第8話 監察官の警告と、温かいポトフ
地下九十層、古代祭壇の冷え切った空気に、情けない腹の虫の音が長く、重く響き渡った。
「…………っ」
少女の白磁のような頬が、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染まっていく。
二本の小さな黒い角が、恥ずかしさからかピクリと情けなく垂れ下がった。
だが、その羞恥心よりも強烈だったのは、鼻腔をくすぐる凶悪なまでの『匂い』だった。
じっくりと煮込まれた丸鶏の濃厚な脂の甘み。
迷宮の自生ハーブが放つ爽やかな芳香と、柔らかく火を通された根菜の土の温もり。
ここが何百年間も誰も立ち入らなかった奈落の底であることを完全に忘れさせる、あまりにも場違いで、暴力的においしそうな湯気。
少女の紫水晶の瞳が、スープ皿とリーゼロッテの顔を何度も行ったり来たりする。
喉がゴクリと鳴った。
そこへ――。
「――待てッ! リーゼ、それ以上近づくな!」
背後から、張り詰めた怒声が飛んできた。
駆け寄ってきたカインが、腰の短剣を逆手に構え、外套を鋭く翻しながら祭壇の石段を駆け上がってくる。
その顔には、いつもの気の抜けた気配は微塵もない。
「おい、冗談じゃねえぞ! よく見ろ、そいつの頭の角と魔力の質を! 国際ギルド規約第4条、『迷宮内における未確認危険知性体』の定義に完全に合致してる!」
カインは懐から真鍮の留め金がついた査察手帳を抜き放ち、鋭い切っ先のように突きつけた。
「未確認の魔族個体だ! しかも、古代の多重封印を自力で引きちぎりかけるレベルの特級厄災指定だぞ! 刺激するな、これ以上の接触は即時中止だ! 距離を取って隔離結界を展開し、ギルド中央本部の特務部隊に引き渡すのが正規の規定なんだよ!」
カインの放った『魔族』『特務部隊』という不穏な単語。
その刺々しい響きに反応したのか、少女の身体がビクリと跳ね上がった。
途端に、引っ込みかけていた漆黒の炎が再び角の根元からチリチリと噴き出し始める。
紫水晶の瞳に、再び怯えと敵意の色が戻りかけた。
だが。
「うるさいわね、カイン。少し黙っていなさい」
リーゼロッテは振り返りもせず、すまし顔で背後の監察官を一刀両断した。
「おい、リーゼ!?」
「あなたのその分厚い規約手帳には、『空腹で泣きそうな子供の目の前で大声を張り上げろ』なんて書いてあるのかしら? そんな下品な規定があるなら、ギルド本部の教育を疑うわ」
「そうじゃねえ! 俺の職責は、お前の安全確保とギルド協定の厳格な適用だ! そいつがどんな危険な術式を隠し持ってるかも分からねえのに、不用意に手を出すなって言ってんだよ!」
「危険も何も、見れば分かるでしょう」
リーゼロッテは木製のスプーンを深皿のスープに浸し、柔らかく煮込まれたジャガイモと肉をすくい上げた。
「低血糖で指先が震えているし、魔力の逆流で胃壁が悲鳴を上げているわ。このまま放置すれば、暴走云々の前に餓死か脱水症状で内臓が機能停止するわよ。生命の危機に瀕している者を目の前にして書類の話をするなんて、職務怠慢以前に人として三流ね」
「ぐっ……! じ、人として三流って……俺は公務員として規則をだな……!」
「はいはい、優秀な公務員様。文句があるなら、私がこの子に一口食べさせた後で、査察票に減点でも何でも書きなさいな」
リーゼロッテは完全にカインをシャットアウトすると、再び少女へと向き直った。
視線を同じ高さに保ち、スプーンをふーふーと息を吹きかけて冷ます。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
目の前に差し出された、黄金色のスープ。
少女は身を固くしたまま、動けない。
自分を縛り付けていた者たちは、いつも冷たい石のようなパンか、泥の混ざった水しか寄越さなかった。
それすらも、彼らが「まだ生きているか」を確認するための作業でしかなく、少しでも唸り声を上げれば容赦ない電撃が鎖を通して全身を焼いた。
目の前の人間は、なぜ笑っているのか。
なぜ、自分を焼き殺そうとも、切り刻もうともしないのか。
(……毒、かも……しれない……)
怯えた思考が、少女の小さな脳裏をよぎる。
痛めつけて、喜ばせて、最後に絶望させるための罠なのかもしれない。
これまで受けてきた理不尽の記憶が、口を開くことを激しく拒絶していた。
少女はギリ、と奥歯を噛み締め、差し出されたスプーンを細い腕で思い切り払いのけようとした。
パシッ――!
甲高い音が鳴るはずだった。
だが、少女の痩せ細った手が宙を切るより先に、横からスッと伸びてきた革手袋の大きな手が、少女の小さな手首を優しく、しかし確実に包み込んで止めた。
「……あ?」
見上げると、そこには眉間にこれ以上ないほど深い皺を寄せた、茶髪の男の顔があった。
先ほどまで「危険知性体だ」「隔離しろ」と騒いでいたはずのカインだった。
「……ったく、どいつもこいつも言うこと聞きやがらねえ」
カインは深い深いため息を吐き出すと、懐から取り出した布巾で、リーゼロッテの皿から零れそうになったスープの雫を器用に拭い取った。
そして、手首を掴まれたまま目を白黒させている少女を見下ろし、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「おい、ガキ。……そいつの飯に毒は入ってねえよ。保証してやる」
「……え?」
「そいつはな、頭のネジが数本ぶっ飛んでる戦闘狂の学者だが、料理に毒を盛るような陰気な真似は死んでもしねえ。むしろ素材の鮮度と栄養バランスに命をかけてる偏執狂だ。……信じて食え。腹が減ってちゃ、ろくに威嚇もできねえだろ」
「カイン……」
リーゼロッテが琥珀色の瞳を丸くして見つめると、カインはフンと顔を背けた。
「勘違いすんなよ、リーゼ。ギルド緊急救護規定第2条、『要救助対象の生命維持措置』を現場判断で適用しただけだ。俺は職務を全うしてるだけだからな」
「ふふっ。素直じゃないところも、公務員らしくて素敵よ」
「うるせえ、早く食わせろ。冷めちまうぞ」
男の不器用な言葉。
そして、手首を通して伝わってくる、確かな体温。
痛めつけるための力ではなく、ただ乱暴に自分を支えてくれている手の温もり。
少女の目から、ポロリと一筋の雫が零れ落ちた。
もう、我慢の限界だった。
リーゼロッテがもう一度、そっと差し出したスプーン。
少女はおずおずと小さな口を開き、震える唇で木製の匙を咥え込んだ。
「――っ!」
口いっぱいに広がる、暴力的なまでの旨味。
じっくりと煮込まれたチキンの濃厚なコクが舌の上でとろけ、野菜の優しい甘みが乾ききった喉を潤していく。
ただ美味しいだけではない。
スープに含まれた極小の魔力が、リーゼロッテの絶妙な調律によって、傷ついた胃壁と乱れた血流を内側からじんわりと癒やしていくのが分かった。
温かい。
生まれて初めて味わう、本物の『温もり』だった。
「……おい……しぃ……」
掠れた、震える声が少女の唇から漏れた。
次の瞬間には、少女はなりふり構わず、両手でリーゼロッテの持つ深皿の縁にしがみついていた。
「おい、こぼすな! 落ち着けって!」
カインが慌てて皿を支える。
少女はスプーンを使うのももどかしいように、ハフハフと息を吐きながら、夢中で黄金色のスープを啜り始めた。
柔らかい鶏肉を咀嚼し、甘い人参を呑み込む。
頬を泥と涙でぐしゃぐしゃに濡らしながら、まるで砂漠で水を求める旅人のように、一心不乱に胃袋へと流し込んでいく。
「ゆっくりでいいのよ。おかわりなら、まだ大鍋にいくらでもあるわ」
リーゼロッテは穏やかな笑みを浮かべ、スープを貪る少女の頭へ、そっと手を伸ばした。
触れれば呪われると恐れられていた黒い巻き角。
そのすぐ隣の、埃まみれの銀灰色のくせ毛を、慈しむように優しく撫でる。
ビクッと身体を震わせながらも、少女はもう逃げようとはしなかった。
頭頂部から伝わってくる、心地よい手のひらの温もりを受け入れながら、最後の一滴まで残さずスープを飲み干した。
「ぷはっ……!」
深皿が完全に空になり、底が見えた。
少女は息を弾ませながら、リーゼロッテの顔を、そして隣で苦笑いしているカインの顔を、涙の滲んだ紫水晶の瞳で見上げた。
「ふぅ……綺麗に完食ね。偉いわ」
リーゼロッテが満足そうに頷き、エプロンのポケットから綺麗な麻のハンカチを取り出した。
スープで汚れた少女の口元を、手際よく拭ってやる。
胃袋が温かいもので満たされたことで、少女の身体からトゲトゲしい殺気が急速に霧散していく。
だが――。
ジャラランッ!
少女が身動ぎした瞬間、八本の黒曜石の杭から延びる分厚い鎖が、けたたましい金属音を立てて跳ね上がった。
満腹になったことで自然と回復し始めた少女の魔力に反応し、古代の呪詛拘束具が再び青黒い火花を散らし始めたのだ。
「ぎっ……!?」
少女が痛みに顔を歪め、手首を庇うように小さく縮こまる。
肉に食い込む金属の輪。
内側から湧き出る魔力を逆流させ、少女の神経を直接焼き焦がす拷問のような痛みが、再び彼女を襲おうとしていた。
「チッ、魔力が戻ったせいで拘束術式が再起動しやがったか!」
カインが舌打ちする。
「リーゼ、下がれ! その拘束具は古代魔導の産物だ、下手に触れば反動の呪詛がお前にも――」
「カイン」
リーゼロッテは立ち上がり、背中の漆黒のミスリル大剣へと手を伸ばした。
「お腹いっぱい食べた後は、お昼寝をするのが子供の義務よ。……こんな無粋な鉄くずで邪魔をされる筋合いはないわ」
スチャリ、と大剣の切っ先が抜かれ、暗闇の祭壇を冷たく照らし出した。
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