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第10話 特務監察官の苦渋の決断


 地下九十層の古代祭壇から、さらに下へと続く石段を下りきった先。

 未踏迷宮『常闇の螺旋穴』の最深部――地下百層は、これまでの暗黒と瘴気が嘘のように、神秘的な蒼白い光に満ちあふれていた。


 広大な空洞の中央にそびえ立っているのは、天井の岩盤を突き破らんばかりの巨木。

 半透明の青白い樹皮を持ち、葉の一枚一枚がダイヤモンドダストのような微細な燐光を散らしている。


 観測史上初、人類未踏の伝説――『万能霊樹』。


「……あったわ」


 リーゼロッテは感嘆の声を漏らし、静かにその大樹へと歩み寄った。

 大樹の幹の中央、自然に裂けた樹皮の窪みに、水銀のようにとろりとした黄金の液体が、小さな水たまりを作って揺らめいている。


「これよ。あらゆる呪詛と魔力障害を霧散させ、細胞を再生させる究極の触媒――『万能霊樹の雫』……!」


 リーゼロッテは手袋を外し、異空間収納の魔導カバンから純銀製の薬瓶とスポイトを取り出した。

 一滴もこぼさぬよう、極めて慎重に、かつ手慣れた手つきで黄金の液体を吸い上げ、遮光瓶へと移していく。


「よし、採取完了。これで私の魔力調律理論を組み込んだ、完全無欠の『超濃縮ポーション』が調合できるわ」


 満足そうに瓶の蓋を閉め、厳重に封蝋を施すリーゼロッテ。

 その背後で、カインが査察手帳にペンを走らせながら、呆れたように息を吐き出した。


「……査察記録。地下百層到達、目的の万能霊樹の雫の採取を確認。なお、最深部までの全行程において重大インシデントなし。……なしって書くしかねえのが本当に頭痛いぜ」


「何言ってるのよ、無事故無違反の優良遠征じゃない」


「九十層で魔族のガキを拾っておいてどの口が言うか!」


 カインが視線を落とした先。

 リーゼロッテの足元では、銀灰色のくせ毛ショートの少女が、所在なげにちょこんと座り込んでいた。


 頭の小さな黒い角は、リーゼロッテが即興で編んだ麻のキャスケット帽の下にすっぽりと隠されている。

 手足の呪詛拘束具は粉砕され、暴走していた黒炎の魔力もリーゼロッテの手によって完全に鎮められていた。

 先ほど平らげた二杯の温かいポトフのおかげか、白磁の頬にはほんのりと赤みが差し、紫水晶の瞳には穏やかな光が戻っている。


「さて、目的の素材も無事に手に入ったことだし、地上へ戻りましょうか」


 リーゼロッテが荷物をまとめ、背中の大剣の位置を直して踵を返した――その時だった。


 キュッ。


 微かな手応えに、リーゼロッテが足を止めた。

 見下ろすと、少女の小さな、痩せ細った指先が、リーゼロッテの作業着の裾を力いっぱい握りしめていた。


「……?」


 少女は顔を伏せたまま、震えていた。

 その小さな手には、骨が白く浮き出るほどの力が込められている。

 まるで、この手を一度でも離してしまえば、再びあの冷たく暗い奈落の底へ置き去りにされ、永遠の孤独と痛みに呑み込まれてしまうと怯えているかのように。


「……あの」


 蚊の鳴くような、掠れた小さな声。

 少女がおずおずと、涙の滲んだ紫水晶の瞳を上げてリーゼロッテを見上げた。


「……おいて、いかないで……」


 ひび割れた唇から零れ落ちた、魂の底からの懇願。


「……」


 リーゼロッテは何も言わず、ただ静かに少女の前にしゃがみ込んだ。

 そして、作業用の上質な手袋をつけた手で、少女の頭をふわりと優しく撫でた。


「置いていったりしないわよ。当たり前でしょう」


「おい、待て待て待てッ!」


 横からカインが血相を変えて割り込んできた。

 真鍮の金具がついた黒革の査察手帳をバッと広げ、ふたりの間に強引に割り込む。


「リーゼ、お前まさか地上まで連れて行く気か!? さっきのセーフティエリアでの応急処置は『現場の緊急救護』として誤魔化せたが、地上に連れ出すとなれば話は別だぞ!」


 カインは眉間に深い皺を刻み、手帳のページをバンと指差した。


「そいつは魔族の、それも上級貴族クラスの血統だ。頭の角も、体内に秘めた黒炎の魔力も、普通の人間社会じゃ絶対に受け入れられねえ。地上に出た瞬間、隣国の軍部や本国の王宮に嗅ぎつけられて『危険生物』として即座に抹殺対象になるか、魔導院の実験室で解体されるのがオチだ!」


「解体? 誰が誰を解体するって?」


 リーゼロッテの琥珀色の瞳が、スッと冷ややかに細められた。

 その眼差しに宿った絶対零度の威圧感に、元Sランク冒険者であるカインの背筋がヒヤリと凍りつく。


「私が見つけた採取物……コホン、保護対象に、どこの馬の骨とも知れない役人が指一本触れることなんて許さないわ。横取りしようとするなら、その腕ごと大剣で叩き割るだけよ」


「力技で外交問題を起こすんじゃねえ! 俺のクビどころか首が飛ぶんだよ!」


 カインは頭を抱え、天を仰いで絶叫した。

 だが、リーゼロッテの頑固さは誰よりも知っている。一度こうと決めた彼女は、巨大竜のブレスの直撃だろうが王太子の命令だろうが、文字通り一ミリも退かない。


 その時、少女がおずおずとカインの顔を見上げた。

 手帳を握りしめ、自分を追い払おうと騒いでいるはずの男。

 けれど、少女はその男の瞳の奥に、かつて自分を閉じ込めた者たちのような冷酷な悪意がないことに気づいていた。

 さっき、スープをこぼしそうになった自分を手伝ってくれた、あの乱暴だけど温かい手の持ち主だ。


 少女は恐る恐る、リーゼロッテの裾を掴んでいないほうの小さな手を伸ばし、カインの黒革の外套の裾を、ツンと小さく引っ張った。


「……?」


 カインが視線を落とす。

 そこには、怯えながらも、必死に自分を見つめてくる幼い魔族の姿があった。


「……おじさん、も……おいて、いかないで……?」


「お、おじさん……!?」


 カインの表情が劇的に引きつった。


「だ、誰がおじさんだ! 俺はまだ二十四だぞ! エリート監察官のピチピチの青年だ!」


「あら、二十四なら子供から見れば立派なおじさんよ。諦めなさい、おじさん」


「うるせえリーゼ! お前のそのテキトーな教育が一番子供に悪影響なんだよ!」


 カインは悪態をつきながらも、外套の裾を掴む少女の小さな指先を乱暴に払いのけることはできなかった。

 孤児院出身の叩き上げ。

 身寄りがなく、力だけを理由に大人たちの都合で振り回される子供の境遇を、カインは誰よりも嫌悪していた。


「…………チッ」


 カインは盛大な舌打ちを一つ放つと、黒革の査察手帳を乱暴にめくり、新しいページへとペンを走らせた。


「……ギルド緊急規約第十二条、『迷宮深層における特異生態系の暫定保護および査察規定』を現場判断で適用する」


 カリカリと乾いたペンの音が響く。


「対象の魔族個体は、未踏迷宮地下九十層にて拘束状態のところを発見。生態調査および国際安全保障上の観点から、地上移送完了まで『ギルド特務監察官カイン・レドフォード』の直轄下において暫定保護・仮預かりとする」


「カイン……」

 リーゼロッテが口元を緩める。


「勘違いすんなよ、リーゼ」


 カインは手帳をパチンと閉じると、極めて冷徹な、しかしどこか不器用な視線で少女を見下ろした。


「地上に出たら、隣国のギルド都市で身元照会と魔力測定の書類審査を俺が全部代行する。そして本国へ戻ったら、お前のアトリエを『ギルド公認の経過観察施設』として書類を偽造……じゃなくて正式申請する。いいか、お前が勝手にアトリエに連れ込んで隠匿したら国家反逆罪だが、ギルドの公式な査察観察下に置けば、王宮の連中も手出しはできねえ」


「まあ。さすがはギルド中央本部が誇るエリート監察官様ね。法の抜け穴を突く手際の良さは天下一品だわ」


「抜け穴言うな! 俺は規則の範囲内で最大限の事務処理をしてるだけだ! ……ったく、地上に戻ったら徹夜で報告書の山を書く羽目になるぜ……」


 カインは肩を落とし、疲れ切った様子でため息をついた。

 だが、その横顔には、職務を全うする大人の覚悟が確かに宿っていた。


「ほら、ガキ。地上に出るまで、俺の外套の端っこ掴んどけ。迷宮の転移陣で弾き飛ばされたら面倒だからな」


「……! うん……!」


 少女は嬉しそうに頷き、カインの外套の裾をぎゅっと握り直した。

 右手にはリーゼロッテの服の裾、左手にはカインの外套。

 二人の大人にしっかりと挟まれ、少女の歩幅に合わせて、一行はゆっくりと百層の階段を登り始めた。


 未踏の秘宝『万能霊樹の雫』と、思わぬ小さな拾得物。

 大いなる収穫を手に、リーゼロッテたちの「長期有休」の迷宮探索は、ここに幕を閉じた。


 だが――。

 地上で彼女たちを待ち受けていたのは、平穏なスローライフなどではなかった。


 自らの無能によって国の心臓を破壊し、パニックに陥った本国の王宮。

 そして、己の責任を逃れるために、悪役令嬢を再び泥沼の権力闘争へと引きずり戻そうと企む、愚かな貴族たちの魔の手が、刻一刻と迫りつつあったのである。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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