第10話 採寸
うちの場合、採寸は一人ずつやると決めている。三人まとめて呼ぶと、陽太がふざけ、かなが黙り、澄人さんが二人の面倒を見はじめて、いつまでたっても終わらないというカオスな状況になるからだ。
月曜の夕方、一人目は陽太だった。
「ういーす。服は脱ぐ?」
「脱がなくていい。Tシャツで立ってて」
「ちぇ」
何が「ちぇ」なのか。
「扉、開けとく?」
「閉めて。風で布やほこりが舞うから」
「……だよな」
陽太は扉を閉めて、閉めた扉を一回振り返った。毎回これを訊く。毎回同じ答えなのに。
作業部屋は事務所の一番奥にあって、広さは六畳。トルソーが三体と、ミシンが二台と、壁一面の布。私の城である。陽太はギターケースを壁に立てかけて、部屋の真ん中に立った。
巻尺を首にかけて、まず肩幅から。
「それ、メジャーって言うじゃん」
「言うね」
「俺らもメジャーだよな。一応」
「くだらないこと言ってないで、背中向けて」
「へい」
背中に回って、肩の端から端までを当てる。
「……陽太」
「ん」
「じっとして」
「してるって」
していない。かかとが浮いたり沈んだりしている。
もともと落ち着きのない男ではある。収録中の空き時間も、ラジオのCM中も、ずっとどこかが動いているのが常だ。ただ、採寸のときは毎回、輪をかけてひどい。目は天井と壁と床を順番に回っていて、私のほうだけ見ない。指はズボンの縫い目をずっといじっている。
ふと、陽太の耳がいつもより赤いことに気づいた。この部屋は布が多くて熱がこもる。もしかして、暑いのだろうか。
「46センチ。前より1センチ増えてるね」
「まじ? ……太った?」
「いや、筋肉だと思うよ。次、腕」
左腕を取って、巻尺を回して、手が止まった。
前腕が休止前より明らかに太い。それから指先。弦を押さえる左手の四本だけ、皮が厚く硬くなって、色が変わっている。先週テーピングを巻いたところは、もう新しい皮になっていた。
「……腕のサイズ変わってる。練習しすぎ」
「衣装屋に怒られた」
「怒ってない。心配してるだけ」
面と向かって言うのは照れくさいので、採寸表に数字を書き込みながら呟く。すると、陽太はへらっと笑って、天井を見た。
「まあ、そんくらいやんねえとさ。天才の横で弾くんだから」
鉛筆が止まった。
「普通のやつが天才の隣に立たせてもらうには、指の皮くらいしか払えるもんがねえんだよ」
聞き覚えがあった。どこで聞いたんだっけ、と考えて、すぐに分かった。聞いたのではない。私が毎回、ドラムの椅子の上で自分に言っていることだ。ほとんど同じ言葉で。
「……陽太は、天才側でしょ」
「は?」
「かなのデモ、三日で弾けるようにするんだから。普通の人は三日じゃ無理だよ」
陽太はしばらく私の顔を見て、それから吹き出した。
いつもの笑い方ではなかった。腹から出た、音の大きい、ちょっと間抜けな笑い方だ。久しぶりに聞いた。
「お前にだけは言われたくねえわ」
「なんでよ」
「なんでもだよ。あー、腹いてえ」
意味がわからない。分からないが、陽太が本当に笑ったので、まあよしとする。
「俺さ」
笑いがおさまってから、陽太が言った。
「初ライブで曲止めたの、覚えてる?」
「覚えてるよ。高一の秋」
忘れるわけがない。四人で初めて人前に立った日だ。二曲目の途中で、陽太のギターがリズムからこぼれた。戻ろうとして、もっとずれて、最後には手が止まった。曲が止まって、ライブハウスが静かになった。
私はドラムの後ろで、スティックを握ったまま固まっていた。あの数秒の長さを、今でも体が覚えている。
「あんとき、最初に拍手したの、澄人さんなんだよな」
「うん」
「まだ会って半年くらいでさ。スタジオの受付のお兄さんで、キーボード頼んで三か月とかで。それがステージの上で、鍵盤から手ぇ離して、俺に向かって拍手したの」
そうだった。静まり返った客席より先に、ステージの上から拍手が鳴った。それにつられてお客さんが手を叩いて、かなが「もう一回やります」と言って、私がもう一度カウントを数えた。
「あれ、なんであんな早かったんだろな」
陽太は自分の左手を見ていた。
「普通、固まるだろ。俺が止まった瞬間、もう叩いてたんだよ、あの人。止まるってわかってたみてえに」
「訊いたことないの?」
「ある。『なんとなく』って笑われた」
澄人さんらしい答えだ。でも、言われてみれば不思議だった。あの人は、誰かが失敗して空気が止まる瞬間に、いつも一番早くフォローする。
「はい、次。胸囲。腕上げて」
「へい」
正面に回って、脇の下から巻尺を通す。背中で交差させて、胸の前で合わせる。目盛りを読むには、どうしても顔が近くなる。
陽太が、急に喋り出した。
「……そういや昼なに食った?俺カレー。駅前の。あそこ福神漬け取り放題でさ、今日は三回おかわりして」
「ちょっと、喋らないで。胸が動いて数字が変わる」
「……はい」
黙ったら黙ったで、今度は握った両手が開いたり閉じたりしている。目は天井に貼りついたままだ。平気な顔を作っているつもりらしいが、口の端がひくひくしている。
「94」
目盛りを押さえたとき、陽太の心拍が指先から伝わってきた。速い。ドラマーなので、テンポはだいたいわかる。130くらいはあるんじゃないだろうか。立っているだけの人間の速さではない。
「もしかして陽太、熱ある?」
「は?……ねえと思うけど」
「脈、速いよ」
「な?!……それはさっき、笑いすぎたからだろ」
笑ってからもう五分は経っているのだが。
額に手を当てようとしたら、陽太は一歩下がって、また笑った。今度は、いつものほうの笑い方だった。
「大丈夫だって。次なに、ウエスト?」
「うん」
巻尺を回しながら、私は少しだけ考えた。
さっきの何かを閉めるような笑み。陽太にとって人前に出るときや、何かを取り繕うときに出る笑顔だ。あの笑顔をするとき、陽太はだいたい何かを隠している。
ただ深く突っ込んでも話してくれないことが見えているので、あえて深く聞くことはしない。自分から話したくなったときに、話してくれるだろうし、親しき仲にも礼儀は必要である。
採寸が終わって、陽太がギターケースを担ごうとしたときだった。
留め金がひとつ外れていたらしい。蓋が半分開いて、ケースの内ポケットから何かがすべり落ちた。
封筒だった。白く長い封筒。角が丸くなって、折り目のところが毛羽立っている。何年もそこに入っていた紙の傷み方だ。表に、会社の名前らしい印刷が見えた。
拾おうとした私の手より先に、陽太がものすごい速さでそれを拾った。封筒はギターケースの内ポケットに戻って、留め金が二つとも、ぱちん、ぱちんと閉められる。
「陽太」
「ん?」
「何か隠してる?」
自分でも驚くらい、自然にその言葉が口をついて出た。いつもなら訊かない。なのに今日は、口のほうが先に動いた。
陽太は笑ったまま、二秒ほど黙った。
「昔のファンレター」
「嘘」
「嘘じゃねえって。恥ずいから見せねえだけ」
「会社の名前が印刷してあるファンレター?」
「……目ぇいいな、お前」
「スタイリストなので」
陽太はケースを肩にかけて、扉のところまで行って、振り返った。
笑っていなかった。
「捨てそびれてるだけ。もう終わった話」
「終わった話を、毎日持ち歩いてるの」
「お守りみてえなもん」
「何の」
「俺がここにいんのは、自分で選んだからだっていう」
それだけ言って、陽太はいつもの顔に戻った。
「じゃ、お先。明日は澄人さんだろ?あの人、採寸のとき息止めっから、倒れる前に終わらせてやれよ」
扉が閉まった。
私は採寸表を見下ろした。太くなった腕、硬くなった皮膚。陽太の2年間の努力が数字にも表れている。
「自分で選んだ」ということは、選ばなかった何かがあったということだ。社長の「一人分」の話に加えて発覚した陽太の封筒。
どうも私は、自分のバンドのことを、思っていたほど知らないらしい。
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