第9話 七割二分
十月二十四日、土曜日。午前十時。
事務所の会議室で、陽太がノートパソコンの更新ボタンを連打していた。
「連打しても増えないよ」
「気持ちの問題だろ」
今日はアリーナ公演の一般発売日。画面にはチケットの残り枚数を示す棒が出ていた。発売から五分で、棒はぐんと伸びたのだが、たった十分で伸びが鈍くなった。そして、三十分で止まった。
――七割二分。
陽太は更新ボタンから指を離して、椅子の背にもたれた。
「ま、まだ初日だし」
笑っているが口角が上がり切っていない。
澄人さんは窓際で電話をしていて、戻ってくると「追加の告知を打ちましょう」とだけ言った。かなは最初から画面を見ていない。長机の端でイヤホンをして、指だけが机の上で動いている。鍵盤を弾く形だ。
二年前、同じ会場のチケットは先行だけで消えた。あのときも四人でこうして画面を見ていた。陽太が椅子ごとひっくり返って、澄人さんが珍しく声を出して笑って、かなは私の袖をつかんだまま離さなかった。
その公演を、私たちはやらなかった。多くのファンは落胆したし、二年も待たせたせいで、三割が待つのをやめたのは事実だ。数字にすると心臓がギュッと掴まれる感覚になる。
会議室の空気が重くなってきたので、私は作業部屋に戻ることにした。売れていようがいまいが、衣装は縫わなければ出来上がらない。
階段の踊り場で、社長が缶コーヒーを飲んでいた。
「見たか」
「見ました。今のところ七割二分です」
「……そうか」
社長はそれきり黙る。この人は苦しいときほど口を開かない。
私も隣で壁にもたれた。一階のクリーニング屋から上がってきた、蒸気の匂いが鼻先に漂ってくる。
「……三好は、どうだ。やりにくくねえか」
急な問いに驚きつつも、私はこれまでの記憶を辿りながら答えた。
「全然。真面目だし、メモ魔かってくらい記録もしてくれて私たちのことを知ってくれているので、助かってます」
「そうか。それならよかった」
「そういえば、今回は男の人なんですね。前のマネージャーさん、ずっと女性だったのに」
深い意味はなかった。世間話のつもりだった。
社長は缶を口から離して、少し考えてから言った。
「……奏多がな。女の人が相手だと、気ぃ遣いすぎて一日もたねえんだよ。外の顔を一日中外せなくなる。前の子のときは、帰りの車で毎回電池が切れてただろ」
言われてみれば、そうだった。かなは、女性のスタッフさんの前では最後まで明るい久遠奏多のままでいる。それが礼儀だと思っているのだ。そして家に帰ってから、丸一日寝込む。
「……私も女なんですけどね」
「お前は勘定に入ってねえ」
「失礼な」
「褒めてんだよ」
どこがだ。
「それにな」
社長は空になった缶を、手の中で一回つぶした。
「女のマネージャーを付けると、世間がまた、あることないこと言い出すだろ。誰と誰がどうだとか。そういうのは、もう一人分で手一杯」
そこで、社長の言葉が切れた。
「一人分……?」
「……いや」
社長の手の中にある缶コーヒーがミシっと圧力に音を上げる。
「なんでもねえ。アリーナの衣装、間に合いそうか」
「はい、間に合わせます」
「頼むわ」
階段を上がっていく背中を見送って、私はしばらく踊り場に残った。
一人分。もう、一人分。
つまり、すでに誰か一人、あることないこと言われている人がいる、という意味だ。うちの関係者で、女は私しかいない。ということは、だ。
……まあ、多少は言われているんだろうな、とは思っていた。男三人の中に女が一人いれば、面白くない人だっているだろう。本番前に一瞬見えた通知のことも、忘れたわけではない。
でも、社長が人事を変えるほどのことなのか。手一杯、と言うほどのことなのか。
私はスマホを取り出して、SNSのアイコンの上に親指を置いた。置いて、やめた。
自分の名前は検索しない。休止のときに決めたことだ。一度見たときに、三日くらいスティックがうまく握れなくなった。叩けなくなるくらいなら、見ないほうがいい。私の仕事は、叩くことと縫うことなのだから。
スマホをポケットに戻す。戻したのだが、胸のあたりに小さな糸くずが引っかかったみたいな感じが、作業部屋に戻っても取れなかった。
いつもなら「まあいいか」で流せるのに。今日は、なぜか流れていかなかった。
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