第9話 威嚇と無力化
古代祭壇の中央で、紫色の電火がバチバチと激しい音を立てて爆ぜた。
八本の黒曜石の杭から延びる分厚い鎖。
スープによって魔力がわずかに回復したことで、少女の手首と足首を締め上げる拘束具が過剰に反応し、再びその小さな身体をギリギリと締め上げ始めていた。
「ぎっ……、あ……っ!」
激痛に顔を歪め、少女が小さく身を縮める。
肉を焼き焦がすような青黒い呪詛の光膜が手足にまとわりつき、少女の体内の魔力回路を逆流させようと暴れていた。
その時、少女の瞳に映ったのは――。
暗闇を切り裂くように抜かれた、漆黒の巨大な刀身だった。
冷たく光るミスリルの刃。
自分の身長よりも遥かに大きな質量を誇る凶器を、目の前の人間が片手で構え、真っ直ぐにこちらへと切っ先を向けている。
(……殺される……っ!)
恐怖が、少女の小さな頭蓋を白く染め上げた。
美味しいものを食べさせて油断させ、動けなくなったところを一思いに切り刻むつもりだったのだ。
これまで受けてきた裏切りと暴力の記憶が、濁流のように脳裏を駆け巡る。
グルルルルァァァッッ!!
少女は喉を引き裂かんばかりの獣のような絶叫を上げた。
二本の黒い巻き角から、ドス黒い炎が再び激しく吹き荒れる。
拘束具が肉に食い込み、骨が軋むのも構わず、少女は前へと跳びかかった。
近づいてきたリーゼロッテの白く細い喉笛めがけて、牙を剥き出しにして噛みつこうと飛び出したのだ。
「リーゼッ!!」
背後でカインの悲鳴に近い警告が轟いた。
だが。
「こら。行儀が悪いわよ」
スッ、と風が撫でるような速度で、リーゼロッテの左手が少女の頭上へと滑り込んだ。
牙が届くよりも一瞬早く、柔らかい手のひらが、少女の埃まみれの銀灰色のくせ毛をポンと優しく押さえつけた。
ただ押さえつけたのではない。
頭蓋骨のツボ、そして神経の緊張を解く経絡の位置へと、極めて微小な振動魔力をトントンと指先で流し込む。
「ふあ……っ!?」
少女の全身から、まるで糸が切れたように脱力した。
飛びかかった勢いは完全に殺され、牙はリーゼロッテの首筋に触れることすら叶わず、ぽふっ、と彼女の胸元へと抱きとめられる形になった。
「はい、落ち着いて。噛みつくのは、お行儀の良い子のすることじゃないわ」
リーゼロッテは抱きとめた少女の背中を、まるで駄々をこねる幼児をあやす母親のように優しく撫でた。
「な……っ、は、な……せ……!」
少女は必死にもがこうとする。
だが、リーゼロッテの胸元からは、先ほどのスープと同じ、温かくて安心するハーブの香りがふわりと漂っていた。
全身を包み込む柔らかな温もりに、逆立っていた感情が急速に溶かされていく。
「さて。まずは、この無粋なアクセサリーを外しましょうか」
リーゼロッテは少女を左腕で軽々と抱き抱えたまま、右手に持った漆黒の大剣をくるりと反転させた。
刃ではなく、柄の末端――ミスリルと硬質魔導鉱石でできた重厚な柄頭(柄の底面)を、少女の手首に食い込む拘束具へと向ける。
「おいリーゼ、何する気だ!」
駆け寄ってきたカインが目を丸くして叫ぶ。
「その拘束具は古代魔界の多重封印だぞ! 物理的な衝撃を加えれば、術式が暴発して周囲ごと巻き込む自爆機構が組み込まれて――」
「コン」
乾いた、拍子抜けするほど小さな音が響いた。
リーゼロッテが大剣の柄頭で、拘束具の表面に走る紫色の術式ラインの『交差点』を、ほんのミリ単位の狂いもなく軽く小突いた音だった。
「……あ?」
カインの声が止まった。
少女も目を丸くして固まる。
次の瞬間。
ピキッ、ピキピキピキッ……!
黒曜石の杭から延びていた鎖全体に、細かな光の亀裂が走った。
暴力的な破壊ではない。
リーゼロッテが柄頭を通して送り込んだ『逆位相の魔力振動』が、何百年も幾重にも重ねられていた古代の呪詛術式の結合回路を、糸をほどくように内側からサラサラと解体していったのだ。
パリンッ!
まるで薄氷が割れるような涼やかな音と共に、手首と足首を締め付けていた分厚い金属の輪が、八本の鎖ごと光の粒子となって霧散した。
床に打ち込まれていた八本の黒曜石の杭も、魔力を失ってただの脆い炭の塊となり、ボロボロと崩れ落ちていく。
「……う、そだろ」
カインがその場に立ち尽くし、顎が外れそうなほど口を開けた。
「古代の特級呪詛拘束具を……大剣の柄でつついただけで無力化だと……!? 解呪の儀式も、聖水も使わずに……!?」
「当たり前でしょう。どれだけ強固に見える術式でも、魔力の供給ラインと循環の結び目は必ず存在するわ。そこを同じ周波数の魔力でツンと突いてあげれば、構造そのものが自重で崩壊するのよ。基礎的な魔導工学の応用ね」
「基礎で古代封印を叩き割れる人間がこの世にいてたまるかッ!」
カインの絶叫を涼しい顔で受け流しながら、リーゼロッテは少女をそっと石畳の上に座らせた。
だが、問題はここからだった。
「っ……、ぐ……ぅぅぅっ……!!」
少女が突然、胸をかきむしるようにして前屈みに倒れ込んだ。
拘束具という『無理やり魔力を押さえつけていた蓋』が消え去ったことで、彼女の体内に溜まりに溜まっていた莫大な黒炎の魔力が、一気に出口を求めて暴走を始めたのだ。
ドクンッ! ドクンッ!
少女の胸元が、激しい心拍と共に青黒く明滅する。
銀灰色のくせ毛が逆立ち、角の根元から吹き出した漆黒の炎が、彼女自身の皮膚を内側から焼き焦がそうと膨れ上がっていく。
「しまっ……! 拘束が解けた反動で、体内の魔力炉が暴走してやがる!」
カインが顔色を変えて叫んだ。
「これだから言ったんだ! 魔力を制御できねえ幼女の封印をいきなり解いたら、自分の魔力に呑まれて自滅するに決まってんだろ! リーゼ、離れろ! 魔力爆発が起きるぞ!」
「騒がないの、カイン。近所迷惑よ」
「ここは地下九十層だ! 近所なんかねえよ!」
リーゼロッテは慌てる様子など微塵も見せず、苦しみに悶える少女の背後へと回り込んだ。
大剣を床に突き立て、両手の手袋をパチンと外す。
そして、少女の華奢な背中――肩甲骨のちょうど真ん中に、素手をトンと当てた。
「――深呼吸。吸って、吐いて」
穏やかな、よく通る声が少女の耳朶を打った。
「私の呼吸に合わせなさい。あなたの魔力は、決してあなたを殺すためのものじゃないわ。ただ、巡る道を見失っているだけよ」
リーゼロッテの掌から、澄み切った黄金色の魔力が脈打った。
彼女の固有魔法――『魔力調律』。
少女の体内で荒れ狂っていた黒炎の濁流。
触れるものすべてを焼き尽くすその破壊魔力の中へ、リーゼロッテの魔力が躊躇なく分け入っていく。
呑み込まれることも、弾かれることもない。
まるで暴れ馬のたてがみを優しく梳かすように、少女の乱れきった魔力のリズムに自らの呼吸を完全に同期させていく。
「――『呼吸同期・循環流動』」
スー、ハー。
リーゼロッテがゆっくりと息を吸い、吐き出す。
その呼吸に合わせて、少女の背中に当てられた手のひらから、極小の魔力波が規則正しく送り込まれる。
逆流していた魔力の筋が、正しい巡りへと押し戻されていく。
悲鳴を上げていた血管と経絡の摩擦熱が、冷たい清水を流し込まれたかのようにスッと引いていく。
「……あ……、ぁ……」
少女の紫水晶の瞳から、濁った赤みが急速に消え去っていった。
荒れ狂っていた黒炎は、次第に小さくなり、やがて角の根元へと静かに吸い込まれるようにして鎮火した。
肌を焼く激痛が消えていく。
生まれてからずっと、胸の奥で暴れ続けていた熱い鉛のような苦しみが、嘘のように消え去っていた。
「……ふぅ。これでよし。循環回路の目詰まりを解消しておいたわ。これからは、感情が高ぶっても勝手に炎が吹き出したりしないはずよ」
リーゼロッテがポンと少女の肩を叩いた。
何事もなかったかのように立ち上がり、突き立てていた大剣を引き抜いて背中の鞘へと収める。
「…………っ」
少女は信じられない思いで、自分の両手を見つめた。
手首にも足首にも、あの忌まわしい鎖はない。
全身を苛んでいた激痛も、重苦しい魔力の圧迫感も、綺麗さっぱり消え去っている。
身体が、羽が生えたように軽い。
目の前にいる人間は、一体何者なのだろうか。
自分を苦しめ続けてきた呪いの鎖を一撃で粉砕し、一族の誰もが「厄災」「呪われた力」と忌み嫌った自分の魔力を、たった数秒撫でただけで手懐けてしまった。
呆然と見上げる少女の前に、再びコトッと何かが置かれた。
「はい、おかわりよ」
湯気を立てる、二杯目の深皿。
今度は、薄くスライスされた干し肉のソテーと、甘く煮崩れた人参がたっぷりと盛られている。
傍らには、清潔な木製のスプーン。
「さっきは落ち着いて味わえなかったでしょう? 冷めないうちに召し上がりなさい」
リーゼロッテは極上の、至って平熱の笑顔を浮かべていた。
その瞳には、魔族への差別も、破壊の力への恐怖も、微塵も存在しない。
ただ目の前にいる『お腹を空かせた子供』を見つめる、真っ直ぐで温かい光だけがあった。
「…………っ、う……ぅ……っ!」
少女の大きな瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
両手でスプーンを握りしめ、震える手でスープを口へと運ぶ。
温かい。
美味しくて、優しくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
少女はしゃくりあげながら、泥と涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死にスープを胃袋へと流し込み続けた。
その光景を、カインは頭を抱えながら見つめていた。
「……なぁ、リーゼ」
「何かしら、カイン」
「お前……本当に、自分が何をやったか分かってんのか?」
カインは深いため息をつきながら、真鍮の留め具がついた査察手帳をパラパラとめくった。
「魔族の上級個体の暴走魔力を、素手のマッサージ感覚で調律したやつなんて、大陸の有史以来お前しかいねえぞ。ギルドの魔導工学班が見たら、全員揃って卒倒して泡吹いて倒れるレベルの歴史的快挙なんだが?」
「失礼ね。マッサージじゃなくて、精密な魔力調律魔法よ。呼吸のリズムさえ合わせれば、誰にでもできる基礎技術だわ」
「できるわけねえだろ! お前の『基礎』は人類の『極致』なんだよ!」
カインの魂の叫びが、古代祭壇の天井へと虚しく木霊した。
やがて、スープを綺麗に飲み干した少女が、空になった皿を両手で大事そうに抱えながら、おずおずとリーゼロッテの服の裾を小さな指先でぎゅっと掴んできた。
見上げられた紫水晶の瞳には、先ほどまでの怯えや敵意は欠片も残っていなかった。
そこにあるのは、迷子の雛鳥が親鳥を見つめるような、絶対的な信頼と憧憬の眼差し。
「……さて。お腹もいっぱいになったことだし」
リーゼロッテは満足そうに微笑むと、祭壇のさらに奥――未踏の最深部へと続く大階段を見上げた。
「目的の『万能霊樹の雫』を採取しに行きましょうか。――地下百層へ!」
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