第12話 かなの想い
水曜の夕方、私は壁際に置いてある姿見に布を掛けた。
かなの採寸のときは、昔からこうしている。鏡があると緊張するらしく、肩に力が入って寸法が一センチ変わるのだ。
ちょうど採寸の準備が整ったタイミングで、扉が音もなく開いた。
「いと」
「いらっしゃい。そこに立って」
かなは扉を閉めるかどうか訊かなかったし、差し入れも持ってこなかった。黙って部屋の真ん中まで来て、布の掛かった鏡を一回見ると、それから私に視線を移す。
肩がすとんと下がったのが分かる。よくよく観察してみると、目の下の隈が先週より濃いことに気づいた。
「……寝てないでしょ」
「寝た」
「何時間」
「……二」
「それは寝たって言わない」
巻尺を首から外す。肩幅から。
陽太は落ち着きがなくて、澄人さんは息を止めるが、かなは自分から寄ってくる。ただ近づいてくるのではない。
肩に巻尺を当てようと背中に回ると、回ったぶんだけこっちに体重が傾いてくる。正面に戻ると、今度は前に傾く。猫が人の足に体をこすりつけるのに似ている。本人に自覚はない。たぶん。
「まっすぐ立って」
「立ってる」
「立ってない。斜め」
「……床が傾いてる」
傾いていない。古いビルだが、さすがにそこまでではない。
本気なんだかボケているんだか分からないやり取りをしながらも、私はモクモクと採寸をしていく。肩幅も腕もサイズは変わらないようだ。
ウエストに巻尺を回して、目盛りを読んで、もう一回読み直した。
「……2センチ減ってる」
「そう」
「そう、じゃない。食べてないでしょ」
「食べた」
「何を」
「……炭酸」
「それは食べ物じゃない!」
同じ会話を、小学生のときからしている気がする。あの頃は「給食」と「牛乳」だった。
「曲を書いてるときは食が細くなるっていうのは知ってるけど……。アリーナまであと一か月半なんだから、倒れたら困る」
「……いとが作ったら食べる」
「私の料理、そんなにおいしくないよ」
「知ってる」
知ってるんかい。
「でも食べる」
かなは真顔でそう言った。外向きの顔のときなら、にこっと笑って気の利いた一言を足すのだろう。
だが、私の前では余分な言葉を足さない。率直な言葉がそのまま返ってくる。
昔からなので慣れているのだが、この二、三日は調子が狂っているせいか、ちょっとだけ返事に困った。
「……明日、おにぎり持ってくる。具は文句言わないこと」
「うん」
採寸表に数字を書く。ついでに気になってたことを聞いてみた。
「休止のあいだ、澄人さんの家に行ったんだって?」
かなの肩が、少しだけ上がった。
「……澄人さん、喋ったんだ」
「ピアノの前に一時間座って、一音も弾かなかったって」
「うん」
「何しに行ったの?」
「ピアノの前なら、書けるかと思った」
「書けた?」
「書けなかった」
「それは……なんで?」
かなは少し黙って、布の掛かった鏡のほうを見た。
「音が、足りなかったから」
「え?澄人さんちのピアノ、すごくいいやつでしょ?」
「ピアノじゃない音」
それ以上のことをかなは言わなかった。
かなは自分の想いを話すのが苦手だ。言葉で伝えられない想いは、全て曲で届ける。なので、その気持ちを知るには、出来上がる曲を待つしかない。
「……じゃあ、話変わるけど、もうひとつ」
胸囲を測るために、かなの正面に立つ。
「陽太のギター、なんで毎回あんなに難しくするの。この前も、三日寝てなかったよ」
「難しくしてない」
「してるって。本人が言ってた」
「陽太が弾ける、一番先を書いてるだけ」
巻尺を背中に回す手が止まった。
「あれなら陽太は3日でできるようになると思った。陽太にできないものは、最初から渡さない」
かなは当たり前のことみたいに言った。
「陽太のギターじゃないと、僕の曲は曲にならない。最初に『すげえ』って言ったの、陽太だから」
「……私も言ったでしょ」
「いとは『いいね』って言った。『すげえ』は陽太が最初」
細かい。そして、よく覚えている。中学のとき、かなのデモを聴いた陽太は、次の日に貯金を全部おろしてギターを買ってきた。弾けもしないのに。それを見たかなが、生まれて初めて、家族と私以外の人間の前で笑ったのだ。
「それ、陽太に言ってあげなよ。陽太、自分のこと普通だと思ってるよ」
「言った」
「いつ」
「曲で」
「口で言いなさいって」
「……口は、苦手」
取材では、あれだけ喋るくせに。
でもあれは、かなが努力して覚えてきた言葉だ。この人が自分の言葉で喋れる場所は、五線譜の上にしかない。陽太の指の皮が厚くなるたびに、かなは「信じてる」と言っているつもりなのだろう。
……伝わっていないけれど。
うちのバンドは、どうしてこう、大事なことほど口に出さないのか。
背中で巻尺を交差させて、胸の前で合わせる。
目盛りを読むために顔を上げたら、かなと目が合った。近い。
身長が10センチしか違わないので、正面に立つと目の高さがほとんど同じになる。こういうとき、かなはどこにも顔を逸らさない。じっとしてるので、左目の下の泣きぼくろまではっきり見える。
ふと、指の下からトクトクと流れる脈を感じた。速い。110のテンポはある。顔はいつもどおり眠そうで、目も逸らさないくせに、指の下だけがやけに忙しい。
「かな、脈速いよ」
「……そう」
「陽太も、なぜか速かったんだよね。この部屋、そんなに暑いかな。具合悪くなってない?大丈夫?」
かなは返事をしなかった。
「窓、開けようか。陽太のときも開ければよかった。熱でもあるのかと思ったもん」
かなの眉が、ぴくりと動いた。
「……陽太、速かったんだ」
「130テンポくらい。本人は笑いすぎたって言ってたけど」
「ふうん」
短い返事だった。何か考えている顔だったが、何を考えているのかはわからない。それから、かなはやっと目を逸らした。耳の先が少し赤い。やっぱり暑いのだ。布を減らすことを、本気で検討したほうがいいかもしれない。
採寸した数字を書こうとして体を離しかけたら、肩に重みが乗った。
かなの額だ。
「ちょっと」
「五分」
「立ったまま寝る気?」
「ここが一番、寝られる」
私の肩は枕ではない。
と言おうとしたのだが、額を乗せたとたん、かなの呼吸がすうっと深くなった。本当に寝かけている。昨日二時間しか寝ていないと言う人間を振り落とすのは、さすがに気が引けた。
仕方がないので、巻尺を持ったまま立っていた。肩のところで、かなの息が規則正しく行ったり来たりしている。襟足から、かなが昔から使っている柔軟剤の匂いがした。幼稚園のお泊まり保育のときから、ずっと同じ匂いだ。
落ち着くな、と思った。思ってから、落ち着いている場合なのかどうか、少し考えた。二十七歳の男女が、六畳の部屋で、こうやって立っているのは、世間的にはどうなんだろう。
……まあ、かなだしな。
いつもの結論に着地しかけて、この間の社長の一言を思い出した。
世間的には、あることないことーー。
「かな」
「ん」
「私、ネットで何か言われてる?」
肩の上の呼吸が、止まった。
かなは額を離さなかった。離さないまま、私のシャツの袖を指でつかんだ。小さい頃から、怖いときの癖だ。
「見なくていい」
「……やっぱ、言われてるんだ」
「……」
「かなが私のスマホ預かるの、充電のためじゃないよね」
返事はなかった。
かなは嘘がつけない。正確には、外向きの顔のときならいくらでも上手に言えるのに、私の前だと一つも出てこなくなる。だから黙る。黙るというのが、この人の「はい」だ。
「怒ってないよ」
本当に、怒ってはいなかった。陽太は笑って隠す。澄人さんは丁寧に隠す。かなは黙って隠す。
三人とも、やり方が違うだけで同じことをしている。それが私のためだということくらいは、わかる。
わかるのだが……。
「見ないよ。見たら叩けなくなるの、自分でわかってるから。それは約束する」
袖をつかむ指に、力が入った。
「でも、隠されてるのを知らないままなのは、いやだ。私だけ知らないことが、多分いっぱいあるでしょ」
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃなくて」
「僕のせいだから」
小さい声だった。肩に吸い込まれて、ほとんど聞こえなかった。
「何が?」
かなは答えなかった。
額がようやく離れた。かなの目が赤いのは、寝不足のせいだと思う。
私は少し迷ってから、姿見の布を外した。
かなが反射的に目を逸らす。その顔を、両手で鏡のほうに向けた。
「ほら。ちゃんと見て」
鏡の中に、二人並んで映っている。ほとんど同じ高さの頭が二つ。片方は隈がひどくて、片方は巻尺を首に掛けている。
「アリーナの衣装、群青にする。今までで一番いいのを作るから。これを着たかなを見て、文句を言える人はいない」
「……いとは」
「私?」
「いとは、何を着るの」
「私は後ろだから、動きやすければ何でも」
「だめ」
即答だった。
「一番いいのは、いとが着て」
鏡越しに、目が合った。さっきより、心臓ひとつぶん遠い。なのに、さっきより困った。
「……考えとく」
「うん」
かなは鏡から目を逸らさなかった。自分の顔ではなくて、鏡の中の私を見ていたからだと、あとになって気がついた。
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