」
「私もです。VESPERから何か来ていないか、と」
「糸音、今まで訊かなかったよな。一回も」
「ええ」
「……なんで急に」
誰も答えなかった。
しばらくして、雨宮さんが言った。
「気づきはじめたんでしょう。当然です。あの人は鈍いのではなくて、私たちを信じていたから訊かなかっただけですから」
「……じゃあ、今は」
「信じているから、訊いているんだと思いますよ」
久遠さんの声はしなかった。
柏木さんが、笑わずに言った。
「いつまで持つかな、これ」
その問いにも、誰も答えなかった。
十月二十九日(木) 園原さん
今朝、七時半に出勤したら、雨宮さんがもう来ていた。
給湯室で携帯を見ていた。画面に何か打って、送って、そのまま画面を見つめている。一分もしないうちに携帯が小さく震えて、雨宮さんは息を吐いて、そして笑った。
取材のときの笑顔でも、ライターさんを止めたときの笑顔でもない。もっと力の抜けた、何というか、朝ごはんの匂いをかいだ人みたいな顔だった。
自分に気づくと、いつもの顔に戻って「おはようございます」と言った。
画面は見ていない。見ていないが、送った文字数は四文字くらいだったと思う。
園原さんは、昼過ぎに自分の机に来た。
「三好さん、ちょっといいですか」
「はい」
「私宛ての連絡で、澄人さんのところで止まっているものって、ありますか」
世間話の声だった。針山を手首に付けたまま、裁断の途中で抜けてきたという格好だった。
引き出しの中には、あの決まりごとの紙が入っている。共有メールの「再々送」の件名も、まだ目に焼きついている。
自分は新任で、決まりを作ったのは雨宮さんで、了承したのは社長だ。
「……自分からは、お答えできません」
言ってから、最悪の答え方をしたと気づいた。ない、と言えば嘘になる。ある、と言えば決まりを破る。答えられない、と言えば、あると言ったのと同じだ。
園原さんは、少しのあいだ自分の顔を見ていた。
それから、笑った。
「ありがとう。三好さんは、嘘つかないんだね」
「す、すみません」
「なんで謝るの。助かったよ」
園原さんは作業部屋に戻っていった。背中はいつもどおりだった。怒っているようにも、傷ついているようにも見えなかった。
それが、かえって怖かった。
夕方、もうひとつ気になるものを見つけた。
SNSの監視は自分の業務である。園原さんの名前で検索すると、この数日、同じアカウントの投稿が上位に出てくる。
名前は『獅子座観測所』。
悪口は書かないし、言葉づかいも丁寧なアカウントだ。そのかわり、一投稿ごとの文章が長い。一般発売が七割で止まった理由を、過去の動員数と衣装の変化と番組の出演順から、十二連投で分析している。
結論は毎回同じところに辿り着く。
――チケットが止まったのは、彼女のせいではない。このバンドは最初から、一番後ろの彼女を軸にして回っている。それが聴こえない客が増えただけだ。
正しいことを言っている、と自分は思う。思うのだが、返信欄は燃えていた。古参ぶるな。軸はボーカルだろう。お前に何がわかる。かばえばかばうほど、園原さんの名前が悪いほうの文脈で広がっていく。
フォロワーは、三日で四千人増えていた。
罵る人より、こういう人のほうが扱いが難しい。前の職場で嫌というほど見た。怒っている人の声はすぐ枯れるが、冷静な人の正論は遠くまで届いて、届いた先で火をつける。
しかもこのアカウントは、詳しすぎる。
インディーズ時代のセットリストを、日付まで正確に引いている。自分と同じくらい古くから、このバンドを見ている人だ。
メモの最後に、三行足した。
• 園原さんは、もう気づいている。気づいたうえで、まだ様子を見てくれている
• 三人はそれをわかっていて、まだ答えられない
• 『獅子座観測所』。要注意。味方の正論が、一番よく燃える。
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