第11話 地上帰還と身元調査
眩いばかりの陽光が、視界いっぱいに広がった。
地下百層の静寂と冷気から一転、肌を撫でるのは初夏の乾いた風と、迷宮都市特有の活気ある熱気だった。
「……あ」
地上出口の転移門をくぐり抜けた瞬間、隣を歩いていた小さな身体がビクリと跳ねた。
リーゼロッテの手を握りしめていた少女が、強烈な太陽光に目を細め、思わず顔を伏せる。
その頭部には、リーゼロッテが地下で手編みした麻のキャスケット帽が深く被せられていた。
さらに地上へ上がる直前、リーゼロッテが自身の『魔力調律』を用いて、帽子の繊維一本一本に「認識阻害」と「魔力遮断」の二重術式を編み込んであった。
外見上は、ただの深編み帽をかぶった小柄な人間の子供にしか見えない。黒い二本の巻き角はもちろん、特異な黒炎の気配も完全に外部から遮断されていた。
「大丈夫よ。ゆっくり目を慣らしなさい」
リーゼロッテが優しく声をかけると、少女はおずおずと顔を上げ、生まれて初めて見る青い空と白い雲を、紫水晶の瞳を潤ませながら見上げた。
「……そ、ら……?」
「ええ、空よ。もう冷たくて暗い地下に戻る必要はないわ」
その穏やかなやり取りの背後で、カインが懐中時計をパチンと鳴らした。
「……総所要時間、往復でジャスト十八時間。地下百層の未踏領域へ行って帰ってきたタイムじゃねえな。近所の裏山への散歩かよ」
「あら、予定通りのスケジュールじゃない。採取も完璧に終わったし、最高の遠征だったわ」
リーゼロッテは満足げに背中の荷物を揺らした。
だが、ふたりを迎えた周囲の反応は、そんな平熱の空気とはまるで正反対だった。
転移門の周囲を取り囲んでいた警備兵やギルド職員たちが、まるで幽霊でも見たかのように口をあんぐりと開けて立ち尽くしている。
やがて、その人垣を押し分けるようにして、豪奢な毛皮の外套を着た白髪の老人が血相を変えて転がるように駆け寄ってきた。
ガルディニア帝国直轄・迷宮都市ルクスヴァルトのギルド支部長である。
「カ、カイン特務監察官殿ォォッ! ご無事で……いや、まさか、もう戻られたのですか!?」
「ああ。予定通り百層まで行って、目的のブツを採取してきた。ギルドの査察規約に則り、これが踏破証明の空間ログだ」
カインが無造作に差し出した水晶板。
そこには、地下百層にしか存在し得ない高純度エーテルの波長と、万能霊樹の空間座標がくっきりと刻印されていた。
「ひ、百層……ほ、本当に人類未踏の最深部を踏破されたと……!? た、たったの二人……いや、三人で!?」
支部長の顔が驚愕と恐怖で引きつり、膝がガクガクと震え始める。
かつて帝国の誇る近衛魔導軍団が数百人規模で挑み、三ヶ月の補給線を敷いた上で壊滅的被害を出して撤退した絶対の死地なのだ。それを、昨日やってきたばかりの若い監察官と、世間知らずに見えた貴族令嬢が、わずか半日で日帰り登頂してきた。
帝国軍の面子も常識という名の概念も、音を立てて粉々に砕け散っていた。
「おい、支部長。腰抜かしてる暇があるなら、至急奥の特別査察室を開けろ」
カインが鋭い眼光で支部長を射抜く。
いつものやる気のなさそうな態度は完全に消え失せ、大陸中を震え上がらせる特務監察官の冷徹な空気が宿っていた。
「深層回収物に関する非公開の事後処理だ。帝国の軍部や情報部には絶対に嗅ぎつけさせるな。外部の人間を一切近づけるなよ。情報の漏洩があれば、帝国支部の査察評価を最低ランクまで叩き落とすぞ」
「は、はひぃぃっ! ただちに、ただちに最上階の防音査察室をご用意いたしますッ!」
支部長は直立不動で悲鳴のような返事を上げ、脱兎の勢いでギルドの奥へと走っていった。
***
ギルド本部の最上階、重厚な防音結界が張り巡らされた特別査察室。
柔らかな革張りのソファに、少女がちょこんと座っていた。
テーブルの上には、リーゼロッテが手早く淹れた温かいミルクティーと、ギルドの厨房から調達させた焼き立てのバターサブレが山盛りに置かれている。
少女はキャスケット帽のつばを指先で押さえながら、恐る恐るサブレを小さな両手で持ち、サクサクと夢中で齧り付いていた。
「……おいしい」
「喉に詰まらせないように、お茶も飲みなさいね」
リーゼロッテが穏やかに微笑み、少女の口元についた菓子の粉を指先で払う。
その姿は、未踏迷宮を単身で叩き割ってきたドラゴンスレイヤーとはとても思えない、面倒見のいい家庭教師そのものだった。
一方、部屋の隅の長机では、カインが何枚もの羊皮紙と魔導照会器を前に、凄まじい速度でペンを走らせていた。
壁一面に展開された魔導光のスクリーンには、複雑な魔法陣の幾何学模様と、少女から採取した微小な魔力波長の解析グラフが投影されている。
「……カイン、分析は終わったかしら?」
リーゼロッテがカップを置き、カインの背中へ声をかけた。
カインは深く息を吐き出し、ペンを置くと、眉間に深い深い皺を寄せて振り返った。
「……笑えねえ結果が出たぞ」
カインは手にした羊皮紙を一枚、リーゼロッテの前のテーブルに置いた。
そこには、隣国ガルディニア帝国の古文書と、魔界の家系図を照合した極秘記録が記されていた。
「あのガキの魔力紋様、魔界の深層を統べる四大公家の一つ――『冥炎公家』の直系血統と九割九分一致した」
「冥炎公家……。魔界の貴族ね」
「貴族なんてもんじゃねえ。破壊の黒炎を操り、過去の大戦で人間側の防衛線を単騎で焦土に変えたって伝承が残ってるレベルの特級危険血族だ。……だが、記録を洗ってみたら、数年前にその冥炎公家の領地で大規模なクーデターと権力闘争があったらしい」
カインは腕を組み、重々しく言葉を続けた。
「本妻派の貴族どもが、側室から生まれた規格外の魔力持ちの落胤を疎んで、殺す代わりに他国の未踏迷宮の最深部へ遺棄した。あの古代遺跡の封印を強引に再起動させてな。それが真相だ」
「……なるほどね」
リーゼロッテはサブレを食べる少女の小さな頭へ、静かに視線を落とした。
生まれ持った強大すぎる力。
制御できずに暴走した黒炎の魔力を、大人たちは「呪われた厄災」と呼び、忌み嫌い、自分たちの権力闘争の邪魔者として暗黒の底に縛り付けたのだ。
自らの身勝手な都合で子供を切り捨て、責任を押し付けた身勝手な大人たち。
「くだらないわね」
リーゼロッテの口から漏れたのは、氷点下の冷たさを孕んだ吐息だった。
「己の無能と度量の狭さを棚に上げて、小さな子供に『厄災』のレッテルを貼って責任転嫁するなんて。本国のどこぞの王子や無能貴族と、何一つ変わらないじゃない」
「……まあ、どこの世界にも似たような腐った連中はいるってこったな」
カインは苦笑しながら、手帳の書類を整理した。
「ギルド本部のデータベース照会をかけたが、帝国側にも魔界側にも、こいつの『公式な捜索願』は一行も出てねえ。要するに、記録上は『最初から存在しなかった子供』として完全に抹殺されてる」
「なら、好都合ね」
リーゼロッテはあっさりと、極めて事務的なトーンで言い放った。
「誰からも所有権を主張されていないのなら、迷宮内で発見された『無主の保護対象』として私の管理下に置くだけだわ。文句を言ってくる権利のある人間は、この世に一人も存在しないということでしょう?」
「おいおい、所有権とか無主物とか、子供をレア素材みたいに扱うな」
カインは呆れたように首を振ったが、その表情には先ほどまでの険しさはなかった。
「……まあ、法的にはその通りだ。戸籍のない迷宮保護対象は、第一発見者であるギルド登録者の暫定後見のもとで経過観察に置くのがギルド連盟の正規ルールだ。俺が特務監察官の権限で『要継続調査個体・暫定保護申請書』を本部に受理させれば、帝国軍部だろうが本国の王宮だろうが、国際法上は一切手出しできねえ。書類の偽造と根回しは俺が完璧にやってやる」
「頼りになるわね、監察官様。お礼に、さっき採取した地下百層の高級薬草茶、一袋分けてあげるわ」
「いらねえよ! また胃が縮み上がるような濃度のやつだろ!」
カインが毒づいた、その時だった。
クシュンッ!
テーブルの向こうで、サブレを食べ終えた少女が小さなくしゃみをした。
二人のやり取りを、紫水晶の瞳をパチクリとさせながら見つめている。
まだ、自分の置かれた状況を完全には理解できていないのだろう。
だが、この二人の大人が、自分を縛り付けようとも、暗闇に投げ戻そうともしていないことだけは、幼い心で確かに感じ取っているようだった。




