第11話 澄人の隠しごと
火曜の夕方、二人目は澄人さんだった。
「お邪魔します。差し入れ、ここに置くね。温かいうちにどうぞ」
紙袋から出てきたのは、保温の水筒とスープジャーである。中身は生姜の入った鶏のスープだった。採寸に来る人の持ち物ではない。
「澄人さん、採寸されに来たんですよね」
「うん。でも糸音ちゃん、昼を抜いたでしょう」
なぜ知っている。
というツッコミは、おくびにも出さない。何年も前から、なぜか自分が昼食を抜くと、澄人さんにバレているという構図は出来上がっていた。聞いても教えてもらえないので、聞くのは諦めたのだ。
澄人さんは陽太と違って、扉を開けておくかどうかは訊かなかった。自然に扉を閉めて、上着を脱いできちんと畳み、部屋の真ん中に立つ。
そして、息を止めた。
「まだ何も測ってません。息してください」
「あ、ごめん」
低身長な私の場合、183センチの澄人さんを測るには、踏み台がいる。
私はいつも使う踏み台に乗って、澄人さんの方に巻尺を当てた。澄人さんは陽太と反対で、採寸中一ミリも動かない。動かなすぎて、トルソーを測っている気分になる。
「48センチ。……変わってないですね」
「変わらないようにしているからね。変わると、糸音ちゃんの仕事が増える」
この人は本当にどこまでも優しい人だ。
温かい気持ちになりながら、次は首まわりを測ろうと手を伸ばす。だが、身長差がありすぎて、台に乗っても、まだ少し遠かった。
背伸びをしようとしたら、澄人さんがすっと片膝をついて、私より低くなる。
「これで届く?」
「届きます、けど」
採寸で跪かれたのは初めてだ。上から見下ろす澄人さんというのは、なんだか落ち着かない。いつもは見えない、つむじが見える。いつも見上げている人を見下ろすと、知らない人みたいだった。
台に乗らなくても届くようになった襟の内側に巻尺を回す。指が首に触れた瞬間の皮膚の冷たさに内心ギョッとした。
思えば澄人さんは、昔からいつも手が冷たい。たまにその冷たさを利用して、陽太やかなにじゃれついて、彼らの反応を楽しむ姿を見かける。
冷たいのは手だけでなく、首もなんだなと思った。
ふと、机の上で澄人さんの携帯が震えた。画面が上を向いていたので、見るつもりはなかったのだが、映された文字が目に入る。
『母』
澄人さんは目だけを動かして画面を見て、それから手を伸ばして、裏返した。
振動が続く。七回、八回と震えて、着信が切れた。
「出なくていいんですか」
「うん。あとでかけ直すよ」
穏やかな声だった。でも、私の指の下にある首筋はわずかに硬直している。採寸をしていると、こういうことがわかってしまう。体は口より正直だ。
訊かないほうがいいことなんだろうと思い、私は別の話題に変えることにした。
「澄人さん。初ライブのとき、陽太が曲を止めたの、覚えてますか」
「ああ、懐かしいね。もちろん、覚えているよ。高円寺の、床がべたべたするお店」
「あのとき、一番先に澄人さんが拍手しましたよね。昨日、陽太となんであんなに早かったんだろうって話してて……」
澄人さんは跪いたまま、少し笑った。
「あの子、まだ気にしていたんだ」
「止まるって、わかってたんですか」
「ううん。止まるのはわからなかった」
巻尺の目盛りを読みながら、澄人さんの話に耳を傾ける。
「止まったあとの静けさを、知っていただけ」
スマホが、また震え出した。
澄人さんは今度は見もしなかった。
「十七のときにね。コンクールの本選で、途中で手が止まったんだ。暗譜が飛んだわけじゃない。次の音は全部わかっていた。指だけが動かなかった」
コンクールに出なくなった人だ、ということは知っていた。でも、理由を聞いたのは初めてだ。
「ホールには六百人いた。誰も音を立てなかったよ。咳ひとつ。あれが十秒くらい続いた。人生で一番長い十秒」
スマホの振動が止まった。
「失敗そのものは、案外どうということはないんだ。怖いのは、そのあとの静けさのほう。だから誰かが止まったら、とにかく先に音を鳴らすと決めている。拍手でも、咳払いでも、なんでもいい」
それで、わかった。収録のあとでモニターを見て空気が凍ったとき。取材の終わりにライターさんが鳴海さんの名前を出したとき。この人が誰よりも先に口を開くのは、いつもそういう瞬間だ。
あの行為にあるのは優しさだけではない。この人は今でも、あの十秒が怖いのだ。
「……お母さんは、その日」
「客席にいたよ。最前列に」
澄人さんは立ち上がった。また、見上げる高さに戻る。
「次は胸囲かな」
それ以上は訊くな、という意味だった。
私は頷くと、腕を回して、背中で巻尺を交差させる。澄人さんは律儀にまた息を止めていた。
「休止のあいだにね」
止めたまま喋るので、声が少し苦しそうだ。
「奏多が一度だけ、うちに来たことがあるんだ」
「かなが?」
初耳だった。あの二年、かなは誰にも会いたがらなかったはずだ。澄人さんと陽太が一緒に住んでいたあの家にも、かなだけは一度も来なかったと聞いていた。
「金曜の夜中に、連絡もなしに。陽太はラジオに出ていて、家には私しかいなかった。ピアノを貸してほしいと言って、椅子に座って、一時間いた」
「何か弾いたんですか」
「ううん。一音も」
96と、私は測った胸囲を採寸表に書き込む。
「鍵盤の蓋の上で、指をこう、叩いていただけ。人差し指と中指で。とん、とん、って。ずっと同じ速さで」
澄人さんは自分の指で、宙を二回叩いてみせた。
見覚えのある動きだった。私が考え事をするときの癖と同じだ。
「へえ。うつったのかな、私の」
「……そうだね」
澄人さんは、困ったように笑った。
「うつったんだろうね」
何か言いたそうな顔に見えたが、澄人さんは何も言わなかった。この人は言わないと決めたことは、絶対に言わない。
言わない、で思い出した。
「澄人さん」
「うん?」
「私宛ての連絡って、全部澄人さんのところに行きますよね」
巻尺を巻き取りながら、なるべく軽く言った。
「VESPERの人から、何か来てませんか。この前ライターさんが、鳴海さんが仕事をしたがってるって」
澄人さんの顔は、変わらなかった。変わらないまま、返事が半拍遅れた。ドラマーは半拍に敏感である。
「糸音ちゃんが気にするようなものは、何も来ていないよ」
「気にするかどうかは、私が決めることじゃないですか」
責めるつもりはなかった。ただ、思ったことがそのまま出た。昨日から、どうも口が先に動く。
澄人さんが、黙った。静かになった。
「……俺が」
低い声だった。
「俺が、見せたくないんだ」
――俺。
「ごめん。言い方がよくなかったね。私のほうで判断して、必要なものはちゃんと渡すから。心配しなくていいよ」
さっきのが聞き間違えかと錯覚するほどに、いつもの声に戻っていた。眠くなるような、やわらかい声。
「……はい」
そう答えるしかなかった。
踏み台を下りようとして、足を置く場所を間違えた。台が傾く。
落ちる、と思う前に、腰を支えられていた。
大きな手だった。冷たいはずの手が、シャツ越しだと熱い。
「大丈夫?」
「……っ!大丈夫、です。すみません」
床に足がついた。ついたのに、手はすぐには離れなかった。
一秒。二秒。
三秒目で、澄人さんはゆっくり手を引いて、何もなかったように上着を取った。
その瞬間に袖口のボタンがひとつ取れかけているのを見かける。
「あっ!ボタン、取れかけてますよ。貸してください、三十秒で付けます」
「いいよ、あとで出しておくから」
「出すって、どこに」
「お直しの店に」
「ボタン一個で?」
「……うちは昔から、そうだったから」
お金持ちの家というのは、ボタンを自分で付けないものらしい。私は上着を取り上げて、針に糸を通した。
澄人さんは立ったまま、私の手元を見ていた。
縫っているあいだ、一言も喋らない。採寸のときと同じで、息まで静かだ。ただ、止めているのとは少し違う。音を立てたら消えてしまうものを見ている人の静かさだった。
「はい、できた」
糸を切って返すと、澄人さんは付け直したボタンを親指でそっと押さえた。
「ありがとう。……あたたかいね」
「アイロンは当ててないですよ」
「うん。そうじゃなくて」
そうじゃなくて、の続きはなかった。
この人は、ときどきこういう顔をする。おにぎりを半分に割ったときも、祖母のミシンの話をしたときもそうだった。台所に立つ人の背中を、廊下から眺めている子どもみたいな顔だ。
もしかして私は、母親みたいに思われているんだろうか。……四つも年下なのだが。
まあ、ボタンひとつ付けてもらったことのない人から見れば、針を持っている女はだいたいお母さんに見えるのかもしれない。喜んでいいのかどうか、微妙なところである。
「スープ、冷めないうちにね。明日は奏多だよね?あの子は鏡を見たがらないから、鏡に布を掛けておいてあげるといいよ」
扉が閉まった。
私はスープジャーの蓋を開けた。まだ湯気がでるくらいに熱い。
澄人さんは何も来ていない、とは言わなかった。気にするようなものは来ていない、と言った。つまり、何かは来ている、ということだろう。そしてそれを私が気にするかどうかを、あの人が決めている。
ここ数日、たまり始めてきた思考のくずを飲みこむように、スープジャーへ口をつけた。
生姜のスープは、腹が立つくらいおいしかった。
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